第六話 安房の宗富
故郷の戦雲は『知り合いの伝手』で察している。
いまの『お殿さま』――北条氏康公はまこといくさ上手のようで、調略によって切り崩された同盟国・下総千葉家の反乱勢力へ風のように攻め寄せるや、またたく間に平定なされた。
かと思えば、一転、敵国たる安房里見家を逆に調略し返し、先ぶれとして渡海なされていた別動隊と合流。いまや氏康公率いる一万の軍勢は、安房里見家の本拠・上総佐貫城を包囲なされている、とのよし。
「いやはや、武家の主とはすごいものじゃな――」
安房の宗富、と名乗る老人は知己の店にあがり込むや、そのような噂話に興じた。
かつては安房国の山寺の息子だったこの老人は、戦火に寺を焼き出されたのち、数奇な縁あって小田原北条家に仕えている。
いまの宗富は商家の隠居であった。細かくいえば亡き娘夫婦(相州鍛冶の息子に嫁いでいた)の遺した孫の養育のかたわら、小田原北条家の蔵入地(直轄領)の管理をしている。ご先代・氏綱公の御代からの『奉公』である。
宗富が立ち寄っている店――小田原城下の染め物業を統括する津田家の主人は、元は信濃国の中島なにがしという武家の流れであって、流転の日々をすごした宗富には父祖へ向けるようなまなざしをささげていた。
本来、いかに氏康公のお蔵入地を任されている商家の隠居とはいえ、宗富が商売の一線をしりぞいてから時がたつ。
津田家の主人にだって大事な取り引きがあるのだから、知己の隠居の相手は番頭に任せていればいいものを、主人みずからが応接に出ているのだから、宗富への敬意は並々ならない。
もちろん、商売柄、流通が停止してしまう(そのぶん、食糧や武具などを商うものは『ここが稼ぎ時!』とばかりにいそいそと出かけて行くので、商家とひとまとめにしてもうまくないが、津田家のような染め物業者にとり)戦争のゆくえが気になる、というのはあるだろう。
京紺屋、とも呼ばれる津田家の主人は、あたかもダキニ天や大黒さまに愛されているような、福々しい容姿に如才ない笑みを浮かべて、宗富の相手をしていた。
さすがに店の表側は商売の邪魔なので、裏口である。
「せやったら、安房のいくさはもうしまいやろか」
と、上方の言葉の混じった口調で、津田家の主人は言う。よほど販路停止がこたえているのか、あるいはなんらかの知り合いの身を案じているのか。『ホッ』と安堵の息をついている。
しかし、宗富は枯れ木のごとき首をふって『自分の憶測だし、あなたには悪いが』というような断りを入れてから、こう返すのだ。
「そうだったらよいのじゃが、よもや、という場面には何度も出くわした。こたびのいくさがお殿さまの勝ちならよいが、あまり信じられぬ」
「なんでやろ?」
「におい、としか言いようはないが――」
「ああ、せやったら、しょうがおまへんなあ……」
要するに『かん』である。
算盤をはじいて『願いましては~』といつもやっている商家の人間ではあるが、だからこそ『かん』は大事な要素だった。
すべてが計算通りに行く、などというためしがないし、物事をやっていると『不思議なこと』はいい意味、悪い意味の両方と出くわすのだ。そのため、商家といっても信心深いのはたしなみのようなものだった。神霊や精神関係の話は、意外と商家には広く信じられているのである。
そういう視点で今回のいくさを見れば、
「ああ、お殿さんは急いてはるなあ……」
と、気づこうものだ。
連戦連勝といえば聴こえはいいが、すべてが強行軍、と言い換えれば不吉な印象は覚えよう。
先の河越合戦のようにひとつの城をめぐる戦いなら収束のしようもあるのかも知れないが、今回のいくさの場合、下総千葉家の反乱鎮圧のあと、上総国へ討ち入っているのだ。
「風聞に聴く『佐貫武田義信の佐貫城復帰』が、よしんばうまくいっても、安房里見家が『はいごめんなさい。あなたにはもう逆らいません』となるかなぁ、といえば……逆やなあ。足腰の立つうちは、報復を叫ぶんやなかろか」
「わしもそう思う。まして、安房国はこの宗富のお郷。息子たちの店があるのはあるが……なんといっても安房国は海運のかなめ。ことはそう容易ではなかろう」
「ああ――安房国は裕福やさかいな」
津田家の主人はうなづいた。語れば語るほど、戦況への考察は弱々しいものを含まざるをえない。
「陸奥から常陸を京へ向かってのぼる蝦夷の産品には唐(中国大陸)の品物が混じり、まず安房国を中継する。東海道からくだる西国の品々かて同様やさかい……」
「日本国東西の品々は安房国に集まって、また散っていく。わしの息子たちは、わしがそうであったように、海運をいとなんでおる。造船や維持の都合上、伝手をたぐれば日本国全域、あるいは海外にすら通じる」
「なにが言いたいんやろか、宗富はんは?」
「息子たちは息子たちでなんとでもするのだろうが、そう、だからこそ――『なんとでもする連中』のうえに君臨している安房里見義堯が恐いのじゃ。上納金ひとつとっても、安房里見家は繁盛しておろうしの」
「ああ――」
いまや津田家の主人は頭を抱えていた。容易ならざる戦争だと理解できたからだ。
房総半島は米どころ。その南端の安房国は海上交通の要衝にあり、需要の絶えない産品を抱える。その大名たる安房里見家は、領国こそ小なりとて、よほど『強盛』と知れた。
「なんやろ。背筋の寒うなるいくさやなあ――」
津田家の主人の言う通りであった。宗富はおのれの手元を見て、思いあぐねる。
(氏康公は気づいておるのか。大国同士がひとつの城を奪い合ういくさではなく、大国が小国に見える中堅国を攻め滅ぼさんとするいくさになっておる、と。これはよほどの大事業じゃ。まかり間違っても強行軍でやるべき案件ではない――)
宗富はそう思い、こぼしてしまうのだ。
「なにかひとつ間違えれば……危ういのう」
「まあ、しかし、アレや。いまのところはうまくいってるんやろ? 上総佐貫城は陥落間近。やれめでたや。今後も商売繁盛や。えろうすんません、おおきに! ……ということで、よろしおすな」
と、津田家の主人がお澄まし顔で背筋を伸ばし、手を叩いた。
要は、
『暗い話題はこれでおしまい』
と、言いたいのだろう。
気分が下がっていた宗富はうなづき、よっこらせ、と壁に立てかけていた杖を手繰り寄せ、立った。
「ではの~」
と、ふらっと出ていく。
お帰りでっか、とは言われない。話題が尽きれば帰る。いつもの宗富と津田家の主人だ。しかし、ふたりはそうでも、縁者に変事があるのなら、ふだんとは違うだろう。
「お孫さんのことはええんでっか」
津田家の主人に問われ、宗富は難しい顔で裏口の空をみあげた。
「孫の決めたことゆえ――なんともかんとも」
好きに生きてきた自分に、孫の行動を止められようか。『帰る』意味で杖を軽くふって、宗富は歩き始めた。自分でも分かる程度には、肩がしょげていた。
宗富の孫――相州鍛冶の息子たる利八は、元々侍に縁のある生まれと宗富の功績を活用して足軽になっていた。すなわち、武家身分の最下層にぶらさがる身の上を選び、いまは、お城のどこかの曲輪を守る兵のひとりになっているはずであった。
(なんでよりによって侍に――)
利八とて宗富の思いは汲んでいよう。だからこそ、か。
利八は足軽になってから、さっぱり家に寄りつかないのだった。叱責されると思っているのか。そんなことはないのに。ただ、
(なんで侍になったのか、くらい、教えてくれてもよいのに。のう、利八や――)
宗富は孫を思い、ため息をついた。