1-8 水墨画談義はキケンいっぱい
「素敵な画ですね」
東宮から園林へと抜ける曲廊を歩きながら、ふと、壁に掛かった一幅の絵画に目をとめて、紅月は嘆息した。そこに描かれた光景が、なんとなく懐かしく感じられたのだ。
恥ずかしいから手を離してほしい、と、そう何度か懇願して、朗輝はようやく紅月を解放してくれていた。だからいま、彼は紅月の手を引くのではなく、隣に並ぶような恰好で歩を進めている。
紅月は紅月で、朗輝との対面の最初の衝撃からはなんとか立ち直り、とりあえず相手に対してまともに口を利けるようにはなっていた。
「紅月どのは、画は好き?」
紅月が思わず口にした言葉に反応した朗輝は、澄んだ黒い眸でこちらを見て、そう訊ねてくる。
そんなに真っ直ぐに見詰めてこないでほしい、と、内心で思いながら、紅月は口を開いた。
「さほど詳しいというわけでもないのですが……さすがは皇宮だけあって、すばらしいものがたくさんありますね」
「なんなら、ゆっくり見る? 急がないよ」
朗輝がにこやかな表情で促してくれたので、紅月もうなずいて、ふたりで画の前に立ち止まった。
壁に掛かっているのは、立派な軸装を施された水墨画だ。
蓮の咲く池があって、浮島へと渡る橋の先には、亭が見えている。そして、天高くには皓々と輝く満月が描かれていた。
姮娥娘々の加護を受けるとされる宵国の、皇宮を飾るにはふさわしい画であろう。
けれども、紅月の口からこぼれたのは、そうした感想ではなかった。
「この橋の曲線が、とてもうつくしいですね……亭は、柱の高さと横幅の比率、それに甍の角度も絶妙ですし、墨と余白の割合なども、何とも申せません」
うっとりと言ったところで、隣から、くす、と、ちいさな笑み声が漏れるのが聴こえた。
はっとして、そちらを見る。笑ったのはもちろん朗輝だった。
どうしたのだろう、と、紅月が戸惑って相手の表情をうかがうと、朗輝は目を細めて、ごめんなさい、と、笑いながら詫びた。
「曲線に比率に角度に割合……なかなか独特な感想だから、ちょっと、面白くて。はじめて聴いたな」
最後に付け足すように言って、相手はくちびるをゆるませる。
朗輝の言葉に紅月は、しまった、と、息を呑んだ。
ついつい口を滑らせてしまった、と、狼狽える。あれほど父に注意されていたものを、と、内心で焦ったが、朗輝は紅月の言葉を可笑しがりこそせよ、特段、奇異に思ったふうは見せてはいなかった。
それを確認して、こっそりと、ほう、と、安堵の息をつく。
「もし気に入ったのなら、この画、あなたに贈るよ?」
朗輝が言った。
「と、とんでもございません! そんなつもりでは……」
紅月は慌てて首を横に振った。
「そう? 遠慮しなくていいのに……なんて、ね。――実は僕が描いたんだ、これ。だからさ、あなたに持っててもらいたいなっていうのが、下心」
相手はすこし笑み含みに、どこか悪戯めかして言って、こと、と、首を傾けた。
「え、殿下が?」
紅月は、ぱちぱち、と、目を瞬いた。
「うん。これから行く、園林の風景。季節じゃないから、いまは蓮は咲いてないけどね。――やっぱ、素人の画じゃあ、贈り物にはならないか」
「そ、そんなつもりでは……! と、とても、お上手だと思います」
お世辞ではなく、実際、朗輝が描いたのだという水墨画は、紅月には、人の目を引く素晴らしいもののように思われた。
「ありがと。あなたにそう言ってもらえるとうれしい。――行こうか」
朗輝はその話題をそこまでにして、そんなふうにこちらを促した。
再び歩き出す彼に、紅月もついていく。すると、やがて、園林へと至った。
池があり、橋があり、その向こうの浮島には亭がある。なるほどたしかに、先程の画は、ここを描いたもののようだった。
紅月は、よく手入れされた園林へと、ゆっくり視線を巡らせた。
橋へと続く道には、所々に奇岩が配され、また、いまを盛りととりどりに咲き誇る大輪の菊の鉢がいくつも並べられている。
「見事な咲き振りですね」
朗輝に伴われて歩きながら、ほう、と、嘆息まじりにつぶやいた。
純白、明るい黄色、淡い銀朱。それから、白い花弁の中央だけにほんのりと紫を宿したもの。どの菊も、どれ劣らず、うつくしいものばかりだった。
「あなたはどれか好みなんだろう? 好きなのがあったら、僕に教えて。あなたの好むものを、僕はたくさん知りたいんだ」
花に見惚れていると、そんなこちらに目を細めた朗輝が、衒いなく言っくる。
一瞬なにを言われたのかわからなくて、けれども、刹那の後にそれを理解して、紅月は頬を染めた。
紅月のことを知りたい、と、朗輝はそういう意味のことをいま言ったのだ。からかわれているだけかもしれない、口先だけの社交辞令なのにちがいない、と、そう思うのに、それでもうらはらに、どうしたって冷静ではいられなかった。
ことことこと、と、拍動が、早い。
「ど、れも……すてきですから」
選べません、と、かろうじてそんなふうに答えた。
「亭に茶菓の用意があるんだ。こっち」
朗輝が再び紅月の手を取った。向かうのは、浮島に建つ、瀟洒なつくりのちいさな閣亭である。
「橋はあぶないからさ、その間だけゆるして?」
朗輝がそう言うのは、先程手を取られた紅月が恥ずかしがったからだ。それで、いままた手を繋いだことに対して、許可を求めるようだった。
紅月は、こく、と、ちいさくうなずく。
こまやかな気遣いが嬉しくないはずはなく、けれども一方で、そんなふうな扱いを受けると、なんとも擽ったくて、気恥ずかしくて、たまらなかった。
朗輝のてのひらはあたたかい。そのぬくもりが、互いの肌と肌の間でとろりととけて、じんわりと沁むように伝わってくる。
知らず、ますます鼓動が早くなってしまって、思わずうつむいてしまっていた。
調子が、狂う。
「ま、ほんとは、いまのは言い訳で、僕があなたと手を繋ぎたいだけだけなんだどね」
ちらりと悪戯な笑みを浮かべた朗輝が小声でそんなことを言い添えるものだから、紅月はどうしていいかわからなくて、ちいさくなった。いっそ心を落ち着けるためにこの場で算盤を広げて、無意味に算木を弄り出したい気分だった。
手を引かれたままで橋を渡り切った先には、ちいさな亭があった。中には石案が据えられ、それを椅子が取り囲んでいる。
紅月を亭の中へと導いた朗輝は、うつくしい漏窓の正面の位置にある椅子に紅月を座らせた。そして自分はこちらと斜の位置に腰掛ける。
石案には、彼の先程の言葉のとおり、茶器の用意と、なんとも繊細な見目の菓子とが並んでいる。朗輝は皿の上から菊花を模した菓子をひとつ取り上げると、紅月のほうへと差し出した。
「どうぞ」
食べるよう促されて、礼を述べてから、口許へ運ぶ。菓子はほろりと口の中でほどけ、上品な甘さが舌の上に広がった。
おいしい。思わず頬がゆるんでいた。
「甘いものは、好き?」
そんなこちらの表情の機微を見て取ったのか、朗輝が目を細める。
「はい。甘味は、あた……」
頭の働きを助けますから、と、ついうっかりそう言いかけて、紅月ははっと押し黙った。