2-7 元いいなずけとの遭遇
「久し振りだな、紅月……あれ以来か」
男はどこか含みのある、ねっとりとした口調で言った。その声に、紅月はますますきつく眉を顰める。
「それにしても、おまえ……こんなところで、何をしてるんだ? ああ、そうだ。私はあれから結婚して、妻との間には、いまは孩子も二人いる。――おまえのほうは、どうだ……紅月?」
男は紅月の様子などお構いなしに、一方的につらつらと言葉を重ねる。そのまま、こちらへ近づいてこようとした。
逃げ出したい。
それなのに、身体が冷たくかたまって、うまく動いてくれない。
紅月は無意識に、きつくてのひらを握りしめていた。
そんな紅月と男との間に、けれども、朗輝がさっと割って入ってくれた。まだ細さを残した背が自分を庇うように一歩前に出てくれたとき、紅月は、はっと顔を上げた。
朗輝は軽く腕を上げて、紅月を己の背後に隠すようにしてくれる。だから、いま、その背中が見えている。
まだ伸びきる途上にあるそれは、決して、おおきな背中とは称せないものだった。それなのに、そのときの紅月には、瞬時にこちらの異変を見て取って、相手からこちらを守る砦となってくれた少年のその背中が、何よりも、頼もしいものに思われた。
「――……あなた、誰?」
朗輝は警戒心も顕わに、青年に誰何の言葉を投げた。礼を失する者にはこちらも礼は不要、と、そう言わんばかりの尖った声だ。
「高、圭嘉さま……です」
青年が朗輝の問いに答えるより先に、けれども、朗輝の背中に小声で教えたのは紅月だ。青年の返事を待っていて、向こうが何を告げてくるのかがわからないのが怖かった。
「わたしの……許婚だった、ひとです」
そう続けて付け足すと、朗輝は軽く目を瞠る。しかし、こちらを慮ってなのか、わかった、と、短くそうとだけ言うと、ますます威嚇するように青年を――圭嘉を――睨み据えた。
紅月の実家である蘇家と、圭嘉の生家である高家とは、紅月と圭嘉に縁談が持ち上がるよりも以前から、懇意の間柄だった。むしろ、だからこそ紅月と圭嘉との間に縁談が持ちあがったのだが、これは紅月の母と圭嘉の母とが無二の朋友で、昵懇の関係だったからというのが大きい。
母は紅月が幼い頃に亡くなってはいたものの、両家の良好な関係はそれで途切れるということもなかった。それで、紅月が十六歳を迎えて成人するのに合わせるように、圭嘉との間の縁談が取り持たれたわけである。
しかし、ふたりの破談以来、蘇家と高家との関係はがらりと変わった。
両家とも、当主は朝廷の重鎮である。だから表向きには揉め事など起こしはしなかったが、その実、もうずっと断交状態が続いていた――……英俊は当時、大事なひとり娘を蔑ろにされて怒り心頭だったし、高家は高家で、紅月を忌み嫌って、二度と府邸に近づけようとはしなかったからだ。
ために、紅月が、己のかつての許婚である高圭嘉と会うのは、破談以来、いまが初めてのことである。
とはいえ、自分との婚約破棄のあと、さして間をおかずに青年が別の相手と結婚したことを、紅月は知っていた。なにぶん力ある名家の子息だ。紅月との関係が白紙に戻ったところで、次の相手には事欠かなかったことだろう。
それに、と、紅月は思う。
当時、高家が――高圭嘉が――出所となって流れた、紅月に関する風聞は、あの破談を、紅月のほうに原因ある仕方のないものと見せたはずだ。圭嘉に悪評が立つようなこともなかったから、縁談が破れてすぐの次の結婚にも、向こうには、さしたる障害はなかったはずだった。
こちらとは、大違いだ。
紅月がいまなお嫁いでいないことくらい、圭嘉は十分に知っているはずっだった。だから、最後の問いは、多分に厭味交じりのそれ、あるいはいっそ嫌がらせなのかもしれないな、と、紅月は思う。
それほどに、相手は紅月を忌み嫌ったのだし、いまなお、その気持ちを持ち続けているということの証左だった。
――おまえのようなものを娶ることはない。
――薄気味の悪い、妖女め。
破談を言い渡されたとき、圭嘉に向けられた冷たい眼差しをまた思い出す。それからしばらくの間、自分のまわりで飛び交った噂話や陰口が耳に甦ってくる。
きゅう、と、胸が締め付けられるように痛んで、紅月は眉を顰めた。
まだ幼かった自分が抱いた淡い恋。それが破れた傷は、時と共に、やがて癒えたように思う。
けれども、そのとき、自らを頭ごなしに否定された切なさや悲しさは、紅月の根幹を抉るように傷めつけ、いまなお、深い傷痕として心に残っているのかもしれなかった。
だからこそ、薄情だった元許婚を前に、紅月はいまも恨み言のひとつ、文句のひとつも、言ってやれない。
本来なら、その薄情を真正面から罵ってやってもよいのだろうに、そして、そうしてやりたい気持ちはあるのに、どうしても言葉になって口からは出てこなかった。情けない。
紅月は、忸怩たる想いを咬みつつ、それでも黙って俯いているしかなかった。
だが、ふと、代わって圭嘉を責めてくれた者がある。いま紅月を守るように圭嘉との間に立ってくれている皇太孫、朗輝だ。
「人に泥を跳ねておいて、その態度とは……ずいぶん失礼ではないか?」
少年は一回り以上は年上であろう圭嘉を前に、臆することもなく言い放った。
紅月と会話するときとはまるでちがう、硬質な声、形式ばった固い口調である。けれどもそれは、おそらく敢えてのことなのだろう。真っ直ぐに圭嘉を見据える朗輝の、凛とした立ち姿には、尊く重たい身分に生まれついた者が持つ、特有の気品と、威厳とがあった。
しかし、自分より随分下の少年に睨めつけるように見据えられ、圭嘉は怪訝な顔をする。それから、不愉快そうに口を曲げた。
「なんだ、おまえは?」
低い声で言う相手は、どうやら、いま紅月を庇うように立つ人物が皇太孫だとはわかっていないらしい。
だが、それも仕方のないことだ。
朗輝は成人してまだ間もなく、公に姿を見せたのは、成人の儀の折くらいのものだった。
圭嘉のほうも、戸部の尚書である父と同様にその部署に職務を得ているとはいえ、まださほど官位は高くない。朝議に出席できるような身分ではなかったから、朗輝の姿を目にする機会などなかっただろうと想像された。
さらに、紅月のもとへもたらされた朗輝との縁談も、まだ内々のものでしかない。それを知る者は限られていた。
そうなれば、いま紅月の傍に佇む少年が皇太孫その人なのだと、圭嘉にわからなくとも無理はない。そして、そうであれば、飾らない長袍姿の少年を、圭嘉がたとえば蘇家の家人――紅月の側仕えかなにか――だと判断しても、ちっともおかしくはなかった。
そんな相手が自分に偉そうな口をきくのは、さぞ、不快だろう。
だが、事実はそうではない。
ここにいるのは皇帝の孫、皇太子の嫡長子であり、すでに皇太孫と尊ばれてさえいる少年だ。
「私は、李朗輝」
朗輝は真っ直ぐに相手を見返しつつ、きっぱりと己の姓字を言い放った。
その瞬間、圭嘉がさっと顔色を失う。
官吏ならば――たとえ顔までは見知らずとも――さすがに皇太孫の姓字を知らないわけもないだろう。圭嘉は朗輝の身分を悟り、ようやく己が皇族に対してとんでもない粗相を為したことを理解したようだった。
相手は、もはや紅月のことに構う余裕などなさそうに、取り乱した様子をみせる。
「も、申し訳ありません、皇太孫殿下……その、先程のは、決して故意ではなく、単なる事故でございます。こちらの不注意は幾重にもお詫び申し上げますゆえ、どうかご寛恕を賜りますように」
しどろもどろに言い募った。
「許し難い」
朗輝は不愉快そうに、冷たい口調で言い放つ。
その重い声に、圭嘉は息を呑み、ますます顔色を失くしていた。
「よ、汚してしまったお着物は、もちろん、高家が弁償を……」
そう慌てて言い足したが、朗輝は更に顔を顰めると、ちがう、と、短く吐き棄てた。
「言っておくが、私に泥をかけたことが許せぬというのではない。そうではなく……私が許せぬと申すのは、そなたが彼女を暗に侮辱したことに対してだ。――本来なら、万死に値する」
朗輝は低く凄むような声音で言った。その気迫は、圭嘉に言葉を呑ませるほどだ。
「殿下……お静まりを」
蒼い焔のごとき朗輝に怒りを感じ取って、紅月は思わず、そう宥めるように声をかけていた。
すると、紅月を背に守って、圭嘉との間に立つ恰好の朗輝が、ちら、と、紅月を振り向いた。
「あなたは……こんな男を、庇うの? もしかして、まだ、この男のことを忘れられないってこと……?」
それまでの気迫はどこへやら、そのときばかりは、朗輝はどこかたのみない声で不安そうに言った。




