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紅月夜話-妖女と呼ばれ婚約破棄された令嬢、年下殿下に溺愛される-  作者: 豆渓ありさ
三章 皇太孫殿下は皇帝の密命を帯びているようです。
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3-6 無体と涙

 朗輝(ろうき)紅月(こうげつ)をどこか必死の態で呼びとめようとした。


 けれども紅月は歩を止めなかった。


 振り向けば、きっと泣いてしまう。くやしくて、かなしくて、せつなくて、涙があふれてしまうに違いなかった。


 そんな顔は、朗輝には見せられない。だから眉を(ひそ)めて必死で堪え、紅月は朗輝の声を努めて意識の外へと押し出そうとした。


「……っ、待ってって、言ってる」


 けれども、諦めなかった朗輝に、結局は、走廊(かいろう)に先回りされてしまった。


 はっとして方向を変えようとするけれども、すぐに柱の陰へと追い詰められてしまう。こちらの身を囲うように腕を突かれ、迫られて、紅月は相手から必死に顔を背けようとした。


 けれども、朗輝がそれを許さない。頬に手を添えられて、無理に、視線を合わさせられる。


 真っ直ぐにこちらを見据える黒い眸と、紅月は、吐息がまざるほどの間近で視線を交わすことになってしまった。


「はな、して……ください」


「いやだ」


「殿下」


「いやだ。行かせない。僕とちゃんと話をしてくれるまで」


「もう……お話しすることなど、ありません」


「なにそれ。――僕との縁談を断るってこと?」


 朗輝が、ぐ、と、紅月に顔を近づける。いつも見せていたにこやかな表情は影も形もなく、その(ひとみ)には(くら)い怒りの(ほむら)が揺らいでいた。


「わたしのほうからお断りするなど……おこがましい」


 紅月はひしひしと感じ取れる朗輝の(いきどお)りに気圧(けお)されながらも、かろうじてそう口にした。


「もとよりわたしなど……殿下にふさわしい相手では、ありませんし」


「はっ。ふさわしくないって、なにさ。いったい誰が決めたっていうんだ。他ならぬ僕が、あなたがいいって言ってるのに」


「っ……もう、結構です……!」


 思わず、突っ()ねるような調子で言っていた。


 それから、目を伏せがちにして、そ、と、諦めたような息をはく。


「もう、結構ですから……」


 やめてください、と、紅月は弱弱しく懇願した。


 利用するつもりで近づいただけなのだから、もう、そんな言葉を言ってもらわなくてもよかった。


 むしろ(みじ)めになるだけだ。だからもうやめてほしい、と、紅月は心の底から願っていた――……これ以上は、もう、つらい。


 わかっていても、期待してしまいそうになるからだ。(ほだ)されてしまって、朗輝と共に、もっともっと共に時を(つむ)ぎたい、と、そう願ってしまいそうになるからだ。


「わ、たし……かえります。はなして」


「いやだ」


「殿下」


「黙って。ちゃんと話をしよう」


「必要ありません」


「黙ってって! ――黙らないなら、無理にでも黙らせるよ」


「帰ります。どうか……」


 お許しを、と、そう言おうとした瞬間だった。けれども紅月は、続く言葉を(つむ)ぐことが出来なかった。


 目を見開く。


 視界に、朗輝の伏せた白い(まぶた)の、そこに薄らと浮く血管までもが見えていた。涼やかな目許を縁取る密な(まつげ)の一本一本も、だ。


 どうして彼の顔がこんなにも近いのだろう、と、紅月は呆然とした。そしてくちびるには、あたたかな何かが触れていた。


 くちづけ、されている。


「……あ」


 朗輝がくちびるを離した刹那、紅月はちいさく声をもらした。


「あやまらないよ」


 朗輝は昂然と言い放った。


「黙らないなら黙らせるって、予告はした。それに、これは罰だ。あなたが僕の話を聴こうとしないのが悪い……っ、て、紅月どの……?」


 こちらを(にら)むように見据えて言い募っていた朗輝が、ふいに、はっとしたように目を(みは)る。そうかと思うと、そのまま、見るも()えぬほどに、おろおろと狼狽(うろた)えはじめた。


 それまで怒りに打ちふるえ、ずっと険しい表情のままだったのが、途端に、眉尻を下げた困り顔になった。


「ごめん……ごめんなさい。そんなつもり、なかったんだ」


 謝らないと言った矢先から、前言を(ひるがえ)して、彼は詫びの言葉を口にした。すっと伸びてきた手が紅月の頭を抱え込むようにする。


「泣かないで……ごめんなさい」


 困惑気味の声音が耳許にそう囁いて、それでようやく、紅月は自分が泣いていることに気がついた。


 瞼がじんわりと熱い。(まなじり)から涙があふれる。後から後から、ほろ、ほろり、と、こぼれ出て、その滴は白い頬を伝って落ちた。


「ごめん……ごめん、なさい」


 朗輝は幾度も繰り返す。まるでそれしか言葉を話せなくなってしまったかのようだ。こちらの頭を抱きかかえ、(なだ)めるように、頬をすり寄せた。


 紅月は相手の肩に額を押しつけるようなかたちで、声もなくしばらく泣き濡れていた。


「……もう、これ以上……わたしを、ゆさぶらないで」


 そうだ。結婚など、()うに諦めかけていた。ここまできたらもう、名家の令嬢らしくないと言われようが、なにより好きな算術と(たわむ)れながら一生を過ごすのでもいいかと思っていた。


 自分の房間(へや)に籠もって、算盤(さんばん)の前、算木(さんぎ)を操っているとき、紅月の心は自由だ。そのしあわせだけでもういい、と、そう思おうとしていたのだ。


 それなのに朗輝は、そんな紅月の想いを、ふいに揺るがせた。


 彼の眼差しが、彼の言葉が、ぬくもりが、もう手に入らなくてもいいと思って諦めていたはずの何かへの期待を、再び、目覚めさせてしまった。


 でも、これ以上、この想いを膨らませて――……その先に、なにがあるのだろう。


 もしも朗輝に突き放されてしまったら、紅月は、どうしたらいいのだろうか。


 想像するだけで、胸がしくしくと痛んだ。


 だから、もう、無闇に関わらないでほしい。無造作に、こちらの心に、手をのばしてこないでほしい。


「……かえり、ます」


 紅月はちいさく言った。身体を離そうとして朗輝の胸を軽く押すと、今度は抵抗なく、相手は紅月を解放してくれる。


 朗輝は何か言いかけ、けれども、言い澱んで押し黙った。そのまま(うつむ)いて立ち尽くす相手をその場に置いて、紅月はひとり帰途についた。

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