2-8 愛らしい少女
「ち、ちがいます!」
いまもかつての許婚である圭嘉を想っているのかとあらぬ疑いをかけられ、紅月は慌てて否定した。
「じゃあ、どうして止めるの?」
「それは……あなたさまには、御立場というものが、あるからです」
軽くない立場があるのだから無闇と臣下と諍いを起こしてはいけない、と、請い訴えるように朗輝を見つめる。
しばらく紅月と眼差しを交わしたあと、朗輝はやがて、ふう、と、ひとつ大きく息を吐いた。
「いまはお忍びだ。事を荒立てて目立つのは私も困るし、彼女も望むまい。ゆえに、此度ばかりは見逃しておく」
圭嘉に対してそう言ってから、これでいいんだよね、と、朗輝は確認するように、紅月をうかがい見た。紅月は、ほ、と、息をついた。
一触即発の空気がなんとか凪いだ、そのときである。
「――お兄さま? いったい、どうなさったの?」
ふと、鈴を転がすような、澄んだ声が聞こえてきた。
どうやら高家の馬車の中からのようだ。紅月がそちらへと視線をめぐらせると、ちょうど車駕から、愛らしい少女が姿を見せたところだった。
「まあ」
少女は紅月の姿を見とめると、大きな眸を驚いたように瞠って、瞬く。
「そちらにおいでなのは、紅月お姐さまね」
口許に袖をやりつつ、そんなふうに言った。
少女が纏うのは、ふんわりとやわらかそうな布をふんだんに使った、華やかな襦裙だった。色も若々しく、鮮やかなものだ。
美しい黒髪を高く結い上げ、いくつも歩揺を挿している。薄らと化粧を施した華のような顔が、にこ、と、艶やかな笑顔を作ってみせた。
頭の片隅に追いやった記憶が、ふいに、刺激される。
紅月が前に彼女に会ったのは、相手がまだ幼女といってもいいくらいの頃だったろうか。それでも、その可愛らしい面影には見覚えがあった。
彼女は圭嘉の妹だ。姓名を、高玲という。
「……阿玲」
幼年の間は、真名の前に――二字の名の場合は、どちらか一字の前に――阿をつけて愛称とするのが一般的だ。紅月は、かつてまだ幼かった頃の彼女に呼びかけたのと同じように、その名を口にした。
「お久し振りです。見ないうちに、ずいぶんと大きくなられましたね」
続けて、そう、形ばかりの挨拶をした。
「あら、お姐さま。わたくしだって、もう十六歳よ。成人に際してお父さまから字もいただきました。ね、だから、これからは鈴麗と呼んでくださいませ」
にこ、と、まるでよく出来た人形のように愛らしく、高玲――鈴麗は、微笑んだ。
だが、そうはいいつつも、鈴麗はすぐに紅月に対する興味を失ったようだ。こちらから視線を外してしまうと、ちら、と、兄のほうをうかがい見る。
そして、その後で大きな眸が見詰めるのは、紅月の前に立つ朗輝のほうだった。
「ね、お兄さま……こちらの素敵な御方は、どちらさまですの?」
少女は、こと、と、可愛らしく小首を傾けて、無邪気に兄に訊ねた。
「鈴麗、口を慎め。――皇太孫殿下でいらっしゃる」
「まあ!」
兄の言葉を受け、鈴麗は袖で口許を覆い、頓狂な声を上げた。
「殿下、これは我が妹、高鈴麗にございます。今年十六歳の成人を迎えたばかりにて、まだまだ、至らぬところも多く……多少の失礼にはお目こぼしいただければ」
「お初にお目もじ仕ります、殿下。わたくし、高戸部尚書が末の娘、鈴麗と申します。お見知りおきいただければ、幸いにこざいますわ」
少女は、そう、そつなく挨拶をした。
にこり、と、朗輝に向かって微笑んでみせるその顔は、明るく華やいで、うつくしい。紅月の目にも、鈴麗の姿は魅力的に映った。
そして、ふと、当歳十六といえば朗輝とは同年だな、と、おもう。
きっと本来ならば、朗輝が見合いをし、婚約を経て、その妃に迎えるのは、鈴麗のような少女なのではないだろうか。家柄も、代々皇帝に仕えて高位の官を多く排出し、かつ現当主も朝廷の重鎮である高家ならば、申し分ないといえる。
自分などよりもずっと、いま目の前に立つ少女・鈴麗は、朗輝の縁談相手としてはふさわしい。
そんなことを思うと、紅月の胸の奥は、ちくん、と、ちいさな棘で刺されたかのように痛んだ。
朗輝は、この愛らしい少女に微笑みかけられて、どう反応するだろうか。たしかめるのが怖いような気がしながらも、紅月は、ちら、と、斜め後ろの位置から、朗輝の涼やかな横顔をうかがい見た。
朗輝は鈴麗からの挨拶を受けても、わずかに目礼を返すばかりだった。愛想笑いの欠片なければ、言葉のひとつもかけやりはしない。
紅月はそんな朗輝の様子に、ほう、と、息をつく。
けれどもその刹那、安堵の息を漏らした己に対し、なんともいえない嫌悪を覚えた。
朗輝が鈴麗に興味を持たなかったことに対し、いまほっとしてしまった自分は――……厭な女だ。
そう思って、顔を伏せる。
鈴麗のほうはといえば、朗輝の淡白な態度を気にするふうもなく、まだ明らかに朗輝に対する並ならぬ関心を覗かせていた。
大きな眸が輝き、頬がわずかに紅潮している。自分と同い年の、見目よい少年皇族に、少女らしいうっとりとした視線を向け続けていた。
その様子を見て、何かを思ったのか、動いたのは高圭嘉だ。
「――ああ、そうだ」
突然、そう声をあげた。
「皇太孫殿下、もしよろしければ、六日後、我が高府へお越しくださいませんか。ちょうど、鈴麗の成人を祝う内輪の宴席を予定しておりまして……今日のお詫びを兼ねて、精いっぱいのおもてなしをさせていただければと存じます」
ぜひとも、と、満面に笑みを張り付けて言う。
それを見て、きっと圭嘉もまた紅月と同じようなことを考えたのだ、と、紅月はそう思った――……すなわち、鈴麗は、年齢も家柄も、いかにも朗輝と似合うのではないか、と。
「ああ、それは良い案ですわ、お兄さま。――わたくしからも、お願いいたします。ぜひとも我が家へお越しくださいませ、殿下」
紅月の胸はまた、今度は、しくしく、と、軋むように痛んだ。
朗輝はいったい何と答えるのだろうか。再びおそるおそるうかがうと、彼はいかにも無感動な視線を圭嘉に向けて、長い息をついた。
「臣下の主催する宴席への参加は、私の一存では決められない。然るべき手続きを踏んだ正式な招待ならば、陛下にお伺いを立てることもできるが」
平坦な声できっぱりと言い放つ。
圭嘉は、そして鈴麗も、朗輝の言葉にわずかに怯む様子を見せ、刹那、黙った。
「あ、ああ、もちろん……もちろん、そうでございますね!」
しかし、すぐに愛想笑いを浮かべると、慌てて言い募った。
「仰ること、ご尤もでございます、殿下。私のほうも、いま一度、父と相談いたしてみますので……それでは、御前、失礼を。――鈴麗、行くぞ」
まだどこか名残惜しそうに朗輝を振り返る妹を促して、圭嘉は馬車へと戻って行った。
ふたりの姿が車駕の中へ消え、馬車が動き出したところで、朗輝がふと、ふん、と、鼻を鳴らした。
「あなたの元許婚、どんな男かって気になってたんだけど」
そんなことを言う。
紅月は驚いて、え、と、目を瞬いた。
それまでずっと紅月を背に庇うかたちで立っていてくれた朗輝が、ようやく肩から力を抜き、紅月のほうを振り返る。顔を上げた紅月と視線を交わすと、相手は苦笑でもするかのように口の端をわずかに持ち上げた。
「だって、あなたがまだそいつに気を残しているようなら、こっちは何としても排除しないといけなかったしね……手段は選んでいられないけどさ、ほら、罪を捏造するにしてもなんにしても、善人相手だと、さすがに気が引けるから」
嘘か本気か、そんなことを言い出す朗輝に、紅月はますます面食らって、大きく目を見開いた。
「でも、あいつなら……わざわざでっち上げなくても、ちょっと叩けばいっぱい、埃が出そう。高家もね。――案じてちょっと損したかな」
最後はどこか冗談めかして、朗輝は、くすん、と、肩を竦めてみせた。
その悪戯っぽい様子に、紅月はぽかんとする。
けれどもすぐに、くす、と、思わずのような笑い声を立ててしまっていた。
「とりあえず……気などちっとも残しておりませんから、殿下が無闇にお手を汚される必要はございません、と……念のため、申し上げておきますね」
こちらも、敢えて軽口を叩いてみる。
すると、朗輝は軽く首を傾げてみせた。
「ほんと? だったら、いいけど……でも、あなたには、あの男とのことが原因で気にしていることがあるでしょう? 僕は……あなたのその憂いを、ちゃんと取り除けるのかな」
そちらのほうがよほど強敵かもしれない、と、朗輝は苦笑するように言った。
紅月はそれには言葉を詰まらせ、結局、次に継ぐべきそれを探し倦んだままになった。
けれども一方で、朗輝の真っ直ぐな眼差しを受け止めながら、かすかな予感が胸に燈るのをも感じている――……このひととの時間を重ねていけば、もしかすると、自分の心の中に重たく沈殿してしまった澱のようなものも、いつか、最初から何もなかったかのように、とけて消えてしまうのではないだろうか。
それで知らず、ふわ、と、口許を綻ばせると、今度は朗輝が目をぱちくりさせた。
「あ、いま、笑った!」
「す、すみません」
「あやまらないでよ。かわいいなって思っただけなのに」
「で、殿下っ」
「ん?」
「その……からかわないで、ください」
「からかってない。単なる、ほんき」
ふふ、と、朗輝は機嫌よく笑う。
もう、と、紅月は頬を染めて俯いた。
けれども、同じ俯くでも、先程、圭嘉を前に重たい気持ちでそうしていたのとは、ぜんぜん違う。胸の中は、ほんのりとあたたかかった。
「――あの、ね」
ふと、朗輝が言った。
「はい」
紅月は答えた。
「あの、さ……ちなみに言っておくと、あなたからの誘いなら、いつでも行くからね」
「……え?」
「蘇家での宴席とか。声をかけてくれるなら、陛下の許可とか関係なく、喜び勇んで行くよ! ……機会があったら、呼んでくれる?」
わずかに低い位置から朗輝に上目遣いに見詰められて、紅月はあたふたした。
「ち、父に……訊いて、みます。予定がないかどうか」
そんなふうに言葉を濁すと、朗輝は、うん、と、嬉しそうに笑ってうなずいたのだった。




