老人と海苔弁当
出雲宗一。
それが俺の名前だ。名字から察せられることも多いが、生まれは島根の山奥にある仕来りやらが尋常じゃなくややこしいタイプの大家。俺はそこの本家の長男として生まれた。だから、宗家が一で宗一と名付けられたらしい。
俺の爺さん、つまり出雲家の現当主は礼儀に厳しい。飯は米一粒残すこと勿れ、民心を揺るがす勿れ、弱者を決して害すこと勿れ。ノブレスオブリージュの擬人化とも言ってもいいほどの人格者だ。
そして、その教育を受けた俺の目の前に今、教えを守るべきかどうかを悩ませるほどの難題が転がっていた。
「あ……うぅ……」
浮浪者の行き倒れ。日本政府でも持て余しているホームレス問題が俺の眼前に存在していた。
俺が現在いる場所は東京郊外の芽木戸市にある二四時間スーパーマーケットの駐車場。疎らな車の影で蹲っている姿が見えたので、大丈夫かと様子を確認するために近寄ったら、それは異臭を纏ったボロボロの白髪の男性だったのである。
「……あー、大丈夫ですか? 身体が痛いとかです?」
酸っぱい臭いを我慢しつつ、うめき声をあげる男性にゆっくりと声をかけながら近づく。
すると、白髪の男性は駐車場のアスファルトに顔を埋めたまま、ガラガラに枯れた声で訥々と話す。
「は、腹が」
「お腹? お腹が痛いんですね?」
「減った」
俺はまるで一昔前のバラエティ番組のようにズッコケた。お約束はいいんだよ爺さん。
「丸二日、何も食べてなくてのぉ」
地面からこちらへ顔を向けた彼は、確かに青ざめていて血の巡りが悪そうな顔色をしていた。見るからに調子も悪そうで、数日間何も食べていないと言うのも頷ける。
しかし、大きな怪我があるわけでもなさそうなので、彼のために救急車を呼ぶほどのことではなさそうだ。俺は深く鼻から息を吐き出し、手に持ったスーパーのビニール袋の中から、先程買ったばかりの海苔弁当と五〇〇ミリペットのお茶を手渡す。
「あげるよ、お爺さん」
「おぉ、これは……いいのか?」
「最近じゃ総菜も安くないんだから味わって食ってくれよ」
お爺さんに食料を恵むと、彼はありがたいと呟いて懐から代金と言わんばかりに長方形の何かを俺に差し出した。チョコか何かか? などと思って受け取ってしまったが、それはワインレッドの外装をしたスマートフォンのようなものだった。
反射的に受け取ってしまったが、こんなものを渡されても困る。海苔弁当の代価としては不釣り合いにもほどがあった。俺がスマートフォンを返却しようと手元からお爺さんのほうへ視線を戻す。
「はっ? 消えた……?」
すると、既にお爺さんは俺の目の前から煙のように消え失せていた。暗い中、駐車場の電灯に羽虫がぶつかる音だけが周囲に響く。
今、俺の身に起こったのは夏の暑さが見せる幻覚だったのだろうか。しかし、それを否定するように、俺の右手には真っ赤なスマートフォンが握られている。
どうしよう。俺は大いに悩んだ結果、一度家に戻ってから荷物を置き、交番へこのスマートフォンを届けることにした。
そして、この判断がこれから始まる異様な夏休みの序幕になることを、この時の俺は当然知らなかったのである。




