1-6 皇太孫殿下
二日後の昼下がりのことだ。紅月はさっそく皇宮へ――表向きは、皇太子妃から招かれての賞菊のために――赴くこととなった。
「お前は母に似ているし、素材は悪くないのだから」
父の英俊は娘の久々の縁談に張り切り気味で、家人に命じて、しっかりと紅月を着飾らせた。
とはいえ、成人した頃とまったく同じような、華やいだ衣装や装飾などは、もう紅月には似合わない。久し振りに余所行きの襦裙を纏いはしたものの、年相応の、それなりに落ち着いた色合いのものを選んでいた。
淡く青みがかった月白色の襦に、深い沙青色の裙だ。
艶やかな黒髪を結いあげて、派手に見えすぎないような簪をいくつか挿した。
薄く化粧をし終えたところに、英俊が姿を見せる。
「くれぐれも発言には気をつけるように」
こちらの肩を掴み、そんなふうに、真摯な眼差しで紅月に告げる。
これが普通の良家の令嬢だったならば、皇族に対して失礼のないように、と、そんな意味だろう。けれども紅月の場合、変わり者と評される原因の趣味のことを相手に悟られるような余計なことを言わないように、と、そう念を押されたということだった。
「わかっております、父上」
溜め息をつくように返事をしたものの、実のところ、あまり自信はなかった。
ふとした瞬間に口走る言葉に、算術めいた語彙が交ざらないとも限らない。気をつけようとは思っているけれども、と、紅月はわずかに俯た。
実は、算盤も算木も、こっそりと襦裙の中に忍ばせていたりする。対襟と斉腰の間に、そっとひそませているのだ。
それらは紅月にとってもはや御守りのようなもので、身につけていないと不安だからだった。
これを見つけられてしまえば、すぐさま、算術趣味も露見してしまうだろう。とはいえ、いま紅月に小言を垂れた父にすら気付かれなかったようだから、おそらく初対面の相手が見抜くことはないはずだ。
「皇宮からお迎えが」
そうしていたところに、家人が伝えにきた。
どうやら蘇府の門前には、皇宮から迎えのために遣わされた皇家の馬車が到着したようである。
紅月が門のところまで出ていくと、馬を操る馭者のほかに、護衛官らしき兵卒がひとり見えた。
「蘇紅月さま、どうぞ」
丁寧に馬車へと促されて、紅月は今更ながらに緊張してきてしまった。
ほんとうにこれから皇族との見合いに出掛けるのか、と、なんとも現実味のない、奇妙な気分に襲われつつ、護衛の手を借りて、車駕へと乗り込む。
紅月を乗せると、馬車は城を南北に貫く大通りへと出て、そこから一路、皇宮を指して北進しはじめた。
やがて、堅牢な郭壁が見えてくる。そこに穿たれた南門を越えた向こう側が、皇宮と称される場所だった。
百官が朝議のために集う場であり、また、皇帝が政を行う場でもある朝堂が正面に聳えている。その前には、石畳の敷かれた院が広がっており、左右には行政組織である三省六部の官衙が甍を連ねていた。
そして、朝堂の奥には、皇帝が日常起居する場所である長楽殿がある。更にその東西に諸皇族の住まう殿舎が建ち並び、北には皇帝の妃嬪たちが暮らす後宮が控えていた。
突如降って湧いた紅月の縁談の相手、皇太孫・李朗輝は、現在、宵国の皇太子に封じられている父と共に、東宮で生活しているという。
しかし、その存在が世人に明かされたのは、ごくごく最近になってからのことだった。
宵国では、慣習的に、直系皇族は成人を迎えるまで表に出てこないことになっている。幼い皇子・皇女の身命をなるべく危険にさらさずにすむよう、その安全を慮っての措置なのだといわれていた。
皇太孫殿下・李朗輝についても、その慣例に違わず、成人の儀が執り行われたつい先頃まで、その存在はずっと秘されたままだった。
もちろん、いまから十数年前には、皇太子に御子が産まれたらしい、それはどうやら男子のようだ、と、宮中に風聞くらいはあったようだ。その後も、皇太子の長嫡子であり、皇帝の孫にもあたるその皇子は、どうやら恙なく成長しているらしい、と、そんなふうにも言われていた。
が、それでも、それらはあくまでも真偽の定かではない、噂の域を出ることのない話でしかない。
李朗輝のことがはっきりと公にされたのは、慣例に習って、彼の十六歳の生誕日祝いの布告によってのことだった。
存在が公表されたばかりの皇太孫の為人は、だから紅月には、ほとんど知る術もないわけである。
いったいどのような御方なのだろう、と、この後すぐにでも顔を合わせることになるだろう見合い相手のことを、紅月は考えてみた。そして、皇宮へと向かう馬車の中で、そ、と、溜め息をついた。
朗輝は十六歳になったばかりの少年である。こればかりは間違いようもない事実だった。
そして紅月はといえば、二十五歳の嫁き遅れである。
ひと目見た刹那にも、とんだ年増が来たものだ、と、厭な表情をされはしないだろうか。そうなったらさすがに居た堪れない、と、そんなことを思ううちにも、馬車は北進を続け、やがて、ゆっくりと止まった。
城と皇宮とを隔てている郭壁に穿たれた南門に、まさに到着したのだろう。馭者と門衛の兵卒とが、ひと言ふた言、言葉を交わすのが聞こえてきた。
短い検問を経て門をくぐると、その先には広場がある。通常、馬車が入れるのはそこまでとされている場所だった。
皇族以外は、その先は車を降りて、徒歩となる。紅月もまた同じように、歩いて、東宮の裏手に広がる園林まで向かうことになるのだと聴かされていた。
「紅月さま。皇宮に到着いたしました」
門前で一度停まり、やがて再びゆっくりと動き出していた馬車が、完全に停車する。すぐに護衛の兵卒から、紅月はそう声をかけられた。
「はい」
短く応じて立ち上がる。車駕を出て、榻に足をかけようとしたところで、馬車のすぐ傍らに立っていた十五、六歳だろう少年が、ごく自然にこちらへと手を差し伸べてくれた。
紅月はちらりと彼を見る。
皇宮に仕える従僕の少年だろうか、と、そう思った。
意思の強そうな眉に、涼やかな眸。すっと鼻筋の通った、端正な顔立ち。
頬のあたりにだけまだわずかに少年らしいまろさを残すのが、どこかまだ愛らしい印象を与えた。
結いあげて一部で髻をつくり、残りを尾のように背に流した柔らかそうな髪が、陽に透けるように輝いている。
皇宮では下僕の少年ですらこれほど美しいものなのか、と、紅月は思わず感嘆の息をもらしていた。
「ありがとう、ございます」
俄かに、自分が全く場違いなところへ来てしまったような気がしてきて、気後れしてしまう。けれどもそのまま固まっているわけにもいかず、努めてくちびるに微笑を浮かべて礼を言い、介添えの少年の手を取った。
「どういたしまして」
少年は、整った容貌の涼しげな眸をすぅっと細めるようにし、ふわりとやわらかな笑みを刷いた。
低すぎない声音が耳に心地よい。またしても、ほう、と、嘆息をこぼしつつ、紅月は相手の手を借りてゆっくりと馬車から降りた。
地面に降り立つと、紅月は改めて目の前に広がる皇宮を見渡してみる。
ここへはなにも初めて来るわけではなく、実のところ過日、それこそ皇太孫の成人の儀には、父に伴われて――末席とはいえ――参列してもいた。
それでも、立派な柱を持ち、日に輝く甍を載せた壮麗な皇宮の姿には、いつ見ても圧倒されるものがある。
自分がいまから見合いをする相手は、こんなところに普段から暮らしている皇子なのだ。彼の最初の見合い相手に選ばれたのが自分だなんて、ほんとうに、現実味がなかった。
どうして、紅月だったのだろうか。
父から話を聞かされたときにも抱いた疑問が再び頭を片隅を過ぎり、あるいはからかわれているか、かつがれているのかもしれない、と、紅月は改めて、諦めるような息をそっとついた。
そのときだった。
「蘇、紅月どの」
こちらの姓字を呼んだやさしい声音は、隣に立つ少年のものである。
呼ばれた紅月ははっとする。そういえば、紅月はまだ、少年に我が手を預けたままの恰好だった。
「あ……す、すみません」
早く手を退けるよう促されたのだと思い、失礼をいたしました、と、紅月は慌てて少年から手を離そうとする。
けれども相手は、なぜか逆に、きゅ、と、紅月の手指の先を軽く握るようにしてきた。
「え……?」
戸惑った紅月が思わず少年の顔を見ると、彼は、にこ、と、人好きのする笑顔を浮かべる。
「皇太子が一子、李朗輝です」
涼やかな声で真っ直ぐに名乗られて、紅月は思わず息を呑んでいた。




