1-2 回想ノ一-建国神話と紅月の誕生-
どこの国にも、建国にまつわる神話、あるいは英雄譚などが語り継がれているものだろう――……ここ、宵国においては、月仙女・姮娥娘々が、その物語の主役であった。
美しく賢い仙女・姮娥は、自らの形代を夜空に浮かべて、太古の世界に凝っていた渾沌の闇を打ち拂ったのだという。それが、すなわち月である。
そしてまた、その満ち欠けを以て人々に時節をしらせることによって、農耕の道を拓いたともいう。
この仙女・姮娥の加護を得て、東呉と呼ばれる地に国を建てたのが、宵国の初代皇帝だとされていた。
以来、宵国の皇家では、代々にわたって、祖神にも等しい存在として姮娥娘々を大切に祀っている。
これに倣うように、宵国の各地にもまた、月仙女・姮娥を祀る廟堂がたくさん存在していた。
祈りに訪れる人々が焚く線香の烟も、そして、祭壇に捧げられる供物も、絶えることはない。
――麦がよく稔りますように。
――家内が安全でありますように。
――病が平癒しますように。
――良い職に就けますように。
――選挙に及第できますように。
――良縁が得られますように。
――子宝にめぐまれますように。
人々が姮娥に祈ることは様々だ。それだけ、この仙女が宵国で尊崇を集めているということだった。
一方で、月の仙女を祀る国だからこそ、忌み嫌われるものもある。
月蝕だ。
特に、満月が時ならず不意に欠けはじめ、やがてほの昏い銅色にすべて染めあげられてしまう紅月――皆既蝕――は、国家に大きな災禍をもたらすものとして、最も不吉だと言われていた。
紅月は、ただ目にしただけの者をすら不幸にする、凶兆の極みと信じられている。
宵国の皇都・盈祥。
夜空に朗々たる望月の浮かぶ、とある深更のことである。
夕刻に女主人が産気づいてからというもの、いま、時刻はすでに真夜中に至るも、府邸の中はまだ慌ただしいままだった。
そんな中、湯を満たした桶を抱えて忙しく走廊をやってきたひとりの女が、ふいに夜空を見上げ、悲鳴じみた声をあげた。
「ひっ……つ、月が……!」
女の声につられるように、その場にいた何人かが、天高い位置の月を仰ぎ見た。
そして、めいめいが息を呑む。
「しょ、蝕だ……!」
「月が欠けている……!」
誰も彼もが、慌てて顔を伏せた。
ここ宵国において、月蝕はなによりも不吉なものとされている。目にすれば、それだけで呪われるとも、あるいは災厄を被るのだとも、信じられていた。
しかし、蝕は不意に起きる。
予めその発生がわかるものではなかった。
だからこそ余計にそれは畏れられているわけだが、ふつう、蝕に気付いた人々は、すぐにも房間の中に籠って、蝕が終わるまでは穏和しく過ごすものだった。
だから、いま意想外の蝕に襲われた人々もまた、それぞれに、慌てて房間へ駆け込んで、そこに籠ってしまいたい気持ちでいっぱいであった。
が、今宵ばかりは、そうはいかない。お産は待ってはくれないからだ。
兢々としながらも、務めを投げ出すわけにいかない者たちは、院子を渡る走廊を、なるべく俯きながら身を縮めて歩いた。
房間の中からは、いままさに出産に臨んでいる女主人の呻き声が聴こえている。
それがどれほどの時間続いただろう。
やがて、おあぁ、と、産声が上がった。
そのとき、まさに空の月は、昏い赤銅色に染まっていた――……紅月である。
「なんと、不吉な……」
誰かがぼそりと言った。
すぐにその不用意な発言を咎めるような空気が場には満ちたものの、口にこそせずとも、誰もが想いは同じだったろう。
――……紅月の最中に生まれ落ちた赤子は、もしや、なにかの凶兆なのではあるまいか。
すぐに道士が呼ばれ、厄払いのための巫術が施された。
凶を以て凶を制すべし、と、道士は言った。
そもそも、赤子の無事の成長を願って、生まれた子に敢えて醜悪な名を与えることは、往々にしてなされることでもある。
この日、皆既月蝕の最中に生まれ落ちたその子は、紅月、と、名付けられた。