観測誤差の宇宙
客は、水槽の底にそれを見つけた。
強い照明に照らされた水の中で、それは静かに揺れ、時にくるくると回っていた。
完璧な円。
白く細かい底砂の上で、存在感を放つ黒。
指輪に見えた。
それは、最初から意味を持っているように見えた。
失われた約束か、終わった関係か。
水槽という小さな宇宙の底に、まだ沈まずに残っている感情。
客は目を細め、しばらく動けなかった。
ネオンテトラの群泳が通るたび、それは回転する。
コリドラスが近くの底砂をつつくたび、それは小さく跳ねる。
呼吸しているようだった。
そのとき、エントランスの自動ドアが開いた。
「すみません、水漏れの連絡をいただいた件で」
現れたのは、水槽のデザイナーだった。
工具箱を持ち、淡々とした目をしている。
客は振り返り、そしてすぐに水槽を指さした。
「これ……。指輪ですよね?」
デザイナーは一瞬だけ水槽を見て、それから膝をついた。
ガラス越しに中を覗き込み、しばらく動かなかった。
「……ああ」
短い声だった。
水槽台下部のパネルを開ける。
濾過槽の水を戻すポンプから、水が滲んでいる。
それがこぼれ落ち、絨毯を濡らしていた。
「Oリングですね」
客は理解できなかった。
デザイナーは事務的に説明する。
「ポンプの接続部の部品です。これがないと、水が漏れるんです」
ピンセットでそれを取り出すと、水槽の中の『指輪』は形を失った。
「申し訳ありません。メンテナンスの際、着け損なって落としたようです」
ただのゴムの輪だった。
客は言葉を失ったまま、水槽を見ていた。
さっきまでそこにあった宇宙が、音もなく色を失ってゆく。
作業は、短時間で終わった。
デザイナーは作業を終えると、工具を閉じた。
「ご迷惑をかけました」
立ち上がり、頭を下げる。
「こちらのミスなので、料金は頂きません」
客はまだ水槽を見ている。
そこにはもう何もない。
ただの水と魚と機械の循環。
それでも、客にはまだ輪が見えていた。
水の揺らぎの中で、確かにそこにあったものの残像が、ゆっくりと回っている。
「それでは、失礼します。
また何かありましたら、お呼びください」
デザイナーはそれに気づいていたが、何も言わなかった。
水槽は正常に動いている。
だから、それ以上は必要なかった。
自動ドアが閉まる音がしたあとも、客はしばらく動かなかった。
水の中で、光が一度だけ円を描いた。




