1-7 殿下の言葉が意味不明
この方が李朗輝さま、と、紅月は言葉にならない声でつぶやいた。まるまると目を瞠ってしまっている。
はたはた、と、二、三度、意味もなく瞬きを繰り返しながら、目の前の相手をぽかんと見つめた。
「えっと……」
何と言っていいか、わからない。
だって、いま相手は、李朗輝と、そう我が姓字を告げたのだ。そして、皇太子の子だと、そう言ったのである。
ということは、目前に立ち、紅月の手を取っているこの少年こそが、今度の見合いの相手である皇太孫殿下だということだ。
皇宮の奥深くにいるだろうと思っていた相手の不意の登場に、紅月は目を白黒させた。え、え、と、戸惑いつつ、ただただ呆然と、少年の――朗輝の――顔をまじまじと見るばかりである。
皇太孫殿下――……この、御方が。
もう一度、相手を見つめつつ、思う。
言われてみれば、少年が纏っている紺青色の長袍は――動きやすそうなそれでこそあるものの――従僕のものとは明らかに違う、上等な布地に精緻な繍が施されたものだった。
さらにいえば、上品で端正な顔立ちの、その透けるように白い肌はなめらかで、肌理こまかい。手入れが行き届いているからこそのものに違いなかった。
それに、こちらの手を取っている彼の指先も、すこしもざらつかず、荒れた様子がないではないか。剣を握ることがあるのか、肉刺こそあるものの、日々雑用などをこなしている者の手とは明らかに違っていた。
そしてなにより、先程から、馭者や護衛の士卒が、彼に対して畏まっているのである。
「皇太孫、殿下……」
呆然とそう言ったきり、紅月はかたまってしまった。
朗輝はそんなこちらを前に、はい、と、朗らかに応じる。それから改めて紅月の手を取って、そのまま半歩ほど、紅月との距離を縮めた。
伸び盛りだろう少年より、いまはまだすこしだけ、まだ紅月のほうが背が高いようだ。だから朗輝がこちらを見るとき、ほんのわずか、こちらを軽く下から覗き込むようなかたちになる。
彼はやや上目遣いに、真っ直ぐに、紅月の顔を見つめてきた。
「お待ちしていました、紅月どの」
少年らしい、溌剌とした、明るい声が告げる。
「というか、待ちきれなくて、ここまで迎えにきてしまったんだけど。驚かせてしまったみたいだね。ごめんなさい」
朗輝は軽く詫びながら、それでもちいさく肩を竦めて、ちらりと悪戯っぽい笑みを見せた。
「来てくれて嬉しい。あなたに会いたかったんだ。でも……」
そこで、ふと、言い澱む。
そのまま、わずかに目を伏せがちに、視線を逸らしてしまう朗輝に、紅月ははっとした。
いったい、何を言われるのだろう。
実際にこちらの姿を見て、朗輝はがっかりしただろうか。婚期など疾うの昔に逃しているような、九歳も年上の娘になど、会ってみるだけ時間の無駄だったと、そう思っているのかもしれない。
眉根を寄せて相手の言葉を待つ紅月を、朗輝は、ちら、と、うかがい見る。
その口許に、ちいさく、はにかむような笑みが浮かんだ。
「あなた、ずるいや。だって、想像してた、何倍も綺麗なんだもの。鼓動がうるさくて、顔が熱くて……ああっ、もう。だめだな、僕……ほんとうはさ、恰好よく、あなたを園林まで案内するつもりだったのに」
調子が狂ってしまう、と、朗輝は気恥ずかしげに頬を染め、こちらからは目を逸らしたままで、ぶつぶつとつぶやいた。
「え……?」
紅月は我が耳を疑った。
相手の澄んだ黒い眸は、実は、まともに物を見られていないのではないか、と、そんな失礼なことすら考えた。
だって、ずいぶん年上の紅月を見て、綺麗だなんて――……改めて述べ立てられた言葉を心中に反芻してしまい、こちらこそ恥ずかしくなってくる。
紅月は、はたはた、と、瞬いた後で、そのまま目を伏せてしまった。
何と答えていいものか、わからない。
頬が熱い。心臓がうるさい。
どうしたら、いいのだろうか。
朗輝が、ちら、と、こちらを見た。
それから、きゅ、と、くちびるを噛む。
「ずるい」
そう、相手は紅月をそっと詰った。
「なに、その顔……今度は、可愛い」
可愛いとは愛す可しと書くのだと、いったい、この少年は知っているのだろうか。
紅月はますます頬を赤らめて、深く俯いてしまった。
ちいさく眉根を寄せ、困ったような苦笑を口の端に浮かべた朗輝は、気を取り直すようにひとつ深呼吸をする。
「行こうか。案内するよ。園林ではいま、菊が綺麗なんだ……といっても、あなたのうつくしさを前にしたら、花も恥じらってしまうかな。ほら、羞花閉月って言葉もあるし」
終いにはそんなことを言い出した皇太孫は、紅月の手を取ったままで、皇宮の奥を目指して歩み出すようだ。
「で、殿下、あの……お、お手を、お放しくださいませんか……」
手を引かれ、足を踏み出しながら、紅月はようやく言う。
「え? どうして?」
朗輝はこちらを振り返り、きょとんとした表情をした。
「そ、その……はずかしい、ので」
頬を染めた紅月にとっては、そんなふうに抗議するのが、このときの精一杯だった。




