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紅月夜話-妖女と呼ばれ婚約破棄された令嬢、年下殿下に溺愛される-  作者: 豆渓ありさ
一章 皇太孫殿下との縁談が降って湧きました。
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1-4 久々の縁談

 ――気味の悪い、妖女(ようじょ)め。


 当時、まがりなりにも恋い慕った許婚(いいなずけ)は、眉根を寄せ、まるで憎々しげとでもいうべき調子で、紅月(こうげつ)に向けてそう()()てた。


 理由はわかっている。


 この(しょう)国においては、何よりも不吉だとして()み嫌われる皆既(かいき)月蝕(げっしょく)――……紅月。それのせいだ。


 破談はもう十年近く前のことだというのに、かつて許婚に言われた言葉を思い出し、紅月(こうげつ)は思わず身を(すく)めていた。記憶が(よみがえ)るたびに、いまだに、臓腑(ぞうふ)の底が冷たくなるような気がする。


 己を落ち着けようと、紅月は、ふう、と、ひとつ息をついた。


 算盤(さんばん)の上の算木(さんぎ)を、紅月は無意識に(いじ)っている。そうしているうちに、すこしだけ、気分が楽になるのを感じた。


 だいじょうぶ、と、心の中で自分に言い聞かせる。月蝕の周期は算術で求めることができるのだ。だから、不吉だなどというのは単なる迷信だ、と、|算木をきゅっと手指(てゆび)(にぎ)って、もう一度、深呼吸した。


 破談を惜しいとは思わない。だって、紅月の話も聞かずにこちらを不吉だと決めつけた男なんかと結ばれたところで、結局、いつかどこかで、婚姻関係は破綻(はたん)をみただろう。


 そんなふうに考えるのは、けれども、もしかすると単なる強がりなのかもしれなかった。


 好意を寄せた相手に、手酷(てひど)く拒絶されたのだ。そうとでも思わなければ、傷つく自分の心を守ることが出来なかった。


 紅月は自嘲(じちょう)するように口許(くちもと)をゆるめた。


 あれ以来、房間(へや)にこもって、算盤と向き合う時間ばかりを過ごしている。まるでそれに(すが)るかのように、算木とたわむれてばかりいる。


 それが世の役に立つわけでもないのに、と、紅月はまたちいさく嘆息(たんそく)をもらした。


 最初の縁談が駄目になってからも、父の英俊(えいしゅん)は、いくつかの縁談をまとめようと奔走(ほんそう)してくれた。英俊にとって紅月は、愛する妻の忘れ形見であり、ひとり娘でもある。そんな紅月を心の底から可愛がってくれる父は、なんとか、紅月にしあわせな結婚を、と、そう望んでくれていた。


 けれども、結局は、どれもうまくまとまらなかった。


 そのころの紅月には、不吉な女だ、(めと)れば家に不幸をもたらすにちがいない、と、そんな風聞が流れていた。おそらく噂の出所は、許婚であった高家の嫡男だったのだろう。


 続けていくつかの縁談が立ち消える頃になると、今度は、そのこと自体が、紅月の結婚の足枷(あしかせ)となっていった。


 これだけ婚姻の話がまとまらないのは、やはり紅月のほうに、何か大きな問題があるのだろう、と、世間にはそう捉えられたに違いない。二十歳(はたち)になるころには、もうすっかり、結婚の話など持ち上がらなくなってしまっていた。


 つまるところいまの紅月は、いわゆる、()き遅れというやつだ。


「それもこれも、お前が算術などを好むから……」


 はあ、と、英俊はまた長嘆息をこぼした。


 だが、こんなものは、聴き()れたいつもの愚痴(ぐち)にすぎない。紅月は、英俊が呆れながらも紅月から算盤や算木を取り上げたりはしないことを知っていた。


 だから紅月はすこしだけ笑って、書卓の上の算木を(ふくろ)の中へ仕舞いながら、すこしだけ反論してみた。


「そういう父上だって、ご自分は書物の虫のくせに。わたしにばかり文句を言うのは不公平ですよ」


 もちろん、こちらもまた冗談である。自分を愛し、尊重してくれる英俊に向かってだからこそ、こうした軽口を叩くことも出来るのだ。


「まったく、お前は」


 英俊は溜め息をもらした。


「減らず口をたたくな! だいたい、私のは仕事。お前のは趣味だろうが。――ああ、ほんとうに、いったいどこの世に、算木・算盤を肌身離さず持っておるような女子(おなご)を嫁にしようという物好きがあろうか……って、聴いておるのか、紅月!?」


 毎度毎度の父の(なげ)きを聴き流しつつ、紅月は算盤の布を(たた)んで帯に(はさ)み込む。ついで、算木の(ふくろ)を腰から()げた。


「はい、父上。ちゃんと聴いておりますし、これでも、わかってはいるのです」


 頭では、と、紅月は思う。


 それから、漏窓(すかしまど)の向こうの、澄んだ秋空へと視線をやった。


 じきに日が暮れる。今日の月は、西の空に引っ掛かるような、三日月のはずだった。


 自分がもしも男子(だんし)だったならば、と、腰に提げた算木の嚢を紅月はそっと撫でた。


 たとえば戸籍や財務を(つかさど)戸部(こぶ)治水(ちすい)開墾(かいこん)などを(つかさど)工部(こうぶ)といった部署において、実学である算術を身につけた官吏は、相当に重宝される。


 だが、いくら名門に生まれようとも、女子は官吏にはなれなかった。


 だから、紅月がいくら算術が得意でも――それはまさに、父の言う通り――単なる趣味にすぎない。実際に役立てられる場も、機会も、存在はしない無用の長物。いや、それどころかむしろ、変わり者と見()される所以(ゆえん)となり、縁談に悪影響を与えてさえいるから、百害あって一利なしといったところかもしれなかった。


 そう、頭ではわかっているのだ。


 とはいえ、好きなものは仕方がないではないか、と、紅月は開き直るような気持ちで、心の中だけで言ってみた。


 女だからという理由で、それを好きだと言うことすらおかしいと(なじ)られるのは理不尽だ、とも、おもう。


 でも、そんなふうに主張することを、いつからか、紅月は恐れるようになっていた。いまとなっては、隠し立てせずに言えるのは、父・英俊に対してくらいのものだろうか。


 ほんとうは、おとなしく結婚して、早く父を安心させてやりたい気持ちだって、紅月にはあるのだ。英俊とて国の高官の身であれば、一人娘が不吉だの、変人の()き後れ遅れだのと噂され、物笑いの(たね)だというのでは、面目が立たないところもあるだろう。


 そう、理解はしている。


 けれども一方で、自分にはもう、きっと結婚などは無理なのだろう、と、(あきら)めかけてもいる。


 はあ、と、紅月は長い溜め息を吐いた。


「結婚、か……もうなんでもいいから、どこかに縁談ばなしでも落ちていればいいのですけど」


 紅月が算術好きでも目を(つむ)ってくれそうな、名家の令息はいないだろうか。


 そんなことを考え、我が思考ながらあまりの現実味のなさに、紅月は重ねて嘆息した。


 いればとっくに紅月も嫁ぐことが出来ていただろう。見つかる確率は限りなく低い。


 いっそ戸部か工部か、すこしでも算術に理解のありそうな部署に勤めている書吏(しょり)――下級官吏――か誰かを、蘇家の家名と財産とを(えさ)にでもして、婿にしてしてしまうことは出来ないだろうか。そうすれば紅月も、好きな算術を、夫たる人の密かな助けとしてくらいには、役立てられるのかもしれない。


 そちらのほうが、まだしも実現する確からしさが上のような気がした。


 でも、それも無理だろうか。なにせ紅月は家に不幸をもたらす妖女との風聞なのだから、と、こちらがそんな思考をしていたときだ。


 目の前の英俊が、いつしか、わなわな、と、小刻みにふるえ出してている。


「……父上?」


 父の様子を怪訝(けげん)に思って、紅月はその顔をのぞき込んだ。


 その瞬間、英俊は、がばっと両手を大きく天に向けて広げた。


「そう、そうだった! それをお前に言いにきたんだ! これぞまさに降って湧いた幸運!」


 叫ぶように言い放った父は、どうやらいま、大きな喜びから来る興奮によって打ち震えていたらしい。


 珍しく大袈裟(おおげさ)な行動を取る父に驚いた紅月が大きな黒眸(こくぼう)をきょとんと(みは)っていると、今度は英俊は、紅月の手を取り、ぎゅっと握った。


「紅月! なんとお前に、もはや諦めかけておった縁談だ!」


「は、はあ……」


 そうですか、と、英俊の勢いに気圧(けお)されるように、紅月は曖昧(あいまい)にうなずく。


 その後で、気を取り直すようにして、英俊の顔を見た。


「えっと、父上……それでお相手はどちらの御方なのですか? あ、誰かの(のち)添いとか?」


 もはや婚姻の話など出なくなって久しい二十五歳。しかも、不吉だの、ついでに算術好きの変わり者だのといわれる紅月を、わざわざ相手に選ぶ者など、そうそう、いるわけもない。


 たとえば妻に先立たれたから後妻を探しているなどといった事情ででもなければなさそうではないか、と、比較的考えやすい状況を口にした紅月を前に、けれども英俊は、きっぱりと首を横に振った。


 そして、次に父が放ったのは、紅月が欠片(かけら)ほども予想しなかった言葉である。


「相手は、なんと、皇太孫(こうたいそん)殿下だ……!」

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