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紅月夜話-妖女と呼ばれ婚約破棄された令嬢、年下殿下に溺愛される-  作者: 豆渓ありさ
四章 皇太孫殿下にお別れを言いました、でも…
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4-1 憂悶に沈む

 ――本気にしたの? 莫迦(ばか)だなあ。あなたには、ちょっと知りたいことがあったから、近づいただけだよ。


 朗輝(ろうき)が呆れた表情で肩を(すく)めた。その口許には(あざけ)りめいた笑みが浮かんでいる。


 ――だって、そうでもなきゃ、どうして僕があなたなんかと?


 理由がない、と、彼は冷たく言い放つ。


 ――あなたなんか、僕に相応(ふさわ)しくないじゃないか。十歳(とお)近くも年上で、女のくせに(さか)しらな口をきくし……その上、不吉な〈紅月〉だ。それでよくもまあ愚かな期待が出来たものだよね。


 はは、と、(わら)われて、紅月は、ひゅ、と、息を呑んだ。


 その刹那、急に足元の地面がなくなって墜落するかのごとき恐怖に襲われる。身体が瞬時、(すく)んだとき、紅月は、は、と、目を()ました。


 夢か、と、思う。胸ではいやな動悸(どうき)が鳴っていた。


 夢だ、と、息を吐きながら、紅月は(ひたい)を押さえた。


 どうやら(ながいす)の背に寄りかかるようにして眠ってしまっていたらしい。昨日も、一昨日(おととい)も、朗輝と最後に言葉を交わした五日前のあの日から、夜、うまく眠れていなかった。そのせいで、いま、うとうとと転寝(うたたね)をしていたようだ。


 身体を起こして視線を向けると、漏窓(すかしまど)の向こうには暮れ(なず)む空が見えている。秋の日暮れは早く、わずかに日が傾いてきたかと思ううちに、もう天は茜に染め抜かれていた。


 残照だけが世界に(とも)る、黄昏(たそがれ)時だ。


 今宵は月が()ちきる晩だ。そろそろ東の地平からは満月が覗く頃だろうか。(ながいす)に腰掛けた紅月は、ぼう、と、空を眺めた。


 なんという(いや)な夢見だろう、と、おもう。


 朗輝はあんな言葉を紅月に言い放ったことはない。だから、いまの夢も、紅月が漠然と抱えている不安や恐怖がかたちを為したものに過ぎないのだろう。


 けれども、と、それでも紅月は、頭の隅でどうしても嫌な想像をしてしまうのをやめられなかった。口にこそ出さなかっただけで、ほんとうは朗輝だって、心の中で、紅月を嘲笑していたのかもしれない。分不相応な期待に舞い上がりそうになっていた自分を、彼がどう見ていたのかと思うと、居た堪れないきもちになった。


 ふ、と、溜め息を()く。


 もう今日は、(こう)家では鈴麗(りんれい)の成人祝いの宴が催されるはずの日だった。結局、朗輝は紅月が仲立ちをした書状を、どう扱うことにしたのだろうか。返事はしたのか。今晩、彼は、高家を訪ねるのだろうか。


 つらつらとそんなことを考えて、紅月は、ふと、自嘲めいた笑みを口許に浮かべた。


 どうして今更こんなことを気にしてしまうのだろう。だって、朗輝はいまやもう、紅月とはなんら関係のない人になってしまったのだ。きっと彼と親しく会う機会など、二度と紅月に訪れはしないだろう――……そして、(しょう)国の若き皇太孫殿下は、いずれ、彼にふさわしい相手と婚姻を結ぶのに違いない。


 一時、極上の夢を見せてもらっただけのことだ。


 朗輝だって()うに紅月のことなど意識の片隅(かたすみ)にも置いていないかもしれないのに、と、そう考えると、きゅう、と、胸が詰まってしまった。莫迦(ばか)みたいだ。いい年齢(とし)をしてみっともない、と――誰が見ているわけでもないけれども、まるで人目から隠すかのように――紅月は我が顔を両のてのひらで覆っていた。


 あの日から、ほんとうに、無為(むい)に時を過ごしている。


 これまで、自分の房間(へや)算盤(さんばん)と向かいあうときには、いつだって紅月の心は解き放たれて自由だった。算木(さんぎ)を操っているときには、純粋な算術の世界の中へ這入(はい)り込み、他のどんなことにも心(わずら)わされずに済んでいた。その(たの)しみだけは、どんなときも、どんなことがあっても、紅月を(なぐさ)めてくれていたのだ。


 けれども、いまとなっては、どうだろう。


 朗輝と皇宮で別れてからの五日間というもの、紅月は、なによりも好きなはずの算術すら手につかない有様で、日々、ぼんやりと時を暮らしていた。


 お守り代わりに、密かに対襟(えり)斉腰(おび)との隙間に忍ばせている算盤の布に触れる。同じく、いつも腰に(くく)り付けている、算木(さんぎ)の入った(ふくろ)を撫でる。けれども、それらを取り出してみようという気にはなれなくて、くちびるからはまた、ふう、と、大きな嘆息がこぼれおちた。


「――紅月」


 そのとき、不意に、扉の向こうから英俊の呼ぶ声が聴こえてきた。けれども紅月は、なんとなく億劫(おっくう)で仕方がなくて、返事をしなかった。


 房間(へや)の中のこちらの様子を窺うようなしばしの沈黙(もだ)が落ち、やがて、入るぞ、と、そう一言断って、父は扉を押し開けた。


「……父上」


 そこでようやく、紅月は力なく言って、相手のほうへと視線を向けた。英俊(えいしゅん)の手には、見覚えのある(はこ)が抱えられている。


「父上……それ、は?」


 紅月は父の手にあるものに、ふ、と、胸ふたがれる想いがした。賞菊を口実に初めて顔を合わせた次の日、朗輝は紅月に手ずから(こしら)えた菓子を紅月に贈ってくれた。そのときと、同じ筺だ。


「皇太孫殿下が、いま、門前にお越しになってな。――これを、お前にと」


 言いながら英俊は、紅月の手に、朗輝からだという瀟洒(しょうしゃ)な細工が施された筺を静かに手渡した。


「高家の宴席に招かれて出向いていかれる、その途中に、蘇府(うち)に寄ってくださったようだった。お前のことを随分と気にしていらしたが、かといって、会わせる顔もないからと(おっしゃ)って……それで、私に言付けを。憔悴(しょうすい)しておられるというか、意気消沈しておられるというか、とにかく、沈んだ表情をなさっていたよ」


「殿下が……」


 ぽつ、と、紅月は呟いた。


 きっと朗輝は、五日前、くちづけを受けた紅月が泣いたことを気に病んでいるのに違いない。いきなりの接吻で紅月を傷つけたと思っているかもしれない。


 だが紅月はあのとき、なにも、朗輝にくちづけられたのが(いや)で涙したのではなかった。


 厭だったのではない。


 厭などではなかった。


 そうではないのに、泣いてしまった。どうしてか、胸が苦しくて、たまらなかったのだ。自分が(こぼ)れてしまいそうに痛くて、痛くて、だから、これ以上に朗輝と関わってしまえばいつか自分が粉々になってしまいそうで、そのことがこわかったのかもしれない。


 もう、傷つく前に、逃げてしまいたかった。


 たぶん、そういうことだったのだ。朗輝のせいではない。紅月のほうの問題だ。


 それなのに、彼に気を遣わせてしまった。


「……もうしわけ、ありません」


 聴かせたいひとには届くはずもない謝罪を、それでも、紅月はちいさくくちびるにのぼらせていた。

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