3-2 殿下のお考えは
「そう。そんなことがあるはずもない。私もそう申し上げたし、私の話をお聞きになって、陛下もまったくの誤解だったようだと詫びてくださった」
蘇家が不正に関与しているのではないかという疑いを皇帝が持っていたことを知り、紅月は驚いて息を呑んだ。とはいえ、ふう、と、嘆息する英俊の様子を見るに、その件に関して、事態はさほど深刻ではないようだ。
それならばなぜ父は複雑そうな表情のままなのだろう、と、紅月が思うと、英俊は真摯な眼差しをこちらに向けてきた。
「なあ、紅月……あるいは、皇太孫殿下も、同じようなお疑いを抱えておられたのではないだろうか」
皇帝と同じように、朗輝もまた蘇家に対して不正の疑念を持っていたのではないのか、と、父に言われ、紅月は表情を固まらせた。
「……どういう、ことです？」
声が掠れる。
「お前と、圭嘉どのと。破談にはなってはいるが、なお隠れたところで繋がりはないかと、殿下はお前に近付くことで、密かに探ろうとなさっていたのかもしれない。蘇家への疑いを完全に払拭なさるためだったのか、あるいは、蘇家と高家の繋がりを取っ掛かりにして、真の目当てたる、高家へ切り込むおつもりだったのか」
降って湧いた朗輝と紅月との見合いの話は、実は朗輝が皇帝から受けた密命と関わっていたのではないか。英俊がいま告げるのは、そういうことだった。
紅月はふいに全身から一気に力が抜けてしまうような感覚に陥った。
なんだ、そうか、と、おもう。
口許には、知らず、自嘲めいた笑みが浮かぶ。
「そう、ですか……」
こと、と、茶器を卓に置いて、紅月はつぶやいた。
それきり言葉もなくうつむいて、ただ、はたはた、と、ゆっくりと瞬きだけを繰り返す。
朗輝の見せてくれたやさしさも、かけてくれた言葉も、すべて、こちらの心を開くことで、己の求める情報を得ようとするための、単なる手段に過ぎなかったのかもしれない。演技だったのかもしれない。
そう考えると、きゅう、と、胸つぶれるような痛みが紅月を襲った。思わず、きゅ、と、眉根を寄せる。
けれども、と、紅月はくちびるを小刻みにふるわせながら、思う。そういえば、そもそも最初から、こんなうまい話は有り得ない、もしかしたら何かの企みではないのか、と、疑っていたではないか。それは当たらずとも遠からずだったというだけのことだ。
だから、傷つかなくて、いい。
なぜ朗輝の相手が紅月なのか、理由がわからなくて、戸惑っていた。それがはっきりしただけのことだ。
すっきりした。
かえって、よかったではないか――……そうだ。逢瀬を重ね、もっともっと朗輝に惹かれてしまう前で、いっそ、よかった。
「そう、ですよね」
自分などが皇太孫との縁談の幸運に浴するなど、普通ならば、有り得ないことだった。それは初めからわかりきっていたことだ。九歳も年が離れた、嫁ぎ損ねの令嬢など、もとより皇太孫の妃候補になろうはずもない。
それなのに、なにを期待してしまっていたのだろう。
いっそ、恥ずかしい。
見初めた、などと、こちらとの心の距離を縮めるために言われただけだったのだろう言葉を本気にして、胸を高鳴らせ、頬を染める紅月を、朗輝はどう思っていたのだろうか。甘い言葉で迫られて、しどろもどろになるこちらを、あるいは、愚かしい、と、心中で嘲笑っていたのかもしれない。
「……莫迦、みたい」
恥ずかしくて、恥ずかしくて、消えてしまいたい。瞼が、じん、と、熱くなり、油断したら涙がこぼれてしまいそうだった。
俯く紅月の肩に、英俊が大きな手を乗せた。ひどく憂わしげに顔を覗き込まれて、だからこそ、だいじょうぶです、と、紅月は強いて笑んで見せた。
「へいき、です。だって、縁談が駄目になるなんて、もうとっくに、慣れっこじゃないですか。そもそも、殿下がわたしなどを敢えてお選びになるはずがなかったのですから……わたしなどをお選びになる、理由も、必要も」
きっと朗輝にはもっとふさわしい相手がいるはずだ。家柄よく、年齢も彼に近くて、奇異な好みを持たず、賢しらな口をきいたりもしない、可愛らしい女子。わざわざ探してみるまでもなく、皇都にはいくらでも、そうした良家の令嬢がいることだろう。
たとえば、高鈴麗はどうだろうか。いまは高家への疑いがあるが、もしもそれが晴れたならば、彼女だって、朗輝の隣に妃として立つことが十分にある相手である――……すくなくとも、紅月なんかよりは、ずっと朗輝に相応しい。
考えたら、きゅう、と、胸が締め付けられた。
ほろ、と、堪えたはずの涙が、どうしてもこぼれてしまった。
――どうして、わたしを。
――……ひみつ。
紅月の問いに答えた朗輝の声が、耳の奥に谺するようだ。
皇帝からの密命を受けていたということならば、もとより、言えないことは多かったろう。だから、良いように誤魔化され、嘘をつかれた、と、裏切られた、と、そんなふうに朗輝の恨むのは、きっと筋違いだ。
皇帝からの密命ならば、朗輝がなによりもそれに従うのは、当然のこと。もしも紅月がすこしでも彼の役に立ったのなら、そのことをこそ、喜んでおくべきなのだろう。
それに、と、紅月は思う。
朗輝が秘密を抱えていたのと同じように、紅月もまた、彼に隠していたことがあった。算術のこともそうだし、それから――……字のことも、言わなかった。
お互い様といえば、お互い様だ、と、そう自分を慰める。
それでも、はた、と、瞬くと、また涙のしずくが睫を重たく濡らした。
そのとき、遠く、誰かが門を叩く音が聴こえてくる。程なくして、房間の扉の前で、家人が来客を伝えてきた。
「……わたしが、出ます」
紅月は無理をして顔をあげ、袖で目許を乱暴に拭うとそう言った。
立とうとした父を制して、自分が立ち上がる。動いているほうが、まだしも気が紛れるというものだった。
この期に及んで、もしかしたら朗輝の使いかもしれない、と、そんなことを期待してしまう未練がましい己を、紅月は心の中で可笑しがった。
