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勇者と慰みの娘




この世界はいよいよ危ないらしい。

長らく魔王の脅威に怯えて暮らして来た人間達は、始まりの国の王を筆頭に、崇高にして傲慢な決断を下した。魔王を打ち滅ぼす為に、異世界より勇者を召喚する禁術を行ったのだ。

それは、この世界に対し何ら責任の無い者をこちらの都合で召喚し、戦いを強要するあまりに非人道な行いだった。そして、人々はそれを自覚しながらも実行する決断を下さなければならないほど、追い詰められていたのだ。


その代わりとでも言うように、人々は異世界の勇者へせめてもの償いとして、慰めを用意した。地位や名誉、財産と共に用意されたのは、若い娘だった。


白銀の髪に、冴え冴えとした青い瞳を持つ、美しい娘。傷一つない肌は陶器のように滑らかで、頬は薔薇色、紅い唇は花が綻ぶように笑みを象る。誰もが眩むような美しさだった。

娘は幼少時より、勇者の慰めとなる為に育てられた。出生も親も知らず、勇者の慰めとして必要な事だけを教えられてきた。

知識も、思考も、表情も、その感情さえ―――――――


だからこそ、娘は勇者の慰めである自身の在り方に一抹の疑問も抱いていなかった。娘はそれしか知らなかった。それに不満を抱く心すら、娘は知らなかったのだ。

そんな娘は迷いない心で勇者を受け入れる。誰よりも美しい面立ちで、誰よりも愛らしい笑顔を浮かべて。

それなのに、


「どうして…!こんな、こんな事が、許されて良いはずがないっ」


対面を果たし、その容姿に見惚れたものの、娘の存在意義を知った異世界の勇者は涙を流していた。唇を噛みしめ、悔しげに怒りを堪えている。その目は、娘を憐れむ為のものだった。


「君は人間だろう」

「そうよ、だから勇者様をお慰め出来る」

「違う!違う、そんなのは人間じゃない。それじゃあまるで………」


勇者は絞り出すような声で言った。娘には分からない、必要のない『感情』というものを込めて。


「人形じゃないか…!」


血を吐くように口にして、勇者は立ち上がる。その瞳にはすでに涙はなく、黒い瞳には決意の光が宿っていた。


「分かった。俺は勇者として魔王を倒す。こんな世界だからいけないんだ。こんな世界だから、君は………」


異世界の勇者は真っ直ぐに娘を見て告げた。


「俺は君を自由にする。その為に魔王を討伐し、世界を平和にするんだ」


勇者の慰み者としてどこまでも純粋に、その年齢を思えば歪みを感じさせるほど無垢に育てられた娘は、ゆっくりと首を傾げる。


自由?


それは、娘の知らない言葉だった。







勇者として異世界より召喚された少年―――ソラは、召喚を行った始まりの国の王との謁見で、勇者として旅に出る際に二つの確約を結んだ。


一つは、討伐が叶えばソラを元の世界へと返す事。

一つは、その際、慰みの娘を自由にし、その生活を保障する事。


何の後ろ盾も持たず、ただ勇者への捧げ『物』として育てられた彼女―――エディスをここで自由にした所で、生活をしていく基盤など何一つ無い。そんな事をしても自由とは名ばかりで、実質放逐となってしまうらしい。

だからソラは、魔王討伐の見返りとしてそれを望んだ。彼は命がけの旅の見返りに自身の帰還と、ただ憐れな娘の幸福を願ったのだった。





エディスは明るい少女だった。

神秘的な容貌に対し、天真爛漫な性格をしており、ひとたび彼女が微笑めば、道行く人々が見惚れて足を止めるほどだった。その可憐ささえ、勇者の慰み者として唯一与えられたものである。


娘は勇者が自身に向ける感情に気付いていた。それは憐れみと悲しみだった。娘はそれの抱き方を教えられる事は無かったが、勇者の表情や現状からそれを感じ取る方法は教えられていた。


「エディスは待っててくれれば良い、って言っただろ」

「ダメよ。エディスは勇者様の慰み者。いつも一緒じゃないと、ソラの事を慰めてあげられないでしょ」


エディスはどこまでも明るく言って、ソラへ身を寄せる。彼は一瞬、顔を真っ赤にして慌てたが、すぐに哀しい事実に気付いたようにゆっくりと彼女を引き離す。


「俺は慰めなんかいらないよ。ちゃんと自分の足で立っていられるから」

「どうして?だってエディスはその為のものよ?」


疑問を呈す彼女の頭を、ソラはゆっくりと撫でる。幼い子どもを宥めるようなその手は温かく、優しく突き放すようだった。


「君は、君だけのものだよ。今はまだ分からないかもしれない。ゆっくりで良いから、自分の心ってやつを探してみてよ」


エディスには、ソラの言う事が、いつもよく分からない。彼はいつも、これまで彼女が教えられてきた全ての事を、優しく否定するのだ。


「俺は、エディスの心が知りたい」


それでいて、彼女を拒絶もしない。ただ、たおやかに突き放し、どこか遠くでエディスの事を待っているのだ。彼女にはまだ想像もつかない、遠い所で。

エディスは元気よく頷いた。うん、分かったよ、と。ソラはやはりそれに、哀しげな顔をする。

きっと彼は気付いていたのだ。エディスのその返事さえ、ソラの望みに合わせただけなのだと。







ソラもまた、明るい少年だった。

エディスとは違い、年相応なずる賢さも、幼さも、虚勢も持っていたが、基本的には快活で朗らかな性格をしていた。

彼は普通の少年だった。ソラ自身、普通であると自認していた。必ず世界を救って見せる、と息を巻くほど自身に夢を見る事も出来ない、年相応に限界を感じるどこまでも普通の少年だった。


ただ、ソラはほんの少しだけ、優しい少年だった。

理不尽を憎みながらも卑怯に翻弄され、弱さを嘆きながらも強さを恐れる。だからと言って誰かの為に逃げ出す事を選べない、そんな優しさを持っていた。

ソラを勇者たらしめている所があるとすれば、きっとそこだったのだろう。

そんなソラのそばには、人が集まる。


彼のその優しく強い人柄に惹かれ、ソラ達勇者一行の旅には徐々に仲間が増えていった。彼らは協力し合い、時にぶつかり、お互いを尊重する素晴らしい仲間達だった。

仲間達は、勇者の『付属品』である慰み者のエディスにも等しく親しかった。ソラに付いて回るエディスを、恋人と言うより鳥とその雛みたいね、と揶揄してソラをからかう事もあった。ソラはそれに少しだけ拗ねた様子だったが、怒る事はない。

エディスは仲間達と過ごす中で、不思議な感覚を知った。


「ソラ、エディスが変よ。みんなといるとね、胸がドキドキするの。飛んだり跳ねたりしたいような気持ちになるわ」


そのときのソラの表情は、長くエディスの未熟な心に残る事となる。

いつも、どこか哀しげな瞳で彼女を見ていたソラが、心の底から嬉しそうに破顔していたのだ。


「エディス、それは心だ。それこそが君の心だ。エディスの心は今、皆と過ごす時間が嬉しくて、わくわくしてるんだ」


エディスには、そう言葉で説明されてもよく分からなかった。けれど、確かにその胸のドキドキは心地良かったので、彼女はその感覚を大事にしまい込んだのだった。







ソラは誰かの為に心を揺らす。

いつもソラは、誰かの為に笑い、怒り、悲しむ。エディスはそれを見ていられなかった。

彼のそんな心こそ、エディスが慰めるべきものなのに、ソラはけしてそれを許してはくれない。

今だってそうだ。先程、ソラがその優しさから無茶をした。エディスがすぐに治癒魔法を施さなければその命さえ危ぶまれていただろう。それでも彼は良かった、と誰かの為に笑うのだ。


だからエディスはいつも、もやもやする。ソラは役に立たないエディスを良いよ、と言って傷付いた心さえ隠してしまう。

仲間達は、それを強さだと言う。揺らいでも、しっかりと心を立て直せるのは強いからだ、と。その点に関しては、いつもソラに厳しい彼の剣の師匠も評価していた。


エディスは、ソラにいつも笑っていて欲しい。エディスは勇者の為に存在する、彼の慰めだからだ。何よりも誰よりも、満ち足りていなければならない。エディスの慰めによって。


「どうしたんだ、エディス?」


ソラはいつものように、暢気に彼女の様子を窺った。しばらく共に旅をして、沢山笑い合ったからこそ、表情を読み取る方法だけではなく、彼の事が分かるようになった。

ソラは沢山の痛みと、恐れと、哀しみを隠して笑う。初めて剣を持ち、師匠に叱責されたときもソラは笑っていた。しかし、その手が恐怖に震えていた事を、エディスは知っている。

そして、彼はエディスの慰めを受けない為にも、一人でその恐怖を乗り越えたのだ。


「エディス?」


ソラは繰り返し彼女の名を呼ぶが、エディスは自分でもどうしてしまったのか分からなかった。

エディスはただ、ソラの役に立ちたかった。いつも誰かの為に傷付いて、無茶をするソラだからこそ、余計に彼女は彼の慰めとなりたかった。その想いはどうしてだか日増しに強くなり、かつて教えられた『役目』を超えて一人歩きしているような気さえする。


反応の薄いエディスから引き離され、何やら仲間達とこそこそ内緒話をしていたソラは、突如彼女を振り返ると驚きに目を見開いていた。その瞳は、キラキラと輝いてさえいるようだった。


「エディス、怒ってるのか?」


言われて彼女は首を傾げた。それはあまりに自身とは縁のない言葉で、禁じられていた類の感情だったからだ。


「怒ってるんだ、エディス。エディス、君は今、怒っているんだ」


それなのに、ソラはあまりに嬉しそうな顔で、エディスの状態を断定する。エディスには分からない。このもやもやが怒りによるかどうかなんて。エディスはそれを知らなかったから。


「ソラのせいよ」


だから、一つだけ分かる事を伝えた。ソラが優しくてすぐに無茶をして、それを慰めさせてもくれないから。だからエディスはもやもやする。

人の事ばかりで、ちっとも自分を大切にしてくれないソラが、エディスは少しだけ嫌だった。







ソラが召喚された始まりの国には、定期的に立ち寄っていた。旅の経過の報告と、物資の補給も兼ねてである。

始まりの国の王は、その度に玉座に座り、勇者一行を出迎えた。


「異世界の勇者よ、旅は順調であるか?」

「もちろんです。だから王様、魔王を討伐した暁には、必ず俺との約束を守ってください」


ソラと王様の約束とは、彼を元の世界へ返す事と、エディスの自由である。彼女にはまだ、自由というものを上手く脳裏に描けない。

始まりの国の王は、何故だかいつもソラとの話が終わると、エディスへその視線を向けた。


「慰みの娘よ。しっかりと役目を果たしておるか?」

「分からないわ。ソラはエディスに何も望まないもの」


始まりの国の王は、いつも厳しい顔をしていた。一国の王らしく、感情を感じさせない冷徹な面をしていた。それなのに、エディスはその瞳の奥に微かに揺れる炎が見える気がするのだ。

用件だけを確認し、すぐに立ち去る王の背が何故だか少しだけ心細く映った。








何も知らなかった慰みの娘―――エディスは裏切りを知った。

それはいかにも残酷なものだった。楽しく、支えあった日々を全て否定されたような気持ちになった。そうして初めて、エディスはこれまでの日々が掛け替えのない宝物であったのだと知る。それは最早、慰みの娘としてはいられないほど、豊かな心だった。


けれど、それ以上にソラを見ていられなかった。仲間を、世界を裏切ったのは、ソラの師匠だった。

裏切りが発覚し、師匠に打ちのめされたソラは、その場から動けずにいた。雨が降り出してもその場に立ち続け、灰色の空を見上げている。


仲間達は、今はそっとしておいてやろう、と言ったのだが、エディスだけはどうしてもソラのそばから離れたくなかった。

掛けられる言葉も無く、名前を呼ぶ事さえ出来ず、エディスは躊躇いがちに一歩を踏み出す。


「来ないで」


しかし、雨音の中でさえしっかりと届いたソラの声は、明確な拒絶だった。


「お願いだから、来ないで。エディスはダメだ。エディスだけは、嫌だ。今の俺は、君を利用してしまうから。哀しみを言い訳に、それを否定しながら、君の解放を願いながら、慰み者だと言う君を利用してしまいそうだから」


エディスは怯えるように肩を揺らす。その在り方を否定される事も、突き放される事も何度もあった。けれど、拒絶されたのは初めてだった。


エディスの頬を温かい液体が流れて、彼女はとても驚く。お湯みたいな雨が降って来たと思ったのだ。しかし、すぐに気付いた。エディスはこれを知っている。初めて会ったときにソラが流していたのと同じもの。

それは涙だった。

ソラが師匠を慕っていたように、エディスもその人を慕っていた。厳しさの中に優しさを織り交ぜるような人だった。冷たい事を言いながら、いつだって思いやりを感じさせてくれた。


けれど、未熟なエディスの心は、裏切りに対応できなかった。衝撃を受けながらも、感情として発露する事は無かった。それが今、ソラからの拒絶が切っ掛けとなって、誤魔化し切れないものとして込み上げる。

エディスは記憶にある限り初めて涙を流していた。そんな感情を知らなかったから、涙もまた、経験のないものだった。けれど今、理解した。この引き裂くような胸の痛みは、消しようのない哀しみだった。

エディスはこれまで、ソラの痛みを何一つ理解できていなかった事を知る。だから、彼女は駆け出した。


「嫌よ、ソラ。それはエディスが嫌なの」


エディスは泣きながらソラの背中を抱きしめる。ソラは逃れようと身をよじったが、エディスはけして離そうとはしなかった。


「今のソラを離しちゃいけない気がするの。今、ソラから逃げちゃったら、もう二度とソラに近付けなくなっちゃう気がするの。エディスが今、離れたくないの」


雨に濡れたソラの身体は冷たく、余計に涙が溢れて来て、彼を抱き締める腕に力を込める。怯えるように震えたソラの温もりを、どうにかして取り戻してあげたかった。


「ごめんね、ソラ。哀しみって、こんなに哀しいのね」


今まで分かってあげられなくてごめんね、エディスは泣いて縋るようにソラの背中に頬を寄せる。一度その身を震わせたソラは抵抗を止め、どこまでも静かに、小さな声で呟いた。


「…………………信じていたんだ」


エディスは、うん、と小さく頷く。


「尊敬してた」

「うん」

「憧れてたんだ」

「うん」

「剣を振るう事の意味も、怖さも、あの人が教えてくれた」

「うん」

「俺は、あの人のようになりたかった」


ソラの師匠は、強かった。その剣の技術もさることながら、魔法にも精通し、何よりその心が誰よりも強かった。ソラは心から師匠を慕い、目標としていた。

だからこそ、これは何よりもの裏切りとなったのだ。


「魔法って無力ね。怪我は治せても、傷付いたソラを癒す事は出来ないんだもの」


エディスは、それは自分自身にも言える事だと思った。勇者の慰めであるはずの自身もまた、無力である。哀しみを知った今、何かに傷付いた心を他のもので慰められるなんて、人の心はそんな風に簡単には出来ていないのだと分かる。

だからソラは今、その心が折れそうな悲しみに苦しめられているのだ。


ずっとどこか遠くを見ていたソラは、初めてエディスを振り返る。その顔は雨に濡れていて、けれど彼は泣いているのだとエディスには分かった。わずかに俯いたソラの顎から落ちた雫が、寂しくなるくらい温かかったから。

エディスが抱きしめる腕を解くと、今度はソラが彼女に手を伸ばす。エディスは自然とそれを受け入れた。


「ごめん。ごめん、ごめん………そばにいて。何もしないから、今だけこうさせて」


ソラは縋るようにエディスを抱きしめる。頭を撫でる以外で、ソラから彼女に触れるのはこれが初めてだった。いつも誰かの為にばかり心を揺らす彼が、初めて自分の為に泣いている。

冷たく震える彼の身体を抱いて、エディスはもっと激しく雨が降る事を願った。

ソラの悲しみに寄り添うように、もっと強く。そして、最後は世界に虹が掛かると良い。泣きつかれたソラの心を、静かに癒すように。







エディスは仲間と過ごす喜びを知った。心配から怒りを知った。そして、拒絶から哀しみを知った。

彼女の心はやはりまだまだ未熟で、幼さの残るものだったけれど、それらは最早無視できないほどに育っていた。

ソラの心に寄り添うには、十分な程に。


エディスはソラが哀しいとき、黙ってそばにいた。彼女から声を掛ける事はなく、彼もまた無言を貫き、二人はその場に並んで座りこむ。しばらくしていつもの快活さを取り戻したソラが立ち上がり、帰ろうか、とエディスに手を差し出せば、彼女はそれにいつもの明るい笑顔で手を重ねるのだ。


エディスは知識としてではなく、経験として哀しみの本質を知り、ソラを慰める方法が分からなくなった。哀しみとは底の無い沼のようで、何かをすれば解消されるというものではない。だから、ただ寄り添う。エディスがそうしたい、と思ったからだ。哀しむソラを一人にはしたくなかった。

勇者と慰みの娘は、そうしてそばにいた。それは、初めに人々が思い描いた姿とは程遠く、どこまでも穏やかな関係だった。


そして、二人は支え合い、最後の戦いに赴く。

魔王の城はすぐそこだった。その場には、裏切り者であるソラの師匠もいるはずだ。


「見てて。俺は負けないから、エディスはそれを見てて」


ソラの横顔は凛と前を見据え、決意を映しだしていた。一点の曇りも無いその瞳には、最早迷いはない。彼はすでに最後の戦いに臨む覚悟を、かつての師との完璧なる決別への覚悟を決めていた。

だからエディスも迷いを見せる事はなかった。


「うん、エディスが見てるよ。だからね、ソラ」


不安が無い訳ではない。むしろ、育ち始めたばかりのエディスの心は不安定で、些細な事がとても恐ろしかった。これまで知らずにいられた多くの『怖い事』を知り、彼女はとても憶病になった。

けれど、エディスはソラを信じているから。


「またみんなで、たくさん笑おうね」


ソラは優しい笑顔でもちろん、と答える。彼のその顔は、エディスの口にする未来を一欠片も疑っていない、晴れやかなものだった。

仲間達と励まし合い、二人は終わらせる為の初めの一歩を踏み出す。



そうして、ついに世界は救われた。








『慰みの娘。憐れなおまえこそ、この世界を憎むべきだったのだろう』


ソラの師匠は言った。エディスはその人が好きだった。その人が、心からエディスを思いやってくれていた事も、今ならば分かる。

だからこそ、余計にこうして道が別たれた事が哀しい。本来ならきっと、分かりあえたはずだった。目指す所は同じだったのだ。ただ、選んだ方法が絶望的に対極だっただけで。

ソラの師匠は言葉の通り、憐れみを含んだ目を向ける。その人は、理想を見たのだ。エディスのような、理不尽に翻弄される者が生まれない世界を。


『エディスは憐れなんかじゃないわ』


だから、エディスは教えてあげた。とても大切で、優しい事実を。エディスは心を知って、この世界が楽しいばかりではないと知った。哀しみや残酷さを孕んでいると知った。それでもこの世界の平和を願う理由を、その人に知って欲しいと思ったから。


『だって、ソラに逢えたもの。みんなや、貴方にだって。こんな素敵な出逢いをくれるこの世界は、やっぱり綺麗だと思うの』


後悔や悲哀を滲ませていたその人は、ようやく穏やかに笑った。初めて見せる安らいだ微笑みだった。


『ソラ。私は、本当はおまえのようになりたかったのだろう。世界、などただの言い訳でしかなく、おまえのように、一人の少女を救えるような、そんなちっぽけな存在になりたかったのかもしれない』


ソラの師匠は、穏やかに目を伏せた。

それは、世界の残酷さをどうしても許せなかった少年の、哀しい物語の終わり。








異世界の勇者は世界を救った英雄となった。

世界はその朗報に湧き、異世界の勇者を称え、その凱旋は希望を携えた明るいものとなった。どこもかしこもお祭り騒ぎで、誰もが異世界の勇者を褒めそやす。

―――――そして、世界の救世主は惜しまれながら、とうとう自らの世界へと帰還するのだ。


それは始めから約束されていた事だった。勇者であるソラの願いは自身の帰還と、エディスの自由。長き旅の末、ソラもまたこの世界を愛するようになっていたけれど、その願いが変わる事はなかった。


「エディス、これで君は自由だから。だから………幸せに、なって。君らしく、君だけの幸福を手に入れて」


ソラは別れの間際、優しくエディスの頭を撫でた。それはいつも通りのやり取りのようで、隠しようのない寂しさを滲ませていると、エディスにも分かる。

エディスは言葉にならなかった。胸の内を渦巻くこの想いが何なのか、それは複雑であまりに深くて、何一つ形に出来ない。


だから、エディスは疑問を抱えても、ただじっとソラを見上げる。ソラはそれに動揺して瞳を揺らすと、頭を撫でていた手を彼女の頬へと伸ばした。しかし、すぐに躊躇ってその手を引っ込める。

こんなときでさえ、ソラは頭を撫でる以外に自らエディスに触れる事はない。

ソラはやがて、未練を断ち切るように彼女へと背を向ける。帰還の為の魔法陣へと歩んでいく彼の背を眺めながら、エディスはずっと考えていた。


エディスは『幸福』が何たるかを知らなかった。喜怒哀楽を知ってからまだ間もなく、それを実感するにはあまりに哀しみの多い旅だった。

けれど、一つだけ分かる事がある。このままソラを見送って、この心臓に爪を立てられるような痛みから目を逸らして、手に入るようなものではない。

だから、エディスは迷いの無い足で駆け出した。







魔法陣の上で光の奔流に包まれたソラに、手を伸ばす。エディスに分かるのは、ここで彼から手を離してしまえば、もう二度とソラといられなくなるという事だけ。

だから必死に手を伸ばし、彼の首に腕を絡めて、けして離れる事の無いように、強く強く抱きついた。


エディスに喜びを教えてくれたのは、ソラだ。けれど、怒りや悲しみ、彼を想うと感じる切なさ、引き裂かれるような孤独感、心臓を鷲掴みにされるようなどうしようもない気持ち。それを教えたのもまた、ソラだった。


「許さない」


だからエディスは、まるで呪いの言葉のように口にした。簡単にエディスを置いて行ってしまおうとしたソラに、悲しみや寂しさ、怒りや憎しみまでも湧いて来る。


「こんな気持ちを教えておいて、今更置いて行くなんて許さない」


ソラは、大いに戸惑っていた。当然である。このままではエディスまで、ソラの世界へと連れ帰ってしまうからだ。そんな困惑が伝わって来ても、エディスはけして、彼を離そうとはしなかった。


「エディスも連れてって。ソラの帰る所へ。エディスは、ソラのいる所が良い」


ソラは最初から最後まで、エディスの自由と幸福を願っていた。彼により自由を得たエディスは、自らの心に従ってソラのそばを望んだ。彼のそばで喜びを、怒りを、哀しみを知ったなら、きっと『幸福』も彼のそばで無ければ知れないものだ。

彼女の心は、未熟なりにそれを確信する。


「知らない世界だ。君の知っている人は誰一人としていないし、君にとっての常識は何一つとして通じない。それでも良いのか?」


ソラは、真剣な目でエディスへと問いかけた。彼女はあまりに簡単な問いかけに、先程までの切実な気持ちも忘れ、晴れやかに彼へと笑いかけた。


「ソラがいるわ」


それだけが大切で、それだけが唯一の真実であるとでも言うように、エディスは迷いの無い瞳で、微笑む。それは、彼女にしては大人びた微笑だった。


「ソラがソラであれば、そこはもうエディスの知らない世界なんかじゃないわ」


すると、ソラはようやく肩の力を抜いて、いつものような笑顔を浮かべる。首に抱きつくエディスの腕を解いて彼女の手を握り、少しだけ気まずそうに目を逸らす。


「えーと…俺も、エディスといたいと思うよ。だから」


ありがとう、正面から向かい合って立ち、ソラは躊躇いがちに口にした。エディスはそれに、幸福そうに破顔する。

エディスの空の色の瞳には、赤くなった彼が映しだされていた。







こうして、異世界の勇者と慰みの娘は、旅が終わっても共に歩む道を選んだ。

勇者の世界で二人がどのように過ごすかは、また別のお話。それはもう、勇者と慰みの娘では無く、一人の少年と一人の少女のささやかで、ちっぽけな日常の物語。

誰しもが望み、積み上げる幸福の軌跡。



異世界の勇者は世界を救いました。

異世界の勇者は一人の憐れな娘を救いました。

異世界の勇者だった一人の少年は今、憐れな娘であった一人の少女を幸せにしているのです。

それはきっと、二人だけの物語。








読了ありがとうございます。

これ、ファンタジージャンルで大丈夫ですか?


英雄への褒美と言えば地位と名声と富と花嫁(お姫様ないし美女)というイメージから歪んだ発想で出来ました。

『慰みの娘』のポジションは勇者の装備品くらいです。



ソラ:現代日本の普通の男子高校生。漢字は『空』。優しく純情に見せかけてエロいことも考えている、良くも悪くも普通の少年。お人好し。平和な国で暮らしてきた故の甘さと優しさが異世界を救う。初対面でエディスに一目惚れしかけたが、直後彼女の在り方を知り、同情心に変わる。その後本編の変遷を辿り、最後の台詞は彼なりの告白である。伝わる訳がない。


エディス:勇者の慰み者。もちろん、下世話な意味も含まれる。誰もが見惚れる美貌の持ち主。色んな裏設定&削られたエピソードが盛り沢山。短編で日の目を見させると収まりが悪いのでことごとくカット。恋だの愛だのはまだよく分かっていない。当然、婉曲過ぎるソラの最後の台詞の意味も分かっていない。それでも彼女は、ソラのそばにいたい。


ソラの世界に戻った二人はラノベ的学園ラブコメを繰り広げれば良い。美人転校生とイチャイチャして全男子生徒を敵に回せば良い。ツンデレorしっかりな妹がいても良い。もしくは、ラノベ的に本来の力を隠していたが、明らかに異世界の力を有する不審者に襲撃されて撃退し、それを政府公認の秘密結社に発見されれば良い。実は異世界からの帰還者はソラ以外にも存在し、それを非公式に保護、管理するのが結社の仕事。異世界からの帰還者の中には力に溺れる者もおり、それの捕縛または始末も結社の仕事。釈然としないものを感じつつも、エディスの身分の保証と身の安全を引き換えに二人で入社し、異世界からの帰還者を追う生活を開始する。SF系の雰囲気を出す現代バトルファンタジーに転向しても良い。


……………私のラノベのイメージは非常に偏っている可能性があります。

まあ、、普通の日常に戻ってくれればと思うのですが、後書を書いていたら何故かこんな方向に妄想が膨らみました。

アナザーストーリーのようなノリです。




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― 新着の感想 ―
[良い点] 王道、今は見なくなったまさに王道と呼ぶに相応しいシナリオであり、真新しさは多少の設定(慰み者)位。 なのに新鮮な気持ちで読めた不思議。 話の流れも上手く、起承転結を短編ならではの簡潔さ…
[良い点] 漢字こそ違えどなまえが同じだった事が一番良かった(笑) 異世界からの勇者...有り触れた世界観なのに凄くドキドキした [気になる点] バトルシーンが欲しかったかな... もっともっとガンガ…
[良い点] 最後まで綺麗にまとまっていること [一言] なんとも言えない終わりかたで思わず続きを妄想したくなりました。 この二人は幸せになってもらいたいと切に願います
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