【第5話 静けさの先】
ルーナコーンを仕留め、薬の素材【ルナの角】を手に入れたダイトとリル。
任務は順調に終わる――はずだった。
その時、ダイトの表情がわずかに険しくなる。
耳に届く風の音が、ふっと遠のいたような気がしたのだ。
「……静かすぎる」
彼はリルの肩に軽く手を置き、指先を立てて「シィー」と合図する。
リルも息を呑み、無意識に声を落とした。
「えっ……ダイト、どうしたの?」
「……何かがおかしい。普通じゃない」
ダイトは首だけで周囲をなぞるように視線を巡らせる。
その鋭い目つきに引きずられるように、リルも辺りを探ったが――
「でも、何にも……」
「いや、対岸だ」
そう呟くと同時に、ダイトは眉間に皺を寄せ、コメカミに二本の鍼を素早く打ち込む。
「――栄断流鍼灸術。補法・瞳子髎」
鍼が経穴を貫き、そこから溢れた気が眼球へと流れ込む。
視界が一気に澄み、遠くの霧すら形を持って迫ってくる。
「ダイト……何が見えるの?」
「……対岸に、何かいる」
湖の向こう、約二キロ先。
白い霧の中に浮かび上がったのは――黒一色の頭部。
丸みを帯びた胴体は異様に白く、四肢はボディビルダーのように不自然に盛り上がっている。
(……なんだ、あれは。存在そのものが場を歪めてやがる)
人型に近いが、明らかに人ではない。
立っているだけで空気が揺れ、景色が歪んで見える。
普通なら、この距離でこちらの気配を感じるはずがない――
――ギロリ。
目など無いはずの“黒い頭部”が、確かにこちらを向いた。
その瞬間、氷水を背骨に流し込まれたような悪寒が、ダイトを貫いた。
「リル! 逃げるぞ!!」
振り返った瞬間――
「キシュルルル……」
耳の奥をかきむしるような異音が響いた。
そして、そこにいるはずのない“あの存在”が、霧を裂くように――目の前に立っていた。
「なっ……!? 嘘だろ……!」
背筋に冷たい電流が走る。
ダイトは反射的に後方へ跳躍した。
暗殺と戦闘は別物――そう教わってきた彼にとって、真正面からの戦いは最も避けるべき状況だ。
だが、宙を舞うその視界の端に、リルの姿が映った。
怯え、身体を固くして立ち尽くす彼女。
そして、その小さな背に、ゆっくりと向き直ろうとする“得体の知れない何か”。
(……ここで見捨てたら、さすがに寝覚めが悪すぎる)
舌打ちと共に空中で身体を捻る。
「――栄断流鍼灸術。殺鍼・大椎!」
鋭く放たれた鍼が、ヤツの背後を狙って一直線に走る。
しかし、殺気を感じ取ったそれは、残像を残して霧のように消えた。
「ぐっ……!」
視界が揺れた。気づけば、ヤツの拳がみぞおちに深々とめり込んでいた。
痛みが脳に届くより早く、ダイトは鍼を握り直し、反撃へ転じる。
右手を伸ばし、ヤツの肘付近へ鍼を突き立てる。
(栄断流鍼灸術。封鍼・曲池……これで右腕は封じた。動かせないはずだ)
吹き飛ばされながら、ダイトは呼吸を整え、瞬時に体内を確認する。
(肝臓……異常なし。脾臓も無事。胃も……損傷なし。――まだ、やれる)
「キシュルルル……」
耳障りな音が、湿った空気を震わせた。
ヤツは無造作に左手を伸ばし、右肩をわしづかみにする。
――そして。
ためらいもなく、鍼の刺さった右腕を、肩の根元から“ごっそり”と引きちぎった。
肉が裂ける音も、血の飛沫もない。
痛みに顔を歪めることすらなく、まるでそこに“自分の腕”という概念が初めから存在しなかったかのようだ。
(……痛覚が、無い?)
鍼の在庫は残りわずか。状況は、あまりにも不利。
(――ここまでか。なら、せめて……リルだけは逃がす)
腹を括った、その瞬間。
ヤツの輪郭が、煙のように揺らぎ始める。
白い霧に溶けるように、形が崩れ――跡形もなく消え失せた。
「……? まさか……助かったのか……?」
リルはまだ、その場に立ち尽くし、小刻みに震えていた。
ダイトは周囲を鋭く見渡す。あの不快な気配は――もう、どこにもない。
「……? 本当に……消えたのか……?」
リルはその場で立ち尽くし、小さく震えていた。
ダイトは視線を巡らせる。霧の向こうにも、あの異様な気配は微塵もない。
(今のうちだ……離れるしかない)
「リル! もう安全だ。動けるか?」
「……なに、あれ。あんな生物……」
「知らないのか?」
「うん……見たことも、聞いたこともない……」
怯えの色を宿したまま、リルは周囲を見回す。
「……なら、ここを離れるぞ」
こくりと頷いた彼女の体は、まだ力が入らない。
ダイトは迷わず抱き上げ、そのまま湖岸を蹴った。
空気が裂け、視界が一気に開ける。
湖面の上を渡り鳥の群れが横切り、まるで時が動き出したかのように、一斉に羽ばたいていった。
***
京都の山中、師匠の住む拠点――。
パサパサパサッ。
一羽の鳩が障子をすり抜け、和室へ舞い降りた。
畳に座る老人の肩へ、慣れた様子でちょこんと止まる。
「おお、ポロッポ。ご苦労じゃ」
師匠は餌箱から木の実をひとつ取り、ポロッポのくちばしへ差し出す。
「しかし……ダイトも、あの程度とはな。豆大福にすら圧勝できぬとは、情けないわい」
「師匠さまー。でも、今までの弟子たちに比べたら、ずっと優秀ですよ?」
ぽってりとした体を揺らし、ショルダーバッグをたぷんと鳴らしながら反論するポロッポ。
「フォフォフォ……優秀じゃが、天才ではない」
「天才……って、クロス様のこと?」
「その名を口にするでない」
師匠の表情に、わずかな陰が差す。
「惜しい奴を亡くした……」
「でも、それってお師匠さまがやりすぎ――ぐふっ!?」
言いかけた瞬間、ポロッポの首が軽く締められる。
「ポロッポ……貴様、焼き鳥になりたいのか?」
「ひぃぃぃ〜〜〜っ!」
ジタバタと暴れる拍子に、バッグがぱかっと開く。
中から、ぷるんとした豆大福がひとつ転がり出た。
てっぺんには――なぜか爪楊枝が三本、突き刺さっている。
師匠はそれを空中でひょいとつまみ、そのまま口へ放り込んだ。
もぐもぐ……。
「え、えぇっ!? 爪楊枝ごと食べるんですか!?」
「フォフォフォ……美味、美味」
笑い声を残し、師匠は手を背中に組み、すっと縁側へ歩み出る。
(……風が荒れておるの。やはり、急がねばならん)
背中から、淡くオーラが滲んでいた。
後書き
【ポロッポの報告書(※一部動揺あり)】
え? あー……も、もちろん!
わたくし、何も見てませんよ!? 聞かれても言いませんよ!?
豆大福? あ、あれはですね。つまり、その、晩御飯です! 晩御飯だったんです!!
……あっ、すみません。取り乱しました。
次回、ギルドへの報告です!
更新は【月・金】ですって!
この後書きに出てるってことは……わたくし、また出番ありますね!? たぶん!