1-1 算術趣味の引き篭もり令嬢
「紅月、紅月、紅月ーっ!」
平生は穏やかな君子として知られる父だが、いまその人が遠くで上げているらしい声は、常になく喧しいものだった。
そして、父が呼んでいるのは、まぎれもなく己の字、すなわち、成人後につける通称である。
が、しかし。
それを聴いても、呼ばれている当の本人である蘇紅月は、顔を上げるでもなかった。
書卓に広げた布との睨めっこをやめようとしない彼女の面持ちは、まさに、真剣そのものである。
「江棟の四県のうち、三県からの租賦を積んだ車は、六千六百七十六。車一台が運ぶのは二十五斛だから、計、十六万六千九百斛」
紅月はそんなことをぶつぶつとつぶやきながら、細い顎にあてていた人さし指を、書卓の上の布へとおもむろに伸ばした。
そのまま手指を忙しなく動かす紅月が、いま、真摯に見つめるその布を、算盤という。
碁盤の目のような升目がえがかれた、その右端の升には、上から順に、商、実、法、廉、隅といった文字が並んでいる。また、最上段の一列の上には、絲、毛、厘、分、一、十、百、千、万、と、数の位が記されていた。
そして、升目のいくつかの中には、算木という、赤と黒に着色された、短く細長い棒きれのようなものが並べられている。算盤とは、これらを動かしながら計算を行うための道具であった。
紅月の手は、先程から、その算木を次々と移動させているのだ。
「国の均輸法に定められた租賦の納め方の計算は……まず各県の戸数を輸送にかかる日数で割って、これを衰とする。次に、これらを加え合わせて法として、別に出した実を法で割って……と」
ぶつぶつと言いながら、慣れた手つきで算木を操る。
さて、その間も、父が紅月を呼ぶ声はやんではいなかった。
加えて、どたどたと走廊を駆けるような足音まで響き出していたが、その音はといえば、まがりなりにも朝廷の高位に座を占める礼部侍郎にあるまじき喧しさである。
しかも、だ。
声も足音も、間違いなく、走廊を渡って次第に西の廂房へと――すなわち、いま紅月がいるこの房間へと――近づいくるようなのだった。
それでも紅月は。まだ俯いて算盤を見つめ、算木を繰る手を止めなかった。
「――紅月っ!」
やがてついに、父が房間へと到達する。
彼は遠慮なく扉を押し開けた。
「――三隻ですね」
そのまさに同じ刹那、紅月はようやく顔を上げた。
書卓に広げた布と棒きれとをひと眺めすると、ひとり、満足げに微笑みを浮かべる。
「今年、緯県から泗水を遡ってくる船は、きっと三隻です。江棟四県を合わせて租賦が二十五万斛ならば、今年は上々の稔りだったのではないでしょうか」
笑いながらつぶやくのは、そんな独白だった。
「どう思われますか、父上?」
そこでようやく、紅月は扉のところに立つ我が父・蘇英俊を振り返った。
挨拶のために軽く会釈をしてから、己の出した結論に対し、父に意見を求める。が、対する英俊のほうは、はあ、と、これみよがしに大きな溜め息をついた。
「紅月……お前はまた、算木趣味になんぞ現を抜かしおって。そんなんだから、二十五歳にもなって、まだ独り身なのだ。良家の令嬢ともなれば、早ければ十六歳の成人を迎えるやいなや縁談が舞い込んでいておかしくはないというのに」
英俊はいかにも困ったという表情で額を押さえ、呆れ気味に頭を振った。
そんな父を前に、紅月は長い睫の縁どる眸を、はたはた、と、瞬くと、ことりと小首を傾げてみせた。
「お言葉ですが、父上。いちおうわたしにも縁談はありましたでしょう? 破談になったというだけで」
紅月の反論に、英俊は眉を顰める。
「破談が問題だ」
きっぱりと言って、また深い溜め息をつく。
紅月も苦笑した。
縁談はあったが、破談になった。
かつ、それが一度や二度のことではなく、数度にわたった上、今日まで結局、ひとつもまとまってはいない。
それがまさしく、いつの間にか当歳二十五にもなってしまった紅月の抱える、いまいちばんの大問題なのだった。自身でも、重々に理解はしている。
紅月の父である英俊が当主を務める蘇家は、代々高官を排出してきた、いわゆる名門の一角を占める家柄だった。英俊もまた、祭祀典礼および官吏登用試験である科挙などを掌る、礼部の次官、礼部侍郎である。
その令嬢ともなれば、普通なら、成人すればすぐにでも、それなりの家格の家へ嫁いでいておかしくはなかった。実際、蘇家と交際のある家々の、紅月と同年代の令嬢たちはみな、すでに他家へと立派に嫁入りを果たしているのだ。
宵国では、男女ともに、十六歳が成人年齢である。以降、婚姻が可能になるが、女子の場合、だいたいは十八歳、遅くとも二十歳までには、いずれかの家に縁付いていくものだった。
そして紅月にも、成人に際して、婚姻の申し入れはあったのである。
許婚は、当時、蘇家と懇意にしていた高家の嫡男だった。
紅月が幼い頃に亡くなった母と、相手の母親とが、もともと親しい間柄だったとか。だから、成人するよりも少し前から、蘇家に対して高家から内々に婚姻の話が持ち込まれていた。
それが正式なものになったのが、紅月が十六歳を迎えてからのことだ。
両家そろっての顔合わせの後、許婚となった相手とは、幾度かふたりで逢瀬も重ねた。十六歳だった紅月は、自分はこの人と結婚するのだ、と、当時、五歳ほど年上だった許婚に対して、淡い恋心ともいうべき憧れのようなものを抱いていたように思う。
けれども、自分たちが結婚に至ることはなかった。
結納ももう間近という頃、向こうから、断られてしまったのだ。
――なんて、気味の悪い。
やさしかった許婚は、あからさまに顔を顰めて、紅月にそう言い放った。
――妖女ではないか。知っていたら、婚約などしなかったものを。
蔑むようなその声は、今もなお紅月の胸に、抜けない棘となって刺さっている。




