癒しのお菓子 その3
「お嬢様、ふたりっきりになったからって、殿下に襲いかかっちゃダメですよ。『わたくしたちは婚約しているから少しくらいいいでしょう』っていうのはなしでお願いします」
「なっ、ライディ、あなたはわたくしを何だと思っているの!」
とんでもないことを耳元で囁く従者をにらみつけて、侍従に案内されたわたしはレンドール王子の部屋に入った。
襲いかかるですって?
残念ながらあんなキラキラ眩しい生き物に襲いかかるなんて勇気は持っていませんからね。
「失礼いたします」
誰もいなかった。
とりあえず、クッキーの入った紙袋を持ったまま、そこにあるソファに座って王子を待つ。
「待たせたな」
「レンドール様、ごきげんよ……ひぃっ」
立ち上がり、現れた王子に向かって挨拶をしかけたわたしは、喉から変な声を出して息を呑んだ。
思わず腕に力が入り、胸に抱えた袋から、嫌な音がした。
王子、なんで上半身裸なんですか?!
男の子の半裸なんて学校のプールの時間で見慣れているはずなのに、心の準備もなく見てしまったレンドール王子の身体はわたしのメンタルに大きなダメージを与えた。
だいたい、かっこよすぎるのだ。
服を着ている時にはわからなかったけど、細身だけど鍛えている身体は筋肉の形がはっきりわかっていて、芸術のように美しい。
肩のあたりは綺麗な三角を描いていて、お腹なんて腹筋のすじが入ってしゅっとしている。
腕のラインもしっかりついた筋肉で男らしくたくましい。
これはやばい。
この目のやり場に困るくらい魅惑的な身体に秀麗な金髪の美形顔が着いていて、わたしに向かって笑いかけてくるのだ。
全身の血流が一気にアップして、いろいろな血管に負担がかかってまずいことになりそう。
主に鼻の血管が。
わたしは鼻を押さえ、大きく後ずさった。
「丁度今、剣の訓練をしてきて湯浴みをしたところなのだ。授業でやるだけでは足りないからな」
そんなことを言いながら、肩に引っ掛けてきたシャツに腕を通す。
お付きの者が世話をしに来ないところを見ると、彼は身の回りのことは自分でやる主義らしい。
器用にボタンを留めると、わたしに近づいてきた。
「そ、そうなのですか。ご熱心ですわね」
だからいいお身体をなさっているのですね。
今夜の夢に出てきそうだわ。
「近衛が付くと言っても、いざという時に自分の身を護れるくらいに鍛えておかないとな。人の力に頼ってばかりのお飾りの国王にはなりたくない。お前もそうだろう?」
「はい?」
「お飾りの王妃になりたくないから、がんばって教養を身につけているんだろう」
「……そうですわ」
わたし……ミレーヌは、上から目線で威張っているだけではなく、レンドール王子の横に立つのに相応しくありたいと思って、幼い頃から努力を重ねてきたのだ。
それを、レンドール王子はわかっていてくれたの?
「いろいろ迷走することもあるが、お前はなかなかよくやっていると思うぞ」
「レンドール様……ありがとうございます」
ものすごく優しい笑顔で誉められて、わたしは嬉しくて、今度は別の意味で顔が熱くなった。
そっと手で頬を押さえる。
「充分強くなって、お前の身は俺が護ってやるからな、安心してそばにいろ」
この部屋に誰もいないからですか?
甘い! 王子がものすごく甘いんですけど!
大好きな、飛び切り素敵な王子様にそんなことを言われ、わたしは嬉しすぎてクラクラした。
マジ倒れそうです。
「それで、俺に何の用事だ?」
そうだ、王子の素敵発言にぽおっとして用件を忘れるところだった。
「ええとあの……その前に、ひとつお聞きしてもいいですか?」
「かまわない」
「今日はどうしてレンドール様のお部屋に入れてくださったのですか? いつもは玄関までなのに」
出入り禁止が解除されたのかしら。
「あれは、お前が愚かな振る舞いをしていたからだ。メイリィに妙な対抗心を燃やして俺にべたべたまとわりついて、ここまで押しかけて来て。だから、少し距離を置こうと思ったんだ。でも、どういう心境の変化があったのか知らないが、ここのところのお前はまともに戻ったらしいからな、許可した」
「あ、えーと、すみませんでした」
変に嫉妬して、馬鹿なことやってましたすいませんっ!
うっかり素の自分で謝ってしまう。
さっきのライディの『襲っちゃダメ』発言も、その辺りからきたのだろうか。
「そのことに関しては、言い訳しようもございません。ご迷惑をおかけしました」
「ああ、迷惑だった」
うわーん、キラキラした笑顔できっぱり言わないで!
「ええと、でもですね、メイリィとの問題は解決しましたわ。今日はメイリィと一緒にお菓子を作ったのでお持ちしましたの。……あら?」
紙袋を振ったら、何やら不穏な音がする。
そっと紙袋をのぞくと、なんとクッキーが割れていた。
さっき、レンドール様の裸を見てびっくりした時に、手に力を入れちゃったせいだわ。
「申し訳ありません、クッキーが割れてしまいましたの。こんなものをレンドール様に食べていただくわけにはまいりませんわ」
せっかく上手にできたのに。
わたしがしょんぼりしていると、頭の上に手が乗った。
そのまま、ぽんぽんと軽く叩かれる。
「そんなにがっかりするな。お前が俺のために作ってくれたんだろう? 多少割れたからって気にしない、腹に入ってしまえば一緒だからな」
そういうと、レンドール様は侍従を呼び、テーブルにお茶の用意をさせた。
「ここに座れ」
ソファの隣を示されたわたしは、レンドール様の隣に座った。
今日のレンドール様はとても機嫌が良く、いい雰囲気なので、わたしは嬉しくなった。
「メイリィが素朴なクッキーの作り方を教えてくれましたの。木の実や果物が入っていますのよ。普段レンドール様が召し上がっている高級なお菓子とは違いますけど、たまにはこういうのもよろしいかと思いました」
「そうか。怪我などしなかったか?」
「はい、大丈夫です。わたくしが火傷をしないようにって、メイリィがとても気をつけてくれて……まるでお母様みたいなんですのよ」
レンドール王子は面白そうに声を上げて笑った。
「すいぶんと大きな子どもができたな。彼女はしっかりしているしお前はうっかりしているから、ふたりの様子が目に浮かぶ」
「まあ、ひどいわ。でも、美味しくできましたの。焼き立てをライディの口に放り込んだら彼も美味しいと言っていましたわ」
「なに?」
それまで和やかだった雰囲気が、急に険しい顔をしたレンドール王子のせいで一転した。
「……俺のために作った菓子を、俺が食べる前にあの男に食わせたと?」
「え、あの」
わたし、地雷を踏んだ?!
「しかも、お前の手ずから口に入れたというのか」
「違うんです、味見をさせただけなんです、たまたま護衛で近くにいたから」
「そうだな、あの男はいつもお前の近くにいるな」
だって、侍従だもん。
ボディガードだもん。
それは近くにいるでしょう。
「ミレーヌ……あまり男に気を許すな」
レンドール王子が、思わず離れようとしたわたしの腰に手を回して、ぐいっと引き寄せて言った。
「お前はもう15だな? 15にしては少々振る舞いが子どもじみている。やっていいことといけないことの区別がついていない」
「レンドール様」
近い! 近いよ!
わたしは彼の胸板を両手のひらで押したけれど、まったく離れてくれなかった。
「申し訳ありません」
「何がいけないのか、わかっているのか?」
あーん、綺麗な顔が迫ってきて怖いんですけど。
こういうのこそやってイケナイことだと思うんですけどっ!
「レンドール様、ごめんなさい、謝るからちょっと離れて」
涙目になったわたしが言うと、彼は鼻と鼻がくっつくんじゃないかと思うくらい顔を近づけて言った。
「お子さまのミレーヌも、さすがにこうすると危機感を感じるというわけだな」
至近距離でしばらく見つめあい、わたしがぶるぶると震えていると、レンドール様が笑った。
「俺たちは婚約しているのだから、少しくらいいいだろう?」
わー、どっかで聞いたセリフだよ!
ライディに釘を刺されたやつだよ!
「いけませんわ、お願いです、離して」
とうとう一粒、ぽろっと涙をこぼすと、レンドール様はそれを親指で拭って言った。
「……では、仕置きを与えよう」
どうしてこうなった?
クッキーの袋を抱えたわたしは、ソファでレンドール様の膝の上に横抱きにされていた。
「それでは、お前が作った菓子を食べよう」
「でも、これは」
「早くしろ」
とろりと蕩けそうな笑顔のレンドール様が言う。
わたしは割れたクッキーを指先で摘むと、少し開けた美しい唇の間にそっと差し入れた。
慌てて指を引っ込めると、レンドール様がクッキーを咀嚼する。
「うん、なかなか美味いぞ」
「それはよかったですわ」
「もうひとつ寄越せ」
なんだか猛獣に餌付けをしているような気分だ。
またかけらを摘むと、開いた口の中に入れる。
その手をつかまれた。
「きゃ」
声を上げたわたしの目をじっと見つめがら、レンドール様はわたしの指ごと口に含んだ。
「やあっ」
指先をねっとりと舌で舐められたわたしは、小さく悲鳴をあげる。
「美味い」
舐めた!
指舐められた!
「何をなさるのですか」
「菓子の粉がついているから、舐め取っただけだが」
「舐め取っただけって……普通こんなことをしません」
「ほら、早く残りを食べさせろ」
聞いてない!
妙に色っぽい顔をした金髪のキラキラ王子様は、有無を言わせず命令する。
「うう……」
「こういうことをしていいのは、俺だけだからな。わかったか?」
「でも……」
「でもじゃない。こんな真似を他の男にしたら、そいつを殺す。だから、二度とやるな」
「ライディは指を舐めたりしていません!」
「当たり前だ。舐めていたらあの男を斬り捨てている」
「!」
「早くしろ……それとも、口移しでくれてもいいが、どうする?」
「ひいっ」
急いでクッキーを摘んで口に入れると、今度は手のひらまで舐められた。
「甘いな」
半ベソをかいたわたしが袋の中のクッキーを全部食べさせるまで、この精神力をガリガリと削るお仕置きが続いたのだった。
「うわあああああん」
自分の部屋に戻ったわたしは、ベッドの上で叫びながらごろごろと転がりのたうち回った。
そんなわたしを冷たい目でライディが見ている。
「襲ったんですか? 襲われたんですか?」
「どっちもないわよ!」
でも、襲われた気分でいっぱいなのは、わたしの勘違いなのかしら。
「レンドール様のやることがわからないの! なんであんなに怒るのかしら」
「何をして怒られたんですか?」
「……ライディの口にクッキーを放りこんだことを言っただけ」
「ばっかですねー、お嬢様は本当にばかです、なんでそんなことを言っちゃうんですか。言っちゃダメな事がわからなかったんですか。狼を逆撫でしたようなものですよ」
「わからないわよ! どうして怒られたの?」
「……これは殿下が気の毒ですね。先が思いやられます」
従者はため息をつき、わたしは枕に顔を埋めて唸った。
とりあえず指を拭きたいけれど、あんなことをされたと口にしてはいけない気がする。
それに……思い出すと色っぽいレンドール王子の顔が目の前に浮かんできて、胸の動機が激しくなる。
「ああもう、男の方の考えることがさっぱりわからないわ!」
「お子さまですからね。仕方ないですから、そうやっておいおい学んでいってくださいお嬢様」
ミレーヌ15歳、どうやら大人になりきれていないらしいです。