終 その後の皇宮の日常
カン、カン、と、金属のぶつかり合う、高く、けれどもわずかに籠ったような鈍い音が連続していた。
皇宮内、朝堂院の前の広場である。
緊迫した空気を振るわせるのは、ふたりの若者が剣を打ち合う音だった。午の陽光を受けて石畳に落ちる黒々とした影は、跳ねたり縮んだり、あるいは重なり、あるいは離れと、忙しなく変化を繰り返している。
その周りを取り囲む人だかりがある。衛士や官吏、あるいは女官たちだ。その所為で、単に稽古のための手合せのはずが、まるで御前仕合かなにかのような雰囲気を醸していた。
皆が固唾を呑んで勝敗の行方を見守っている。
やがて、ヒュン、と、剣峰が空を切る音が鋭く響いた。
その刹那、場の空気が、しん、と、張り詰める。低く落とした体勢から剣を繰りだしたほうの若者は、に、と、笑った。一方で、喉元に剣先を突き付けられたほうはぴたりと動きを止め、一拍ののち、ふう、と、長い息を吐いた。
「――……参りました」
構えていた剣を下ろすと、年若い衛士はそう言って口許をゆるめる。
「殿下は随分と腕をお上げになった」
負かされたほうの衛士が笑いながらそう言葉を続けたところで、わっ、と、周囲が一斉に沸き立った。
重ねて、少女たちの上げる、きゃあ、という黄色い声も交じる。
「皇太孫殿下ぁ!」
「とっても素敵ですわ!」
皇宮に仕える女官といえば、皇族に見初められれば妃嬪のひとりに取り立てられることもある。そんな白昼夢に刹那ばかり我が身を委ねる少女たちが、どこかうっとりとした視線を向ける先にいるのは、李紅月、成人した際に得た字を朗輝という。やがてこの宵国の皇位を担う、いまはまだ若き皇太孫だった。
朗輝は体勢を起こすと、滑らかな動作で剣を鞘に収めた。
「ああ、もう……文武両道に、加えてお優しいとか」
「完璧よねぇ」
女官たちはまだ、きゃあきゃあ、と、喧しい。
一方の朗輝は涼しい顔、軽い足取りで場を後にした。彼が向かう先にいるのは、蘇明、字を紅月という、皇太孫妃だ。
「紅月! どうだった?」
朗輝は紅月の傍へ軽やかに歩み寄ると、ことりと小首を傾げ、開口一番にそう問うた。
長じて青年らしさを増し、いまや皇宮の誰もを虜にしてやまない端正に整った涼やかな美貌に、人好きのする明るい笑顔が浮かんでいる。だがそれは万人のためのものではなく、ただひとり、彼の目の前に立つ女性に向けられたものだった。
「最後の踏み込みの幅も、剣鋒を繰りだす角度も、寸分の狂いなく完璧だったかと存じます、殿下」
訊かれた紅月のほうもまた、にこやかに笑って、すらすらと応じた。
紅月の答えを聴いた朗輝は、ふ、と、吹き出した。
「あなたらしい感想だね。大好き。――でもさ。ねえ、僕が恰好よかったかどうかっていうのも、訊かせてくれる?」
それが訊きたい、どうだった、と、朗輝は端正に整った顔を紅月に近付け、その眸を覗き込んだ。
初めて見合いをした頃にはまだ紅月よりもわずかに低かった身長も、あれから二年ですらりと伸びて、十八歳になったいまでは朗輝のほうが頭ひとつ分は背が高い。その彼に迫るように間近から見詰められて、紅月は、かっと頬を桃色に染めた。
「あ、あの、その……とても、恰好よかった、です」
最後は聴こえないくらいの小声になった。先程、幅だの角度だのと口にしたときとは大違いである。
だがそれでも、紅月の改めての答えに、朗輝はにこにこと上機嫌の表情を見せた。
「そう、よかった! あなたにそう思って貰えるのが、僕には何より嬉しいんだから」
衒いもなく言うと、朗輝は紅月の手をすっと取る。
「さあ、稽古は終いだし、宮へ帰ろう」
そのまま、紅月を誘って歩き出した。
「今日の朝議の後で、お祖父さま――皇帝陛下から、あなたに菓子を賜っているんだ。先日、暦法の見直しを手伝ってくれた褒美にと。お茶を淹れて、いただこう」
「褒美だなんて、そんな……趣味で、すこし口出しさせていただいただけのことです。身の程知らずにも差し出口を挟んでしまったのではないかと、かえって心配なくらいで」
「そんなことないよ。また頼みたいって。あとね、賢くて美しい妃を持って太孫は果報者だと、僕もお褒めに与ったから。――紅月、僕の運命のひと……あなたは、僕の自慢の妃だ。ほんと、大好き」
朗輝は人の耳目をまるで憚ることなくそんなことを口にし、いかにもいとおしげに目を細めて、紅月を見詰めた。
紅月が気恥ずかしさから真っ赤になり、もうっ、と、夫への文句をひとつ、顔を両手で覆ってしまうと、あはは、と、今度は朗らかに笑う。
それを見せつけられて口惜しげに身を捩るのは女官たちだ。
「あぁん、殿下!」
「どうしてその若さですでに既婚者なんですのっ?」
ふたりの後姿を見送りながら、口々に言い募った。
「でも、待って。皇族ならば、妃嬪はひとりと限ったものではないし……」
悔し紛れにそんなことを言う者もあったし、たしかにそれは事実である。その意味では、彼女たちにもまだ可能性は皆無ではないわけだが、しかし、いまのような遣り取りを皇宮で日常茶飯事的に見せつけられていて、そんな一縷の望みに賭けてみようと思うものが、果たしているだろうか。
「無理よね……太孫殿下は、超のつく愛妻家ですもの」
「七歳の頃から、たったひとりの女性にどこまでも一途なのだとか」
口々に呟くと、女官たちはいっせいに、はあ、と、大きな溜め息を漏らした。
そんな彼女たちの嘆息を後目に、紅月と、その手を引いたままの朗輝とは、実に仲睦まじく皇宮の奥へと去ったのだった。
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