雨が晴れたら、あなたに——
——雨はまだ降っている。
あの日から、ずっと。
秋澪町に晴れはない。
言い過ぎかもしれないが、少なくとも霧雨蓮見の記憶する限り、この町の空はいつも鉛色の雲に覆われていた。雨は時に霧のように細かく、時にしとしとと降り続け、時に滝のように叩きつける。どれも、気分の良くなるものではなかった。
だから蓮見がその朝、アパートの窓を開けて、案の定の曇り空を確認したとき、彼女はただ無言で窓を閉め、制服に袖を通し始めた。
ブラウス。スカート。ハイソックス。
それから、一年中クローゼットにしまうことのない、薄手のセーター。
着たあとも、まだ寒かった。指先は氷水に浸したみたいに白く強張っている。右手で左手の指を握って、しばらくそうしていたけれど、温度は伝わらなかった。
もういい。
彼女は教科書を鞄に詰め、部屋を出た。
アパートは町はずれの古い建物で、六畳一間、キッチンと風呂は共同だった。家賃は安く、学校から近く、誰とも口をきかずに済む。蓮見がここを選んだ理由は、それだけだった。
玄関でローファーに履き替え、透明のビニール傘を広げる。
雨は強くなかったが、傘の表面を打って、ぽつん、ぽつん、ぽつんと音を立てる。
彼女は雨の中へ踏み出した。
教室にはすでにクラスメートの半分以上が来ていた。
蓮見は窓際の自分の席を見つけ、傘を机に立てかけて座った。水滴が傘の表面を伝って落ち、床に小さな水たまりを作る。彼女はそれを拭かず、ただ頬杖をついて窓の外を眺めた。
遠くの山は雨霧に輪郭を呑まれ、校庭のバスケットゴールがぽつんと立っている。廊下を誰かが走る足音が、鈍く響いた。
「……水族館みたい」
ふと、彼女は呟いた。小学生のとき、たった一度だけ行った水族館のことを思い出す。ガラスのトンネルを抜けると、光は青く、世界は海の底に沈んでいるようだった。あのとき、父さんが左手を、母さんが右手を握っていてくれた。
彼女は目を閉じる。
やめよう。
そのとき、教室の扉が開いた。
担任が入ってきて、後ろにもう一人。
「今日からうちのクラスに来る転校生だ——」
蓮見は顔を上げなかった。机の上で自分の指先が触れたあたりを見つめる。木目に薄い冷気が滲んでいくのが見えるようだった。
「……小春日和です」
ガラス玉が床に落ちるような、透き通った声。大きすぎず、それでいて教室の空気をふわりと震わせた。
「東京から来ました。よろしくお願いします」
ひそひそ声。
——東京だって。
——可愛い、あの名前。小春日和? 天気予報みたい。
——東京ってあんまり雨降らないんだって……
蓮見はようやく顔を上げた。
教壇に立つ少女は、明るめのショートヘアで、毛先がほんの少し跳ねている。同じ制服を着ているのに、どうしてか、彼女が着るとその制服まで明るく見えた。彼女は笑っていた。目を三日月のように細めて、教室中の好奇の視線をまったく気にしていないふうに。
その目が、ふと動いて、何列もの席を飛び越え、蓮見の視線とかちりと合った。
蓮見が目を逸らすより早く、彼女はまた笑った。
見られた。
蓮見は俯き、腕の中に顔を隠した。
その日、残りの時間は、いつもの一日のように過ぎていった。
放課後になるまで。
蓮見はできるだけゆっくりと鞄を片付け、教室にぽつぽつとしか人がいなくなるまで引き延ばした。玄関まで歩き、靴を履き替え、傘立てからあの透明なビニール傘を抜き取る。
校門のところに、誰かが立っていた。
あの転校生だった。
小春日和は傘をさしていなかった。雨はすでにやんでいたが、空はまだ灰色だった。彼女は錆びた校門の下に立ち、遠くの山のほうを見上げている。
蓮見は声をかけるべきか、そのまま通り過ぎるべきか、わからなかった。
けれど、小春が先に振り向いた。
「あっ、君——蓮見さんだよね?」
彼女は蓮見の名前を呼んだ。
今日転校してきたばかりなのに。蓮見がまだ一言も発していないのに。
「雨、もうやんだよ」と小春は笑いながら、蓮見の傘を指さす。「それ、しまわないの?」
蓮見は手にした傘を見下ろし、それから空を見上げた。たしかに雨はやんでいる。けれど、さっきまでまったく気がつかなかった。
「……癖、だから」
言った。それが今日、蓮見が発した最初の言葉だった。
小春は声を立てて笑った。馬鹿にする笑いじゃない。面白がる、そんな笑い方だった。
「変なの。君みたいな子、初めて会った」
彼女は二歩ほど先に進んで、それから振り返る。
「待ってる。一緒に帰ろう、蓮見」
蓮見は校門の手前で立ち尽くし、その必要のないはずの傘をぎゅっと握りしめていた。
山のほうから吹いてくる風が、土と雨水の匂いを運んでくる。
「やめとく」と言うべきだった。いつもみたいに一人であの橋を渡り、一人であの六畳の部屋に帰るべきだった。
けれど、一歩、足が出た。
そして、もう一歩。
同じ制服を着た二人の少女が、雨のやんだ町を、傘もささずに並んで橋を渡っていく。
遠く、通憶山の頂はまだ雲に覆われている。
この町の雨も、いつかはやむのかもしれない。
蓮見は、その人の隣を歩きながら、そう思った。
ただ、そう思っただけだった。




