創造力はこうして養われた:幼少期編
彼はガレージの中で、ゴムの短靴に自転車の空気入れでせっせと空気を入れていた。
父親は聞いた。
「なにをやっているんだい?」
彼は答えた。
「短靴に空気を入れて長靴にするの」
その顔は無邪気そのものだった。
父親は直感的に思った。
「この子、普通に育てるわけにはいかない」と。
母親がミシンに向かっていた。
足踏みミシンのリズムに合わせるかのように「春の唄」を口ずさみながら。
いまだに春になると「母親の歌った春の唄」と「倍賞千恵子」さんが重なって浮かんでくる。
街の洋品店の専属として、採寸、型紙、仮縫い、そして仕立て。
立体を平面に落とし込み、また立体へと戻していくその過程は、子どもの目にも何か魔法のように見えた。
だからだろうか。
今の自分も、破れた作務衣のケツに、あえて異素材の布を当てて縫い直す。
裾がほつれれば、リズムの違う糸で軽やかに遊ぶ。
「直す」というより、「語り直す」。
そんな感覚が、いつの間にか身についていたのかもしれない。
いつの頃からだろうか、父親の「出張のお土産」が「おもちゃ」から「児童用の偉人の伝記」に変わっていた。
彼はなんの疑問もなく、興味津々でそれらを読んだ。
読み終わるとすぐ彼は”次の伝記”を心待ちにしていた。
「今度の出張は、いつ?」と、父の背広の背中に向かって訊ねるのが習慣になっていた。
その頃もまだ親に「おもちゃ」をねだると「必要と思われる材料」が与えられ、父親から「作ってみな?」と、いわば試されていた。
指先はもちろん絆創膏だらけになっていたが、その頃から「作る」ではなく「創る」が身についていたのかもしれない。
しかし、学校の成績は中の下が常であった。
かといって運動神経が良かったわけでもない。
ごくごく”平凡”な少年だった。
いや、それこそが”非凡”の始まりだったのかもしれない。
父親はいわゆる「叩き上げ」である。
「学校の成績なんてただの数字だ、それより経験が大事だからもっと遊べ」
そんなことを言われた記憶もある。
当時、デラックスな「ウインカー付きの自転車」が流行していた。
彼は当然欲しがったが、子育ての方針なのか家にお金がなかったのか、買ってもらえなかった。
その代わり父親はいった。
「見た目だけ豪華なものなんて、ちょっとしたことで壊れちまうんだよ」
彼はその言葉が理解できないでいた。
しかし、その「ウインカー付きの自転車」に乗った友人が転んだ。
当然の如く、無惨にも「絢爛豪華なウインカー」は千切れてしまい、自転車が泣いているように見えた。
そのとき彼は、やっと父親の言葉の”意味”を理解することになった。
この「直接伝えず”例え”で伝える」そして「全てを語らない」というのも、今のスタイルにつながっているのかもしれない。
話は変わるが「おねしょ」から脱出するのはかなり遅かった。
毎朝が恐怖だったと言っても過言ではないかもしれない。
母親が「おねしょの確認」で、毎朝布団の中に手を入れてくることで目覚めたあの恐怖。
一種のトラウマになっているかもしれない。
その反面「知能指数」が高かったという説もある。
父親がぼそっと独り言のように「数値」を口にした記憶があるが、その「数値」がいくつだったのかも記憶にないし、正しい「数値」を口にしたのかも今では確かめる術はない。
短靴に空気を詰めて、世界を膨らませる
〜 さて、時を変えよう 〜




