5-1 運命の月蝕
「もうすぐ宴も終わります」
ふたりして庫から出るとすぐ、紅月は憂い声で言った。
いまはまだ気づかれていないようだが、遠からず、高圭嘉は紅月の様子を見に、ここへ戻ってくるだろう。鎖が破壊され、紅月がいなくなっていることに気付けば、追っ手をかけるに違いなかった。
圭嘉が庫へ戻ってくるまでの間に高府から脱出できなければ――今度は、朗輝とふたりして――追い詰められ、捕らわれの人に逆戻りになってしまう可能性が高い。
かといって、見張りや門卒がいる高府から、その目を盗んで、朗輝とふたりで密かに抜け出すことは簡単なことではなかった。朗輝ひとりなら――紅月のことには素知らぬふりで――門を出て、帰途につくこともできようが、紅月を連れてでは、そうもいかないだろう。
やはりおひとりで、と、言いたくなる。
けれども、こちらの手をしっかりと引く少年の横顔を見ていると、たとえ紅月がそう言ったところで、朗輝が納得するとも思えなかった。
とはいえ、朗輝はこの状況をいったいどうするつもりなのだろう。
まさか高府の人間の全員を敵にまわして大立ち回りをするわけにもゆくまいに、と、ちらりと相手を窺い見ると、彼はなぜか、南天を指してずいぶんと高くまで昇った満月を見上げていた。
「うん……もうすこし」
天を仰いだままで、ぼそ、と、そう言う。
「じき、騒ぎになるだろうから……それに乗じて、抜け出そう」
「騒ぎ?」
わけがわからず紅月が目をぱちくりさせると、ふ、と、朗輝は口角を持ち上げた。
「じきに月蝕が起こる。月が欠けはじめたことに誰かが気づけば、そこからは、みんな大騒ぎだ。で、門卒なんかも、堂宇の中に隠れるだろ?」
「月蝕って……どうして」
月仙女・姮娥娘々の加護を信じるこの国の人々にとって、それは最大の凶兆だ。前触れなく起こるものであるからこそ、恐怖の対象であり、最も忌まわしき、不吉なる出来事なのだとされていた。
だが、朗輝はいま、まるで何でもないことのように、蝕を予言しはしなかったか。
紅月がぽかんとしていると、相手はすこしばかり呆れたような表情になった。
「なに? わすれたの? 今晩だよね、皆既月蝕」
「え……?」
「だって、あなたが言ったんだよ。九年前の弄月の宴の晩、皇宮の園林で、まだ七歳だった僕に。五年後と、その四年後に、月蝕が起きるって。計算したって。――……覚えてない?」
そう問われても、紅月にはまだ事態が飲み込めない。はたはたと目を瞬いて、朗輝の顔をまじまじと見た。
たしかに九年前、成人したばかりの十六歳の紅月は、月蝕の周期を計算していた。いくつか割り出したもののうち、直近のそれは、ちょうど皇宮での観月の宴に重なっていて、それを圭嘉に教えたことで、後に彼から気味悪がられ、破談されるに至る原因となった出来事だ。
皇宮に多くの臣下が招かれての、月見の宴の夜のこと。そのときの紅月は、宴の喧噪から離れて、皇宮の園林に入り込み、ひとりで月を観察していた。
そういえば、そこで、幼い少年に出逢ったように思う。
月蝕は――紅月は――不吉なのではないのか、と、そう不安げに声を震わせて問うてきた少年に、紅月は言ったのだ。
月蝕の日は、計算によって求められる。ならばそれは、月の満ち欠けと変わらぬ、単なる自然現象のひとつである。五年後と、その四年後にも、月蝕が起きるはずだ。もしもその通りになったなら、自分の言葉を信じてほしい、と――……それを聴いて、大きな眸をまんまるにしていたあのときの幼子が、では、朗輝だったというのか。
「――……おもいだした?」
紅月の手を取って、朗輝はゆっくりとした口調で、言う。
目を瞬くこちらを前に、こと、と、小首を傾けた。
「あれ、が……朗輝さま」
「そう。あの夜、僕はあなたに心を救われた。あなたは、俯くばかりだった僕に、顔を上げて見上げる月のうつくしさを、教えた」
そう言って、ふ、と、どこか懐かしそうに口許を綻ばせた。
そして、いまも、大きく天の満月を仰ぐ。
「ほら、みて……きたよ。蝕だ。――やっぱり、あなたはすごいね! 大好き!」
ちら、と、こちらを見ると、すぅっと細めて笑った。
「じきに誰かが気づいて騒がしくなるはずだ。皆が堂宇の中に逃げ込んだら、行くよ。厩舎に僕の馬がいる」
朗輝がそう言っているそばから、これまでの宴のざわめきとは明らかに質の違う、悲鳴じみた声が聞こえはじめる。
「あなたを不吉だなんてくだらないことを言ったのは、どうせ、あの腹立たしい男だよね? 妹の成人を祝う宴に月蝕だなんて、いっそ報いだな。いい気味」
朗輝はそう言って、くく、と、かすかに喉を鳴らした。
「でも……それもまたわたしの呪いだと、圭嘉さまは言い触らすかもしれません」
「うん? それならそれで、言わせておけばいい。大丈夫、これから、あなたのことは僕が全力で守るから。――ま、不正が明るみに出れば、この先の高家に待ってるのは没落の一途だからさ。そんなやつらが何を喚こうと、もう、世人は耳を貸さなくなるだろうけどね」
に、と、口角を持ち上げると、朗輝は力強く紅月の手を引いた。
「さ、いくよ」




