第十四話 戦争準備と開戦
好気性の硝化細菌を利用し、人為的に土壌へアンモニアをくわえることで、なんやかんや(酸化)があって、硝酸塩ができ、その産物たる硝酸カルシウムが生成される。いろいろ精錬工程をはさむが、結果として、できあがる結晶体が硝石(上製硝石)だ。
火薬の材料である。
人工硝石の生産法は西洋式(硝石丘法)と和式(培養法)があるが、やり方が違うくらいで、生産量に大差はない(生産拠点の規模による。なお、硝酸の大量生産を可能とするハーバー・ボッシュ法は必要技術レベルが高すぎるので、松千代はやろうともしていない)。
ただし、これらは手間ひまのかかる方法なので、長期的生産計画がいる。短期で硝石が欲しい場合、別のやり方をする必要があった。
つまり、
(いま再現してるのは、硝石丘法でも、培養法でもなくて、いちばん簡単で古いやり方の古土法! ……目的による、目的に。決して妥協したわけではない、決して!!)
と、松千代は印章を持ちつつ思った。熱海の温泉宿。光源を照り返す海原がよく見える大部屋であった。
つまり、逗留先で政務をおこなっている。かなりの数(うず高い事務書類)の決裁をこなすため、
『温泉にでも入らないとやってられるか!』
という、あくなき入浴への意志を、周囲に遠まわしに伝え、こうなっていた。
小姓のさし出す文書類を確認し、押すか押さない――おおむね、工面できる費用か、かかる時間は許容範囲か否か、を基準に可否を決める。迷う案件は提出者と要相談。どうしても決められない場合に限り、幹部会議となる――を、判断していく。
そう、硝石生産技術を再現している、といっても、松千代は指南書を書き、侍臣に丸投げしたくらい。
あとはいつも通り――ぶっ倒れそうになる、多量の政務と私的事業(半官半民の企業の運営)にはげんでいる。
ここ数日は真田幸綱の謀略計画の執行のため、房総半島へ派遣した風魔党の忍びからの報告、兼、事務書類(当然、決裁とともに大金が動く)や、先述の硝石生産、はたまた、火器類の購入のため、松千代の旗本足軽/直属の実働部隊員たる、山下利八郎芳秋らを走らせるなど、多種多様な案件があった。
必然、案件数に応じた事務(行政)書類が舞い込み、
『お、温泉……温泉に入らないと……死ぬ……――』
という心身の一時的荒廃を招き、(温泉はともかく)多量の執務に付き合わされる側近層とともに、政務の場は混乱をきわめた。あきらかにオーバーワークであった(ただし、原因は安房里見家の攻勢と駿河今川家の文句にあるのだから、外的要因であり、第三者視点でいえば、松千代のせいにするのは的外れだろう)。
機密に属する帳面を臨時のパートさんに見せるのはダメだし、急場の人員増は完全に自殺行為なので、目がまわるような時は目をまわしながらやるしかない、という無慈悲な状況であった。
それでも、松千代は数え十歳の肉体年齢を考えれば英邁というか……側近層をふくめ、ひとなみ外れた働きぶりであったろう。この段階の最優秀者は間違いなく臨時執務室(温泉宿大部屋)にいるすべての人間であった。
よって、
(ことあるごとに部下は褒めてるし、事後は休暇とボーナスの約束をした! 交代要員は新卒というか、今後、元服してくる侍層を中心に求め、育成する考えだから、時間がかかるけれど、ちゃんと見つけるって言った。すまない……すまない……! そしてありがとう……これから、みんなの苦労を減らしつつ、組織体制の継続をはかるからぁ~……――)
耐えてくれぇぇ~、と、松千代は涙ながらに、えがたい指導方針を学習していた。
なお、硝石生産技術の指南書は漢籍を参考にした、と松千代は説明していた。侍臣たちは、なるほど、と納得している。この説明は間違いではなかった。少なくとも培養法は漢籍を参考にしたと考えられている。
もっとも、培養法の参考書とおぼしき漢籍は、数十年後に明朝統治下の中国大陸で刊行される書物(本草綱目・一五九六年出版)をふくむので、オーパーツ(現在・一五四八年には存在するはずがないなにか)であった。
ともあれ、古土法の一時(緊急)採用は致し方がない。
限定された時間を用いて火薬――特に日本では入手の難しい材料たる硝石を獲得するには、再採集に二十年かかる古土法を用いるしかない(硝石丘法や培養法の場合、最低三年。基本は四~五年である。先述のように手間ひまがかかるし、軍事技術ゆえの秘匿を考えれば、僻地からの運賃もかかろう。まさに長期的生産計画が必要であった)。
古土法の場合、生産というより、抽出のみをおこなう方法といえる。
既存の硝酸カルシウムの蓄積された古民家床下の土や、通気性のよい洞窟の底土をさらい、精錬工程をふむからだ。
「……しかし、安房里見家の攻勢を受けるのではなく、むしろ、誘う、か」
松千代はつぶやいた。真田幸綱の謀略案である。かの謀将の作戦案は、根っこの部分だけ述べれば、ひどく平易である。
『海で勝てないなら、陸で勝てばよろしい』
ということなのだ。
(考え方そのものは分かりやすい。要はこっちの得意な戦場での勝利をめざし、その勝利を海戦の勝利につなげればよい、ということ――戦史上、いつくか類似例のあるやり方ですな)
などと松千代は思った。
(フフフ、オレは歴史の知識はあるからな。戦史上の類似例をいじることならまかせて欲しい――そんなノリと勢いで笠原・清水の両ジイを説得したけど、ほんとうにこれでよかったんだろうか……――)
と、松千代は(仕事上の疲れからか)少し憂鬱になった。もちろん両ジイの説得ののち、
『こういう防衛計画はどうでしょう~?』
と、松千代は父・氏康へ連絡をとった。松千代は韮山領のトップであり、小田原北条家の幹部、という立場になっているから、いわば小田原北条会社の子会社、あるいは指定暴力団・北条会の二次団体とかだから(韮山は松千代のシマ、各種製造・販売業はシノギといえばそんな感じではある)、とにかく氏康の指示は必要であった。
氏康の返答は、まず、
『意見具申してきたこと、殊勝である』
と、松千代がちゃんと報告・連絡・相談をしていることを褒めたあと、
『おまえがやれると思うのならやればよい。詳細は安房里見家の動向次第で決まるだろうが、そうなれば、こちらから、該当地域の部将・代官へ韮山城代のさしずを受けるよう、申し渡すであろう』
と松千代の背中を後押しする内容となっていた。おや、少し甘すぎないか、と思うひとはいるかも知れない。これには理由がある。
氏康から見れば、主戦場は武蔵北部から上野にかけての山内上杉領国へ移行しているから、伊豆・相模・武蔵南部・上総の一部の沿岸部の諸城とその担当責任者たちに求められるのは、無慈悲なことをいえば、山内上杉領国への経略達成(または、最低限の前進拠点づくり)までの時間稼ぎにほかならなかった。
氏康が松千代にいくらか甘い態度なのは、この次男坊への信頼(※)はもちろんだが、それ以上に、どこかで、対安房里見家への限定的な防衛戦争をせねばならなかったから、であった。
(※)第三者から見れば、松千代とその幕僚らは仕事を丸投げしても不平不満をいわず、なおかつ、難局のひとつの打開策といえる領国改造計画を提案し、それにまい進しつつある、いわば魅力的な発想と行動力を示している集団だから、評判は高めであった。氏康個人としても、この優秀な次男坊に次世代重臣としての成長を期待している向きがある。
もちろん、主目的は本隊の転進が可能になるまでの時間稼ぎなので、安房里見領国への侵攻とかは認められないが、敵戦力の迎撃を可能とできるのなら、行動自体を封じるものではない。
ともあれ、松千代は氏康の許可をえている、ということだ。
(よし)
松千代は頬をたたき、決裁の山にいどむのだった。なにをするにしても、安房里見水軍には勝たねばならない、ということだった。
――ところで、松千代がおのれの頬をたたく態度は周囲の人間も見ていた。
特に、事務書類とその相談のため、松千代に面会すべく、真田幸綱が廊下を歩いていた時のことだったから、遠目に認識した幸綱はある種の感動を覚えた。君臣ともに健気なはたらきぶりが、大部屋にはあった。
幸綱は立ち止まって思案した。新参者でしかない幸綱は、自分の身の処し方でまだまだ考えねばならないことが多かった。
房総半島の国衆への調略は安房里見家を挑発する行為だが、言い方を変えれば、必ず報復に出る、ということ。この調略の目的は成否にはなく、調略した、という事実にある。
安房里見家の動き方は当主・義堯の本隊が下総千葉家領国を食い荒らし、別動隊が水軍とともに小田原北条家領国の沿岸部を荒らしまわる、という傾向にあった。幸綱の所属する韮山領が対処せねばならないのは後者である。
つまり、調略していた、という事実さえ流せば、安房里見家は国衆の離反の可能性を考慮し、必ず戦力の一部を残置、戦力が減退する。報復的な出兵を誰が担当するにしろ、作戦と指揮が制限され、難しいものになる、ということだ。
あとは『海上優勢』といえる安房里見家が『狙う場所』を見きわめればいいのであって、以後、戦争努力のすべてをその一点の勝利に向けて推し進めるべき……という意味合いのことを、真田幸綱は建策したのだ。
もちろん、幸綱から見れば、提案したことを、
『分かった。あとのことはこっちにまかせて。あなたは新参衆(高級傭兵部隊。ほぼ常備軍と呼んでもよい)の中核部隊の編成をよろしく! 準備ができたら、調略の担当をお願いしますね。一緒にやりましょう!』
と、かたく手をにぎって、実現へ動き出してくれる主君ほど頼もしいものはない(松千代の場合はさらに自分で考え『いろいろ』やる、という敏腕ぶりである。これを支える侍臣たちの活躍はいうまでもなかった)。
これは感謝と尊敬の対象として充分だった。松千代は知らないだろうが……幸綱は深く感動していた。
家臣の才能を知らぬ主君ほどうらめしいものはない。その真逆ならば、端的にいって『名君』の素養がある。幸綱はそう見ていた。
◇
天文十七年(一五四八)三月末。
安房里見家の軍事召集・動員令を風魔党の忍びが探知、伊豆韮山領へ急報された。松千代らは北関東を転戦する氏康(※)へ、指示をあおぐとともに、これ以上の戦争準備をあきらめ、現段階でおこなえる最大限の迎撃作戦の発動へそなえた。
※北条本隊と対峙していた岩付城の太田資正は一月末に降伏。北条家上層部は資正らの身命を助けることと引き換えに臣下の礼をとるよう求め、『岩付太田家』側でこれを受諾。氏康らはそのまま北関東へ兵馬を進め、山内上杉家の治める上野国へ攻め入る前に、その隣国・下野の各領主層へ活発に外交および軍事支援をおこなっていた。
南関東沿岸部・北条領国防衛作戦の名目的総大将に北条松千代丸が任じられたのが四月二日。該当地域の諸将のうち、持ち場を離れられる部将・部隊が移動を開始したのはその数日後であった。
伊豆水軍が先行し、松千代ら韮山領の軍勢、すなわち、韮山衆三百人(大半は雑兵/民兵であった)が、多数の荷駄をともない、諸将の参陣予定地、相模国鎌倉・由比浦(現・由比ヶ浜)へ入ったのは四月六日。
このころ、下総千葉家領国では、すでに江戸~葛西城をあずかる遠山綱景らの東部方面軍の先鋒と、安房里見家の先鋒とが衝突していた。松千代はそれを自分につけられた風魔党の忍びから知らされた。
安房里見家の本隊が動いている、ということは、近日中にこちらへ里見水軍がくる可能性が高い、ということだった。松千代らは迎撃準備を急いだ。来ない可能性と来る可能性の両方あったが、真田幸綱は『来る』と考えているようだった。松千代はそれを信じた。
古来より宗教・文化的な面で都市部を形成したこの鎌倉は、門前町がさかえ、物資の集積散地として、時の有力者に利用されてきた。平時であれば多数の宗教文化財の集中がもたらす、観光都市としての繁栄が約束された、武家の古都であったが、この場合、里見水軍が狙うのは鎌倉の持つ兵站基地としての側面――つまり、鎌倉門前町の破壊であった。
松千代らは鎌倉を守らねばならない。そうすることで安房里見家の戦略を破綻させ、ひいてはその水軍を撃破する。おおまかにいえば、そういう作戦であった。
本陣を高台の寺にすえ、陣幕を張るのもそこそこに、松千代みずからが農具のスキ・クワ・モッコを使って野戦陣地の構築にはげむ。たぶんに名目的とはいえ、御大将にそうされたのでは、侍衆とていやおうはない。
侍・足軽・雑兵の区別なく突貫工事をおこなうなか、安房里見水軍の船影が海上に姿をあらわしたのは四月八日の朝であった。




