2-6 四隻の船
馬車は湊の端に停まり、先んじて朗輝が降りた。そして、紅月がそれに続こうとする際には、やはり今回もまたごくごく自然にこちらに手を貸してくれた。
一瞬躊躇しつつ、けれども紅月は、結局は相手のあたたかな手に己の手を預けた。
「ありがとうございます」
礼を言うと、相手は目を眇め、にこ、と、やわらかな笑みを見せた。
「さて、と」
地面に降り立つと、朗輝は船着き場のほうへと視線をやった。紅月も湊をぐるりと見回してみた。
ここ、隆昌の泊は、大河泗水の岸辺にある湊のうちで、最も皇都に近い場所である。さすが大湊というべきか、商人らしき者や、荷を抱えた人夫たちが絶え間なく行き交い、活気ある喧噪に包まれていた。
「やはり……四隻あるね」
やがて、ぼそり、と、隣に立つ朗輝が小声で呟くのが聞こえた。
けれどもそう言ったきり、彼はしばらく黙したまま、難しい顔つきで並ぶ船を見据えている。
「皇太孫殿下」
紅月が躊躇いがちに呼びかけると、顰み眉をすこしだけ開いて、相手は苦笑めいた表情を見せた。
「あそこに並んでいるあの船……あれって、一般的に穀類の運搬に使われるものだよね?」
「はい」
「さっき、一隻に積める荷は、およそ三万斛って言っていた」
「はい」
紅月は頷いた。
「じゃあやっぱり、一隻分、数が合わないわけだ。――戸部の人間を問い質してみるべきかな」
独り言のように言って、朗輝は嘆息した。
戸部とは、国政を担う三省六部のうち、尚書省の下にあって、戸籍管理を職掌とする部署だった。租賦の徴収は戸籍に則って行われるため、これもまた戸部の管轄するところである。
すなわち、戸部は国の財政と地方行政とを一手に取り仕切っていると言って良かった。
尚書省のもとで実務を司る吏戸礼兵刑工の六部、に制度の上での上下関係はない。が、国政における軽重でいえば、間違いなく戸部は政の要とも言うべき部署なのだ。
だからこそ紅月は、朗輝の先程の発言に対し、一抹の不安を覚えざるを得なかった。
「どうか……慎重になさってください、殿下」
差し出口とは思いつつ、そう言う。
戸部が揺らぐことは、すなわち、国政の足もとが危うくなるということであった。たとえ不正の疑いがあったとしても、軽々に手を出せば、宵国に嵐のごとき大乱・大禍を招きかねない。
もしも不正に関わっているのが尚書や侍郎などであれば、なおさら、そうだった。
それに、と、紅月は思う。
実際に戸部の誰かが悪事に手を染めているのだとしたら、それを暴こうとする者の身には、それなりの危険があるのではないだろうか。朗輝は皇太孫という尊い身分であり、だからもちろん、簡単に手を出せるような相手でない。それでも、窮鼠猫を噛むとも言うし、まったく安心というわけにもいかなかった。
「たいせつな御身に危険があってはいけませんから」
自分が言い出したことをきっかけに朗輝に何かあっては、と、紅月が憂い顔を相手に向けると、朗輝はちらりと笑った。
「わかってる。もちろん気をつけるよ。でも……あなたが僕を心配してくれるなんて、うれしい」
最後に、とろ、と、目を細めて見せて、紅月はまた居た堪れない気恥ずかしさを覚えさせられた。
「っ、わたしは冗談で言っているのではありません……!」
からかわないでください、と、すこしだけ頬を膨らませる。けれども朗輝は、くすん、と、ひとつ肩をすくめて、悪戯っぽく、ちいさく笑っただけだった。
妙に大人びた表情を見せることもあれば、年相応の少年らしい顔をすることもある。そのふたつの間で朗輝の印象は揺れ動き、それと一緒に、紅月の心もまた、いま、ゆらゆらと揺るがされてしまっているようだった。
「あの……もうすこし、近くまで行ってみますか? 必要なら、わたしが人夫たちから話を聞いて参りましょうか?」
ままならない自分の感情を誤魔化すように紅月が言うと、朗輝は、そうだね、と、ひとことつぶやき、思案顔をした。
「どうしようかな……いや、危ないし、もともとあなたひとりを行かせるつもりはないんだけど」
言い澱むようにそう口にした、ちょうどその時だ。
何かに気付いたらしい朗輝がはっと息を呑み、かと思ううちに、素早く伸びてきた腕が紅月を囲い込んだ。
「……え?」
庇うように抱き締められたと思った瞬間、ばしゃん、と、派手な水音が響く。すぐ傍を通りがかった馬車の車輪が、昨日の雨で出来た泥濘の水を跳ねたのだった。
「で、殿下っ」
紅月は慌てて声を上げた。
朗輝が庇ってくれたので紅月はなんともなかったが、朗輝のほうは、袍も、それから頬にも、泥を浴びてしまっている。
「へいき」
彼は笑ったが、紅月のことを抱き込んだがためにそうなったのは明らかで、気にするなというほうが無理な相談だった。
紅月は急いで懐から手巾を取り出すと、朗輝のほうへ手を伸ばす。しみひとつない、透き通るかのような真白な肌を汚す泥跳ねを、真剣な表情で、ひとつひとつ丁寧に拭った。
「ありがとう。――でも、せっかくきれいな刺繍の手巾なのに、汚してしまった」
やがて紅月がひととおり朗輝の顔を拭き終わったところで、朗輝は手巾を持つ紅月の手をそっと掴んだ。すこしだけ申し訳なさそうな表情をする相手が、紅月の手から手巾を取り上げる。
「洗って返すから。ごめんね」
そう言って、それを己の懐へと仕舞い込んだ。黒い眸に上目遣いに見つめられながら詫びられて、紅月は、ふるふる、と、頭を振った。
「こちらこそ、申し訳ありませんでした。庇っていただいてありがとうございます」
「ううん。あなたが汚れなくて、よかったよ」
朗輝はそう言いつつ、ごく自然に、さら、と、紅月の髪を梳いた。
その手指は、細くしなやかなのに、それでもちゃんと男っぽく節ばってもいる。その指に触れられると、まるで髪のひと筋ひと筋にまで感覚が芽生えでもしたかのようで、紅月は無意識に身をすくめてしまっていた。
鼓動が、早い。
全身を巡りゆく血潮が熱い。
胸の早鐘の音を、身体の宿す熱を、相手にも知られてしまったらとおもうと、気恥ずかしい。それに、すこしだけ、こわい。
そう思った紅月が視線を落としたそのとき、ふと、人の気配がした。
「――申し訳ない。大丈夫でしたか」
声に引かれて、そちらを見れば、停車した件の馬車から――こちらに泥濘の水を跳ねてまったことに気付いたのだろう――青年がひとり降りてくるところだった。
相手は濃い緑色の上等の生地に、豪華な繍を施した深衣を纏っている。いかにも良家の子息然とした男だった。
けれど、その姿を見た途端、紅月の喉からは、ひゅっ、と、おかしな呼吸が漏れていた。
さっと顔を伏せる。
だが、その行動もむなしく、相手はこちらに気がついたようだった。
「なんだ……おまえ、紅月か?」
青年は無造作に紅月の字を呼んだ。その馴れ馴れしさにいっそ吐き気を覚えて、紅月は俯いたままで、きつく眉根を寄せた。




