第一話
浮上する意識に従って瞼を上げた先、広がる視界に映ったものは見覚えのない天井だった。体を起こし、周りを見渡しても、覚えのあるものは一切ない。
広い洋室には、派手ではないが赴きのある調度品が置かれている。それらが決して安物ではないことは、部屋の雰囲気からなんとなく感じ取っていた。
自身が眠っていたベッドも大人三人が寝ても平気なぐらいの大きさの上、肌触りや弾力性も抜群。しかも天井つきだ。これで高くない方がおかしい。
どこかの城の寝室の様だ、と感じながら辺りを見渡していると、軽いノック音の後に扉が開いた。
「起きていたのか」
現れたのは黒髪の青年。
彫刻の様に整った美しい顔立ちをした彼の低く、それでいて甘い声がわたしの鼓膜を震わせる。
獣を思わせるしなやかな動きで距離を縮めた彼が、ベッドの端に腰を下ろした。
「身体は大丈夫か?」
覗き込むようにして尋ねてきた彼の切れ長の瞳と目が合う。その瞳が放つ金色には見覚えがあった。
靄の様なものに覆われた意識の中、この色を見た気がする。
だからと言ってこの人がその金色の正体だったのかは分からないけれど、それでも見覚えがあるものがあったという事実に少しだけ肩の力が抜けたのを感じた。
青年に頷いて見せるとそうか、と呟く。どこかホッとした様に見える彼の表情に驚きと戸惑いを隠せない。
「無事でよかった…」
しかし、次の瞬間に彼がこぼした言葉になんだか温かいものが胸の奥で広がった様な気がした。
「俺の名はルークだ」
ルークと名乗った青年が目で名を尋ねてきているのを察し答えようと口を開く。
「―――――」
しかしその口から声が出ることはなかった。どれだけ口を動かしても出るのは息の、空気の音だけ。
自分の喉を両手で触れ、わたしは唖然とした。
なぜ、という想いが頭を埋めつくしていく。
「声が、出ないのか…?」
沈みかけていた意識はその低い声によって引き戻された。
肯定を示したあたしに彼は立ち上がり、端にある棚を漁り出す。すぐに戻って来た彼の手には紙とペンが握られていた。
「書いてくれるか?」
首を縦に振り、紙とペンを受け取る。
『飛鳥 鈴音』と書いた紙を差し出すと受け取った彼は眉を潜めた。
「これは…なんと読むのだ…?」
その言葉に彼とわたしでは使う文字が違うことを悟った。これでは、何も伝えられない。
何故か目頭が熱くなった。霞む視界にぎゅっと目を瞑り俯く。
ポンと頭に重みと温もりを感じた。左右に揺れるそれが彼の手だとすぐに気づく。
「俺の言葉は通じているんだな?」
コクリと俯いたまま頷いたわたしに、彼はちょっと待ってろと言って部屋を出ていく。
無くなってしまった頭の上にあった温もりになぜだか寂しさを感じた。
すぐに戻って来た彼がわたしに手渡したものは何かの表が書かれた紙だった。
首を傾げるわたしに彼が表を指しながら説明をしてくれる。
「これが“あ”を表す文字だ、次が“い”」
表の一番右上から下へと順に指を滑らせる彼。どうやら、あいうえお順に記された表の様だ。
「大丈夫か?」
同じ順番なら文字が分からなくても大丈夫。頷いたわたしに彼が再度名を尋ねた。
「お前の名は…?」
あ・す・か・す・ず・ね
「アスカ…それが名か?」
確認を取る彼に慌てて首を振った。不審そうにする彼に表の文字を使って答える。
す・ず・ね・が・な・ま・え
「つまりアスカはファミリーネームか」
その通りだと頷く。どうやら名前から先に言うのが一般的の様だ、気をつけよう…。
「スズネ……綺麗な響きだな」
彼の切れ長の瞳が柔らかく細められる。その笑みにドキリとすると同時に温かな気持ちが広がった。
自然と零れた笑みを見て、彼が目を見開いていたことをわたしは知らない。