それはそれ 07
赤、紅、緋、朱、丹。辺り一面、赫赫たる世界。焔の世界。紅蓮の炎逆巻く世界。
「これは、なかなかに酷い有り様だな」
名無しが呟く。彼女にとってもこれは、余程の惨状のようであった。
「俺、こんな状況で生き残ったのか……」
唖然とした。壁が床が天井が、ありとあらゆるものが燃えていた。空間さえもが狂ったように燃えているように感じる。
「古い記憶だからな、誇張されているのだろう。実際の過去とは切り離しておけ。でないと呑まれるぞ」
忠告がとんでくる。
確かにそうだ。何年も前の記憶だし、小学校の頃のものだ。正確に憶えているわけはない。
あのとき……いや、このとき、俺は何をしてどこにいた。記憶の淵を探る。
突然の爆発、部屋の中、プレゼントの開封、最上階のスイートルーム、大きなリビング。
周りを見る。ここは最上階じゃない。おそらく最初の爆発があった場所だろう。
上を見上げる。
じっと見つめた。
心臓が荒々しく波打ってきたのを感じる。俺はあそこにいる。
「名無し、こっちだ」
俺は廊下へ出て階段を登る。
廊下も、階段もありとあらゆる場所が炎が蹂躙していた。その中を悠然と進む。
「辺り一面真っ赤で歩きにくいが、熱くないのは助かるな」
名無しの手を引きつつ歩く。
「この先、中島が見たくないものがあると思うが、それは平気なのか?」
言われて足が停まった。
記憶を頼りに進んでいるが、その先というのは、俺が瀕死の状態でいる場所だ。
俺を誰が助けたのか、こんな有り様である。自身による過剰な記憶のせいなのかもしれないが、どうなっているのかはっきりさせたい。
「云っておくが、中島の記憶にないものは再現できんぞ。この状況は、記憶を元に我が輩が再構成した空間であることを忘れるな」
「それってつまり?」
「ここは過去ではないということだ。現状、中島の精神如何によっては暴走する可能性がある。我が輩としては、扉の前にお前を残して一人だけで中を確認したいところだな」
ううむ、思案する。確かに自分の死に際を目の当たりにして平静で居られるはずがないだろう。
「名無しの云う通りかもしれない。俺が見ちゃ行けない惨状がそこにあるのは事実だろう」
「それでも確認したいと?」
俺の眼を見て名無しは問う。
「あぁ、どうしてだか、見てみたい誘惑に駆られている」
「ふむ……ここは思案のしどころだの」
「思案?」
「我が輩が手を取らねば、中島は即座に昏倒するであろう。その状況で、我が輩だけが中を覗く……ことは無理というわけだ。となれば、一緒に中を見ることになるだろう。それは中島の希望にも適う」
「判断としては良さそうだが?」
「だが、我が輩は、中島に中を見せるのを躊躇う。暴走の危険性が非常に高いと踏んでいるからだ。しかし、中を見なければ我が輩が求める核たる情報が手に入りそうにもない。中島を放置して我が輩だけが中を見るという選択肢もないこともないが、そうなればお前は抵抗するだろう」
把握した。
自己の責任でっていうには、危険が大きすぎると名無しは考えている。俺の暴走がだ。暴走することによる直接の被害は名無しには毛ほども無くとも、その後の周りの反応がある。どうなるか推して知るべし。
それに元々、名無しとしては、俺との関係性を極力避けておきたい状況で、そこからどうつきあっていくかを確かめるための行為だ。確信するまえに行動を供にしている今が理に適ってないと考えている。
「……帰るか?」
俺はもう一つの選択肢を提示した。
「それが、最善かもしれぬな」
意外と素直に名無しは同意した。
「意外か?我が輩としてもそう思っている」
「ならどうしてだ」
「中島が、急いていることが危険な兆候だと、勘が告げている。今までの経験から、お前が前に出る様なときは、何かしらの厄災じみた問題が発生している。これもそれに当てはまるかもしれん」
「名無しの空間なのに?」
「我が輩の空間ではあるが、ここは精神世界だ。物理法則など効かんぞ。思考次第で何でもアリなのだからな。だから、中島の暴走を最大限に警戒している。もし、この空間が破れるようなことがあれば、我が輩とてどうなるかわからん」
「そんなに危険なのか」
「つまり、飛行機の中は安全でも、外に出るようなことになれば……」
「なるほど、理解した」
俺の程度に合わせて説明された。帰ったら神秘学について更なる勉強をしなくてはならないようだ。
最上階、スイートルームの前に名無しと俺は立った。
ここも他と変わらず紅蓮の炎が渦を巻いている。客観的事実を言えばこんな状況では確実に焼け死んでいるはずだ。なのに、俺は生きていた。この扉の向こう側で……。覗きたい衝動に激しく駆られる。
それは、俺が生きていることを確認したいためだが、それ以上にどうして生きていられたのを知りたいのである。
それと両親もこの向うにいるはずだ。
「行くか戻るか、ここが最後の選択場所だ」
名無しが冷静に告げてきた。
「この先に俺と親がいる」
ごくりと唾を飲み込む。扉一枚隔てた向うに俺がいる。両親共々いるのを確信している。
だが、なんだ、この震えは。手だけではなく全身が震えている。びびっている?確かめるのが怖いのか?
このままでは、扉の向うを見たとき、自身を抑えることが出来そうにない。確実に暴走する。そんな確信めいた予感がはっきりと解る。
躊躇する。
ここまできたのだが、身体が動けないでいる。
ここまでか。俺は決断する。
「帰ろう。帰れば、また来られるからな」
もう一度、今度は心の準備も万全にして挑戦だ。はやる心を抑え名無しに告げた。
名無しは俺を見上げる。
「そうか、よくぞ決断した。戻るとするか」
淡々と告げられた。
未練は言った後でも残っている。だが、今ではない。今見るべきではないと心に言い聞かせる。
「すまんな、俺がいなければ、この先も見れたのに」
「気にするな。これもまた運命というやつだ」
帰還の準備を始める名無し。
2人の周囲から炎が退き、円周状になにもない空間が出来上がる。
その作業中も俺は目の前の扉を凝視していた。気になるのは仕方ない。本当にあと少しだったんだから。
「見てろよ、次来たときは必ずその扉を開いて見せるからな」
「戻るぞ」
名無しが手を挙げた。空間がゆっくりと揺らいでいく。
その時だった。
扉が爆発した。
中から炎の舌が廊下を舐め回った。
扉の奥の空間。
部屋の中が目に入った。
何かが蠢いていた。いくつものぎらついた目、人の形をしているようでしていない不定形の者ども。
爆発して消え去った扉の向こう、それは人の世界ではなかった。
呆気にとられた。
そんな記憶なんて欠片もなかったからだ。
更にその奥。窓に、窓にっ、窓の向こう側、金色の鱗を纏った巨大な目が見えた。
禍々しさに背筋が凍る。部屋の中の異形共なんかはこれに比べたら何の驚異でもないと錯覚するほどに圧倒的な存在感、威圧感がそこにあった。
あまりの衝撃に叫び声も凍りつき、開いた口からは何も発することが出来ないでいる。
あれは、死だ。存在そのものを喰らい尽くす死神だ。あんなものを見た後では、そこらに転がっている人外なんて、人と変わらぬ存在といってもいいだろう。
とにかく圧倒的だった。恐怖、絶望、後悔、後ろ向きな感情なぞ微塵も表現できる隙はない。
思考が停まる。反撃、勇気、怒り、あがらう感情さえも凍結させられていた。
ただ、そこに在るだけで、何もできないことを諦観する。
感情が底の底、どろりとした身動きできないタールの沼地、どん底まで落ちていく。
落ち切った。それを実感する。
落ちて何も無くなったかと思ったとき、一つ、欠片のような小さい感情があるのを発見した。
俺はそれを縋る想いで強く握りしめる。これを手放せば全てが終わる。
それは、“生きたい”という単純な想いだった。
震える。今にも力なくなって、手から零れ落ちそうになるのを必死に堪え、失くさないように握りしめる。
声を出せ、生きていることを証明しろと、欠片が叫んでいる。
俺は、一も二もなくそれに従う。本能だ。
「あーーーーーーーーー!!!!!」
叫んだ。
産声。そうだ、産声なのだ。理不尽な世界に対して生きることを告げる鐘。抵抗の一声。世界に響く産声を力の限りあげる。
俺は生きている、ここにいる、存在していると主張するただ一つの方法。
産声をあげ続けた。
その声に反応したのか、部屋の中の異形共がこちらを凝視する。
もぞりと身体をこちらにむけ………飛び出してきた。
異形の顎が迫り来る。伸ばしてきた手は、鉤爪状で鋭く引っ掛けられると肉を抉られそうだった。
駄目かと思ったが、一瞬早く名無しの帰還が発動し、その場を後にできた。
夜の闇。外灯の薄明かり。岩。池。池に映る月。秋の始まりの少々寒気を帯びた風。風に揺れる木々の葉の音。戻ってこられたようだ。
間一髪、あと数瞬遅れていたら、俺はあの場所へと引きずり戻されただろう。扉を開けていたら、問答無用だったはず。
開けなくてよかったと心底安堵の息を漏らした。ははは、膝が震えてやがる。膝だけじゃなくて全身がだった。
「ホント、あれは一体なんだったんだ」
「中島よ、どうしたのだ?」
「最後、みたろ?あれを」
「あれ?」
………あれあれあれぇ~???
「何を言っているのだ。我が輩が帰還を行ったら直ぐに戻ってきただろう」
そんな馬鹿な、あのギリギリの瞬間のことを憶えていないってことか?
「そんな変な顔をされても困るな。我が輩が構築した仮想空間、結界は完璧だ。中から破らない限り誰にも侵すことなど出来るわけがない」
「いや、だって、そんな……」
怪訝な顔で近寄って覗き込んできた。
「何やら深刻な顔をしているな。何があったかいってみろ」
俺は改めて想いおこしつつ吐露した。
その話をじっくりと考える名無し。
「ひとつ、心当たりというか、こんなこともあるのだろうか」
「それはいったい?」
「つまりだな、我々が戻った後の残滓、結界が解放された僅かな時間に、扉が破壊され中のものがでてきた。それを中島は実体験のように感じ入ったのではないかと……。あくまで推測だが、他に説明がつかん」
「切り変わりの隙をついて、あの異形が侵入してきた……と?」
「いや、そうではない。あの扉の向こう。中島の記憶の残滓がそれを見せたのではないか」
「あんなことがあったら絶対憶えているはずなんだがな……そんな記憶はないぜ」
「余りのことに記憶から消し去った可能性はある。人とはそういう性をもっているだろ」
ありえないことではないが……そうなのか?
腕を組み首をかしげて、思考する。
「もし、本当に異形のものが侵入してきたとして、中島は接触されたか?」
「あぁそれはギリギリのところで回避できたはず。あいつらの手が触れる寸前戻れたからな」
「それなら安心か。そんなやつがいたとして、接触してたからには何か目的があるはずだ」
「目的……それはいったいなんなんだ」
「この状況だけでは解らんな。中島が接触していれば、答えがでたかもしれんが」
冗談っ、あんなのに取り込まれたり、喰われたりするのは真っ平御免だ。
あんな恐怖、もう一度味わいたいとは思わない。
「それにしてもなんだな。我等人外相手には飄々とした態度をしているが、それがそんなに怖かったのか。自分の記憶なのに」
言われて思案する。
確かにあの恐怖に比べれば、寮生の恫喝なんか蛙の面に小便だ。分かり合えないものの恐怖、あれだけは駄目だ。さらに命の危険……ではないな、確実な死がそこにあった。
ホント戻れてよかったわ。
何度か目の安堵の吐息を吐いた。
「まあ、これで我が輩の目的はほぼ達成できたようだ」
「そうなのか」
「ああ、そうだな。これ以上は望むまい。中島の最後の体験、それが我が輩が知りたかったものだ」
「……そう、明確に言われると恥ずかしいな」
「ふっ、気にするな」
巻き込まれた結果なんだが、今更突っ込むのもアレだ。
「それはそうと、今後のことだが、中島よどうするつもりだ?」
「どうって?」
「解ってないのか……まあよい。もし、お前の言う異形がいた場合だ。単純に考えると追ってくるだろうな」
「追って……まじか?」
あんなのに付け狙われるなんて冗談じゃない。まぁ人型の異形はもしかしたらなんとかできるかもしれんが、奥の窓の外にいたやつ。金色の鱗を纏ったあれが来るとなると、死しかない。
一気に背筋に冷たいものが走った。
「我が輩のせいでもあるからな。当分の間、ついておいてやろう」
「ん、身の回りの安全をかってでてくれるのか?」
「本当のことだった場合、確実にお前は死ぬだろ?それは我が輩の本意ではないからな」
名無しの決意が見て取れた。
「もっとも、中島の取り巻きどもがいるからそうそう危険なことにはならんとは思うがな」
そうですねー、皆強いですからねー。
沈黙が流れる。
「中島よ、今夜のこと皆に話すか?」
言われ、俺は思案する。
「いや、云わないでおこう。何がどうなっているのか説明がつけられない。それに心配をかけたくないしな」
というか、余計なことをいったら、軟禁状態にされそうだ。
あと、なんでこんな時間にこんな場所に居たことを説明するのは憚れる。俺の威厳台無しっんぐもいいとこだ。
それで身の安全が確保されるなら多少の我慢もできるかもしれないが、そんな保証は何処にもない。
全くもって御免被る自体になりそうだ。
「そうか」
「そういうわけで、当分間宜しく頼む。お礼に何かできることがあったら言ってくれ。無茶でなければ期待に添うように努力する」
「契約成立だな」
握手を交わした。
「ところで、名無しよ」
「なんだ?」
「その、名無しっての名前じゃないよな」
「そうだな、だがそれがどうした」
「呼びづらい。ついでに言うとドゥルガーってのもな。その名前つーかあだ名だろ。本当の名前はないのか?」
「真汝はあるが、それは教えんぞ。あれは秘匿するものだからな」
「そんな大層なもんでなくてな、普通に呼ぶ名前だよ」
「無いな」
一刀両断である。
「それは困ったな」
「困ることか?」
「オイとかソレとかでは呼べんだろ」
「一向にかまわんが。態度次第で地獄に行ってもらうだけだ」
「駄目ってことじゃねーか。何かないのかよっ」
「なら、中島が名前をつければいい。そうしろ」
ぬぅ、また名前をつけるのか……。多いなぁ。
しばし考える。
「名無しの出身って、確かインドの辺りだったけ」
「そうじゃな、だからドゥルガーなんて字をつけられたからな」
「ふむ、インド、インド、インドねぇ。なんかインドにちなんだ可愛い感じのものってないだろうか」
「知らんがな」
インドといえば、カースト制度。まぁそれは昔の話だが……今でも根強く残っているとも言われてるが……。
ドゥルガーといえば、パールヴァティーとカーリー。えーと、ヒンドゥー教の女神でシヴァの嫁だったけ。ドゥルガーの代わりにパールヴァティー?カーリー?うん駄目です、あんまり変わりません。
可愛いと言えば、やっぱ花とかそっち系で何か……うむん、インドの花かなんだっけか。レンコン…いや、あれ?なんかそんな感じだったような。
「インドの花ってなんだっけ」
「蓮や睡蓮だな」
あっさり答えられた。やっぱ出身地なだけあって知ってるか。
ところで、日本の花ってなんだったけ?………後で調べておこう………。
「ハスとスイレンか……ふむ…、ドゥルガーがレンで、名無しがスイ、2人合わせてスイレンってのはどうだ?」
「……まあ、良いだろう」
あれ?あんまり嬉しくなさそうだな。先に振ってた分バレバレだったわけでもあるし、適当と思われたか?
まぁ半分は適当だけどさ、良い名前だと思うよ。
「はあ、それにしても我が輩が人とこんなことになろうとはな」
「こんなこと?」
「気にするな。ここに来て色々人生観が変わったと言っているだけだ」
「嫌なのか?」
「……いや、そうではない。そうではないが、むず痒い。今までが今までだったからな」
そこらへんのヘヴィな話は報告書にもあったな。それで思い出す。アチュート層、カースト制度は、やはり根強く残っている。
「すまん、やはりその名前はやめにしよう。別のを──」
「構わん」
「……いいのか?」
「皮肉よな。ドゥルガー然り、睡蓮とは。まあ、それも一興。この我が輩が国を代表するものと同一視されるのは。いや、愉快愉快」
ひねくれてるー。
でもまぁ……。
神の名前で呼ばれるよりは、花の名前のほうが断然可愛いに決まっている。
「その名前が嫌になったら、言ってくれ。別の可愛いのを考えるから」
「ふん、気にするなと言ったのに。それと勘違いするなよ、我が輩は嬉しいのだ」
「嬉しい?」
「ドゥルガーなどと、恐怖の対象で呼ばれるよりは立派な名前だ。我が輩のために考えてくれたのだからな」
「そういわれると、なんか恥ずかしいな」
「ふん。ああ、それと中島、お前は我が輩の名付け親となったのだ。これから宜しく頼むとしよう、親父殿」
スイが俺の目を見つめる。
三つの目が輝いていた。
そして、スイは大笑いした。
「俺まだ結婚もしてねーぞーーー」
桜と菊です




