3-3 恥知らずな依頼
「どちらさまでしょうか?」
門の内側のところまで行くと、いまは閉められている門扉の向こうへむけて、紅月は誰何した。
「ああ、紅月か。――ちょうどいい。私だ、高圭嘉だ」
開けてくれないか、と、どこか下手に出るような猫撫で声が聞こえてくる。
閂に手を掛けかけていた紅月だったが、相手が誰かを認識した途端、反射的に、さっと手を引いていた。
「……何の、ご用ですか」
警戒心も顕わに訊ねる。蘇家と高家とは断交して長く、ここ数年来、家人の行き来すらなかったのだ。それを、高家の嫡男が、いまになって急にどんな用向きでの来訪だろうか。
門扉を堅く閉ざしたままのこちらに焦れたように、圭嘉は、どんどん、と、重ねて門を叩いた。
「なあ、紅月。おまえに言付けを頼みたいんだ。皇太孫殿下に」
「なに、を……莫迦な」
「殿下に、我が家の宴席をお訪ねいただけるようにと、正式な招待の書状をお届けしたい。おまえ、殿下と懇意なのだろう? 昼間、隆昌の泊では、ずいぶんと親しげだったではないか。おまえの手からなら、殿下も無碍にはできず、受け取ってくださるかもしれない」
圭嘉が口にするのは、吐き気がするような打算だった。よくも恥ずかしげもなく言うものだ、と、紅月はくちびるを引き結ぶ。
皇太孫に取り次ぎを、と、そう言ってくる圭嘉の――あるいは高家の――思惑は、紅月にもすぐに呑み込めた。すなわち、この宵国の次々代を担う若き皇子との縁を繋ぎたい、と、そういうことだ。
朗輝と紅月との縁談は内々のもので、公にはされていなかった。だから、たとえば圭嘉が自分たちふたりが共にいる姿を目撃したとして、まさかそれが見合いの一環だとは思うまい。だから、単にそれなりに親しい間柄なのだと判断して、そんな紅月を利用することを思いついたということのようだった。
そこには、あわよくば高家の末の令嬢である鈴麗を皇太孫妃に据え、高家に利を呼び込もう、と、そんな算段も見え透いていた。
「今更そちらに、そのようなことをして差し上げる義理はございません」
紅月はきっぱりと断った。
圭嘉とは破談になった関係で、以後、顔を合わせることもなかったのだ。偶さか今日再会しただけの、本来ならば会いたくもなかった相手だった。
それを、わざわざ労を割いてまで、どうして圭嘉を利してやる必要があるのだろうか。
紅月は門扉を開けるつもりもなかった。
「お帰り下さい」
そう言い棄てて、踵を返そうとした、そのときだった。
「――……いいのか。そんなふうに突っ撥ねるようなことを言って」
ふと、不気味に低くなった圭嘉の声が、紅月の足を止めさせた。
「なあ、紅月。皇太孫殿下は、おまえの字の由来を知っているのか?」
問われて、紅月は言葉を詰まらせる。ぐ、と、言い澱んだこちらに、意を得たりというふうに、門扉の向こうの圭嘉が喉を鳴らして笑った。
「ああ、その様子じゃあ、知らせていないんだろうな。――まあ、それも、そうか。月仙女・姮娥娘々の加護を得て栄える宵国の皇族に、おいそれとは、聴かせられないよな……あんな、不吉なこと」
なあ、と、そう言う圭嘉の声は、紅月の背筋を凍らせた。
臓腑が冷たくなって、気持ちがわるい。ぜいっ、と、思わず荒い呼吸を吐き出し、それでも紅月は、無言のままで逃げ出したいと思う自分に、精いっぱい抗おうとした。
「不吉だ、などと……だいたい、紅月など、女子の字としては、特に珍しくもなんとも、ありません。わたしのほかにも、何人だって、います」
途切れ途切れにはなりつつも、反論を試みる。紅月が口にしたことは事実で、圭嘉もそれはすんなりと認めた。
「まあ、な。大事なひとり娘とか、容貌が麗しい娘なんかは、姮娥娘々に気に入られて天に召されてしまわないようにって、十六歳の成人の際につける字を、敢えて忌み言葉にしたりもする。――だが、おまえのは、それだけではないではないか。ちがうか……紅月? 九年前、皇宮で観月の宴があった晩に、おまえは……」
圭嘉が言い掛けたとき、ついに堪りかねて、紅月は閂を外し、門扉を開けた。
き、と、そこに立つ男を睨みあげる。圭嘉はこちらの顔を見下ろして、口角を厭な感じに持ち上げた。
「どうした? 私はただ事実を口にしようとしただけだろう?」
「黙って、ください」
「皇太孫殿下は、その頃はまだ幼く、おまえの不吉な風聞をを知らないかもな。ここは私が、それとなくお耳に入るように計らおうか? 皇宮の官衙で噂でも流せば、すぐにも殿下のお耳にまで届くだろう。人の口に戸は立てられないものだから」
圭嘉の言葉に、紅月はますます目を怒らせた。
「……脅す、つもりですか?」
「はは、まさか。元許婚を相手に、なんとも人聞きの悪いことだ。――私はただ、この書状を届けてほしい、と、そう丁重に頼んでいるだけだろう」
わざとらしく肩をすくめてみせる圭嘉に、紅月は眦を吊り上げる。
けれども最後には、無言のままで、相手から引っ手繰るようにして、皇太孫宛ての書状を手に取っていた。
「……とりあえず、預かります。殿下がお受け取りになるかどうかまでは、保証できません」
「ああ、頼んだ」
ひらりと手を振って去っていく背中を、紅月は射抜かんばかりに睨み据える。乱暴に門扉を閉めて、父のいる正房に戻った。
「……どうした?」
紅月の尋常でない様子に、英俊が立ち上がり、こちらの肩に触れる。
「高圭嘉さまが……皇太孫殿下に、これを届けよ、と」
紅月は眉を顰め、それを受け取るしかできなかった自らを嘲けるように笑いながら言った。朗輝に宛てた高家からの信書を、英俊に示して見せる。
「六日後に、末のご息女の成人祝いの宴を催すのだとか。そこに殿下をぜひお招きしたいから、と……わたしに、橋渡しを頼んできました」
「お前と殿下のことを、知った上でか?」
「いえ……それは、ご存じないかと。昼間、圭嘉さまとは、湊でたまたま、行き合いました。そのときに、わたしと殿下とが一緒だったので……それで、わたしが殿下と懇意なのだと、そう思ったようです。阿玲もいて、彼女、殿下に見惚れていましたから……」
「あわよくば縁を得て、皇太孫妃に、と、そう思いついたというわけか」
「それは……名家と呼ばれる家柄で、皇太孫殿下と似合いの年齢の令嬢が家にあれば、誰しも、考えますでしょう。父上も、わたしがあと、七八歳も若ければ、向こうからのお声掛けがなくとも、お考えになったのではありませんか?」
強いて冗談めかして言い、紅月は笑って見せた。
そんなこちらに、英俊は痛ましそうに眉を寄せる。
「紅月……無理をせず、捨ててしまっても良いのではないか。殿下はお受け取りにならなかったとか、言い訳など、いくらでも立つだろう」
かつて一方的に婚約を白紙にしておいて今更頼ろうとしてくるなど虫が良すぎる。そんなものは放っておけ、と、そう英俊は言ったが、紅月は力なく首を振った。
「いいえ、父上……判断は、殿下にお委ねしようと思います。殿下が陛下よりの密命を帯びておいでというなら、もしかしたら、これを高家を探る好機として利用なさることが出来るかもしれませんから。――明日、殿下のもとへ参上して、お渡しします。殿下にお会いできるよう、取り計らっていただけますか、父上」
お願いします、と、そう言いおくと、紅月はひとり自分の房間へと戻った。頭が重く、身体も心も、ひどく困憊している気がした。




