1-3 回想ノ二-運命の夜-
時は流れて、やはり皓々たるある満月の晩のことである。
不吉とされる皆既月蝕の夜に生まれ落ちた紅月は成長し、この年、七歳になっていた。
けれどもこの小童に、その年頃らしい溌剌とした気配はない。暮れた園林を歩む足取りもどことなく重く、その顔はわずかに俯いていた。
それはあたかも、空に照り輝く明朗とした月に対して、気後れでも感じているかのようだ。それで、無意識に視線を逸らしてしまっているのかもしれなかった。
人の口に戸は立てられない。
だから紅月は、自分が生まれ落ちた日のことを、いつとなく知るようになっていた。
そのせいで、物心つく頃にはもう、自分は呪われた不吉な子なのだ、と、そう思い込むようになっていた。
月は、嫌いだ。
特に盈々とした望月は、どうしても好きにはなれない。
今宵は、宵国の高位・高官の家の者たちが集まって月を愉しむ、弄月の宴が開かれている。
月仙女・姮娥娘々を祀る宵国の人々は、皆、夜空に浮かぶうつくしい月を、仙女の形代として愛していた。
観月は、だから、彼らにとっては何よりの楽しみなのである。
石畳の敷かれた庭院では、いま、豪華な宴席が張られている。天にある月とともに、酒や料理、歌舞音曲などをたのしむのであろう人々の賑やかな声が、遠くのほうから響いていた。
しかし、紅月はその賑わいの外にいる。
人気のない園林へと、ひとり、逃げるようにやってきていた。
ふう、と、紅月はちいさく嘆息をついた。
園林の小石を軽く蹴飛ばすと、石は、思いの外勢いよく転がった。そのまま、波ひとつなく凪いでいた池の中へ、ぽちゃん、と、ちいさな音を立てて落ちていく。
月光の下に蓮の咲く池には漣が立ち、水面に映った月影がゆらゆらと揺れた。
そのとき、ふと、紅月は気がついた。
橋の向こうの浮島にひっそりと佇む亭の中に、ひとり、ぽかりと月を見上げる人影があるのだ。
年齢は自分よりも十歳ばかり上だろうか。軽く仰のいて、じっと天を見つめている。
なにをしているのだろう、と、しばらくその人物を窺っていると、そんなこちらの気配に気づいたらしい相手が、ちら、と、紅月のほうを見た。
そして――意外にも――にこり、と、屈託なく笑った。
「あなたも月見ですか?」
相手はやわらかな声で言った。それから、かけていた椅子からすっと立ち上がると、橋を渡って、紅月の傍までやってくる。
黙って無遠慮な視線を向けていたこちらに気を悪くするふうもなく、相手はゆっくりと屈んでこちらと顔の高さを合わせると、再び紅月にやさしい笑顔を見せた。
「あなた、も、お月見……?」
相手の微笑につられるように、気づけば紅月は、おずおずと訊ねている。けれども、もしも観月ならば、皆と宴にまじればいいものを、と、そう怪訝にも思った。
そんなこちらの疑問など知らぬげに、その人は目を眇める。
そして、真っ直ぐに、夜空に明い月を指さした。
「わたしは、月が欠けるのを――蝕を、待っています」
言われて、紅月ははっと息を呑んだ。
だが今度も、やはり相手はこちらの思いには気づかぬふうだ。満月を仰ぎ見ている顔は、にこにことして、いかにも上機嫌だった。
「わたしの計算では、今日は皆既蝕になるはずなんです」
その人はつづけて、そう言った。
「けい、さん……?」
相手の意外な言葉に、紅月はぱちくりと目を瞬いた。
紅月の知るところでは、月仙女を祀るこの国において、月蝕は、最も忌むべき不吉の前兆である。それは予告なく不意に起こり、それゆえにこそ懼れられる、これ以上ない凶兆だとされていた。
「計算って?」
紅月はおずおずと訊ねた。
「ええっと、詳細を話すとややこしいのですが……要するに、これまでの蝕の記録をもとに、算術を使って、次に蝕になりそうな日を求めてみたということです。今宵はそのうちのひとつで、たぶん、皆既蝕――紅月が、見られるはず」
「紅月は……見ると、不幸になるって」
かつてそんな忌み日に、自分はこの世に生を受けた。凶に凶を重ねることですこしでも不吉を打ち払おうという意図で、紅月、と、そんな名を負って生きることになった。
負い目にも似た想いのために、紅月の声は、後にいくほどちいさく萎む。
けれども、それに応えた相手の声音は、紅月の小声とはうらはらに、いかにも澄んで明朗としていた。
「まさか!」
その人はきっぱりと言い切って、明るい笑顔をみせる。
「考えてもみてください。だって、月蝕の日は、計算で求められるのですよ。周期があるのだから、月蝕も、単なる自然現象のひとつでしょう? わたしは月蝕の記録を見るのにずいぶんと史書を漁りましたが、嵐や旱、洪水や地震などの割合が、蝕の年に限って、偏って多かったなどということはありませんでした」
「ほんとう……?」
「ええ。蝕が不吉だというのは、単なる迷信だと思います」
言われて紅月は、ほう、と――まるで、生まれて初めてこの世で呼吸をしたかのように、心の底から――長い長い吐息をもらした。
相手がすっと目を細める。
「わたしの計算では、今日の次の月蝕は五年後、それからまたその四年後に、紅月が見られるはずです……もし当たったら、月蝕が不吉だなんて単なる迷信だと、あなたは信じてくれますか?」
その人は冗談めかして言って、微笑む。
その笑顔につられるように、紅月もちいさく笑った。
「――あ!」
そのとき、相手が声を上げた。
「ほら!」
得意げに指し示してみせる先では、満月に、わずかに影が差し始めている。
世人が忌み懼れる、蝕だ――……けれども紅月には、いま中空に冴え冴えと輝くその月が、これまでに目にしたどんなものよりも眩く、気高く、尊く見えていた。
自分は呪われた、不吉の象徴なのだとおもっていた。
でも、そうではないのかもしれない。
顔を上げ、月を仰ぎ見た紅月の心には、ほんのりとあたたかな光明のようなものが燈っている。
その夜の出来事は、確実に紅月を変えた。
紅月は、夜空に皓々と照る明月のうつくしさを初めて知り、そして、己にそれを教えた人が口にした算術というものに対しても、心の底から感嘆した。
それはまさに紅月にとって運命の夜であった。
***
「――月蝕に魅入られた妖女め。お前との婚約は破棄する」