第一話 かれが死んでも世界は続くし、かれが死んでもかれの魂は終わらない
小説の書き溜めをつづってからスマホをおく。
誰に見せるわけでもないのだが、本人、決めたら続けないと気が済まないタチなのだ。
時刻は午前二時をさしている。
今日もか、とかれは思った。
十五歳。高校一年生である。
かれは周囲の子とくらべても将来設計がしっかりしている――大学で日本史を履修し、ゆくゆくは研究者になろうと考えていた。
かれの両親は海運業をいとなんでおり、だから家庭生活はほとんど子どもたちや、親戚の自主的精神に頼むところ大――すなわち、放任主義だったけれど、金に糸目をつけない豪放さはあった。
少なくとも、遠慮が必要な家庭の生まれでないのは、かれの幸福であった。
ただ、禍福は糾える縄の如し。
かれの幸運は不運とも連なっていた。かれ自身、気をつけていれば――あるいは家族に体調不良を訴えていれば――なにか変わったのかも知れない。少なくとも、本人か、家族が、大事になる前に徹夜を止めただろう。
最近、動悸が激しくなることがあった。
かれは今日――すでに明日になっているが――くらいは寝よう、と思った。日ごろ三時間程度の睡眠しかおこなっていないかれは、恒常的な疲労を覚えていた。眉間をもんで椅子から立ちあがり、ベッドへ行こうとした。
――とたん、倒れた。
心臓が鈍痛を発している。かれはまとまらない思考のなかで、まず、妹のことを思った。次いで弟。それぞれ『我が家の変態枠と常識人枠』という茶化し方をおこなう長男のかれは、だけれど、妹と弟を愛していた。
(泣かれるだろう)
妹はそう。中学生ながら、すでに職人的な域に達しているイラストレーターの彼女が生活に困る姿は想像できない。常識人としか言いようのない生真面目な弟も、きっとなんとかなるに違いない。少なくとも、父母親戚一同、支援を惜しまないはずだ。
本来なら、その一族のなかに自分が含まれるはずだった。妹の身辺警護の一助に、自分がいるはずだった。弟の愚痴に付き合うのに、自分がいるはずだった。かれはすでに自分におとずれる『なにか』を察していた。
(ごめんな――)
かれは心中でそうつぶやくと意識を手放した。かれが肉体的な死を迎えるのはもう少しあとだった。
――かれの部屋に目立つ点があるのなら、本が多いことだろう。特撮のDVDやゲーム機、ラノベ(戦記物)、あるいは二重底の箱のしたの『お宝』もあるが、さすがに人文学コースを歩もうという少年だけあって、思想史や社会経済史などの蔵書が豊富。
うち、日本史の叢書などは本棚の四割ほどか。少ないように感じるかも知れないが、部屋一面の本棚のうち四割といえば、なかなかのものだろう。知人の伝手をえればもっと広範囲の知識を持てる、という末恐ろしい少年であった。
惜しい。本来なら、それでおしまいの少年だった。
このころ、近場を通る霊道――すなわち、浮遊霊の通り道に異変が発生していた。本来なら神霊の監視下におかれているそれは、神霊自身、意図しないバグ、不規則な挙動をおこなって霊道機能に不具合をもたらしていた。突発的な事故といえよう。
早く対処しないと周辺住民に悪影響が――たとえば、並大抵の人間では対処不能な凶悪な存在があふれ出てくる事態にもなりかねない。
神霊はただちに決断した。すなわち、問題の霊道周辺を一時的に亜空間に収納し、原因究明と機能修復をはかろうというのである。しかし、問題の連鎖は止まらなかった。
霊道の異変を察知した、よからぬものどもが、現世への格好の通り道を求めて、そこらの浮遊霊のうち、邪念のあるものを傘下におさめつつ、異界からせりあがってきたのである。
神霊ですらむせかえり、人間なら昏倒程度では済まない邪気/瘴気を帯びた群れが迫りきている。
もはや一刻の猶予もない――神霊は苦渋の選択をした。亜空間への収納ではなく、問題の横流しをはかったのだ。横流しというと言葉が悪いし、最善の策ではないが、次善の策ではあるのだ。なにもしなければ、現世は堤防の決壊した低地に等しくなるだろう。
世界はひとつではなく、複数の世界が隣り合っていた。
問題の発生した世界は二十一世紀。人々の経済的困窮は近世にくらべれば改善されたものの、霊的守護に人々の大半が無関心。つまり守護霊の注意喚起が届きにくいため、退避が遅れがちという、痛しかゆしの時代だった。
この世界の人間の霊的自衛能力に期待できない以上、霊的防衛に守護霊各位の注意喚起が届きやすい並行世界へ、問題の横流しをはかるのは当然であった。いわば、一時の時間稼ぎである。
問題の霊道はそこであらためて亜空間に収納し、原因究明/機能修復ののち、元々の設置区画へもどすであろう。
唯一の懸念は無理やり並行世界につなげるのだから、次元移動に巻き込まれた霊的難民の発生――輪廻転生に不具合をきたし、前世の記憶を色濃く残した赤ん坊が先方の世界に生まれる、ということだったが、問題の重大さを思えば、目をつむるほかなかった。
そのころ、
(あれ? オレ――)
と、自分の死体を見おろしていた少年は、まさにその瞬間、時空のうずに呑み込まれた。近場の浮遊霊の一切合切を呑み込んだ霊力のうずはしばらく周辺に不可視の紫電をまき散らしたが、やがて終息した。
翌朝、長兄の死体を見た妹は卒倒し、あとで泣きわめくだろう。冷静な弟は呻きながらも家督相続者としての自覚に目覚めるに違いない。周辺の霊的異変に気づいた数少ない≪勇者≫が混乱に対処するため、結界を張るのだろうが、すべてはこの世界の話だった。
なお、並行世界の時間軸は十六世紀中葉。日本・関東地域。
世は『戦国』と呼ばれていた。