1.避難は慌てず落ち着いて
まだまだ寒さの厳しい2月末のある晴れた日曜日。
オティーリエは毎月最後の日曜日に開かれる日曜礼拝に参加するために、朝から神殿の礼拝堂にやって来た。
いつものように一人で。
もっとも、従者であるヨハンが周囲に気づかれないように、少し離れた所からオティーリエを窺ってはいるけれど。
「ティリエ、おはよう。
元気だった?」
オティーリエが礼拝堂に入ると、それに気付いたらしいお友達のセリアがオティーリエに手を振りながら近寄ってきた。
セリアは、背中の半ばまである青緑の髪を大きな三つ編みにして、髪と同じ青緑色の瞳を持つ可愛らしい女の子だ。
フルネームはセリア・オスター。
他国の御用商人も宿泊するような高級宿をはじめとして、他にもいくつかの宿屋を経営する、この街でも有数の富豪一家の二女である。
ちなみにセリアが呼びかけたティリエという呼び方はオティーリエの愛称なのだけれど、お忍びなので、オティーリエはここではただティリエとだけ名乗っている。
「おはよう、セリア。
ええ、わたしは大丈夫。
セリアも元気そうで何よりね。」
オティーリエはそう答えながら、軽く周囲を見渡した。
セリアは一家で来ていて、少し離れたところにご両親や兄姉の姿が見える。
とりあえず、入り口に立ったままなのは邪魔なので、二人は人が少ない隅の方に向かって歩き出した。
「フィアとノシェはまだ?」
「うん、まだ。
いつも通り、ギリギリでしょ。」
フィアとノシェも二人の友達。
この二人は郊外から、わざわざ自動車でこの街の中心にある神殿までやって来るので、神父様の講話が始まるギリギリの時間に来ることが多い。
「・・・それより、ティリエ、聞いてくれる?」
二人が人の少ない所で立ち止まると、セリアは内緒話でもするように声を潜めて、オティーリエの耳元に口を寄せてきた。
オティーリエの方が小柄なので、セリアは少し前かがみになりながら。
セリアのそんな態度に、オティーリエも耳を澄ませて、視線だけをセリアに向けつつ、声を潜めて聞き返す。
「うん?
何々?」
「あのね。」
と、ここで一拍置いて。
セリアが左右を窺うように見回すと、オティーリエもそれに合わせて少し前かがみになってセリアに顔を向けた。
と、次の瞬間。
セリアはパッと顔を上げ、喜色満面で軽く両手を打ち合わせた。
「私、やっとお城に上がることが出来るの!
秋の舞踏会から参加していいって!」
オティーリエもつられるように笑顔を浮かべて、嬉しそうにセリアの両手を自分の両手で包み込む。
「わあ、よかったじゃない!
ずっと淑女のお勉強、頑張ってたもんね。
セリア、おめでとう。」
そう言って、オティーリエが両手を離して手のひらをセリアの方に向けると、セリアもオティーリエの方に両手の手のひらを向けて、打ち合わせた。
お城に上がるためには、それに相応しいマナーや所作が身に付いてないといけない。
セリアはその練習をずっと頑張ってきて、ようやく両親に許可がもらえたのだった。
「ありがとう、ティリエ。
あのね、それで、もう着ていくドレスも作り始めてるの。
今から作り始めないと間に合わないんだって。
だから、一昨日、仕立て屋さんに行ってきたんだ。
とっても素敵なドレスになりそう。」
うっとりした表情で、胸の前で両手を握り合わせるセリア。
オティーリエも自分のことのように嬉しそうにセリアを見ている。
「ご両親がセリアのために仕立ててくれたのでしょう?
きっと素敵なドレスでしょうね。」
「兄さん姉さんもかな。
まあ、父さんと兄さんはよく分からないって顔してて、母さんと姉さんがやたら熱心だったけどね。」
セリアは嬉しそうな笑顔のまま、ちょっと苦笑しつつ。
「大切な娘と妹の社交界デビューだもの、張り切って当然じゃない?
それで、どんなドレスなの?
髪飾りも付けるのよね?」
そのオティーリエの問いにセリアが答えようと口を開いたところで。
信徒の出入りする扉ではなく、礼拝堂の奥にある神父が出入りする扉が、ギィっと大きな音を立てて開いた。
◇ ◇ ◇
礼拝堂の奥の扉の音は、神父が礼拝堂に入って来る合図の音でもある。
このため、この音がすると、礼拝堂にいる人はみんな条件反射的に口を紡ぎ、神父が出入りする扉を見る。
この日も同様で、セリアも開きかけた口を閉じて、神父が出入りする扉の方を見た。
ただ、神父はいつもなら10時ぴったりに入場するのに、今日は10分も早い。
そのせいか、礼拝堂に集まっている人々は、みんな怪訝な顔をして、少々ざわついている。
四人の神父が礼拝堂に入って来ると、先頭の一人が金属製のメガホンを口にあて、礼拝堂中に聞こえる大きな声で呼びかけた。
「みなさん、静粛にお願いします。」
その呼びかけで、礼拝堂がしーんと静かになった。
そして、中にいる人々が注目したことを確認すると、神父は一つ頷いて続きを話し出した。
「先ほど、騎士団より連絡がありました。」
その時、オティーリエとセリアに向かって、フィアとノシェが、軽く手を振りながら歩いて来た。
その後ろにはフィアの家の自動車の運転手であるパリトも付き従っている。
神父が入場してきたのと同じくらいに礼拝堂に入って来たようだ。
オティーリエとセリアも小さく手を振り返す。
その間も、神父からのお知らせは続いている。
「西門から超大型の魔獣がこちらに向けて移動して来ているとのことです。」
魔獣というのは、普通の動物とは全く異なる生物で、まるで魔法のような特殊な能力を持った獣のことである。
その能力は個体によって様々だが、火を噴いたり、何もない離れた所に突然攻撃をしたりといった危険なものばかり。
だから、一般人ではまったく相手にならないし、戦闘訓練を行っている騎士でも魔獣一体に対して数人がかりで対処する必要がある。
そんな危険な生物だが、半世紀も前から目撃例が減っていて、ここ十年ほどは全く目撃されていなかった。
その魔獣が、よりにもよって、この領都に出現したということで、礼拝堂内は再びざわざわし始めた。
「改めまして、静粛にお願いします。」
ざわめき出した礼拝堂内を見渡して、神父が改めて注意を促すと、礼拝堂内は再び静寂に包まれる。
それを見て、神父が再び口を開いた。
「魔獣がこちらに向かっているため、この礼拝堂にいるのも、外に出るのも危険と判断しました。
これより、みなさんを神殿地下の避難所に案内します。
案内に従って、秩序を保って避難をお願いします。」
そこまで言うと、四人の神父は入って来た扉の前から退き、メガホンを持った一人を残して避難誘導のために礼拝堂内に散った。
オティーリエがパッとヨハンの方を見ると、ヨハンもオティーリエの方を見ていて、二人は目が合った。
オティーリエがそのまま視線をすっと一瞬だけ信徒が出入りする扉の方に逸らすと、ヨハンは一つ頷き、目立たないように礼拝堂から出て行った。
「セリアはご家族とご一緒の方がよろしいのではなくて?」
オティーリエがヨハンとアイコンタクトを取っている間に、フィアがセリアに声をかけていた。
フィアの後ろでノシェも頷いている。
「そっか、そうだね、ごめん、私、家族の方に合流するね。」
バイバイ、と小さく手を振りながら、セリアは家族の方に向かった。
◇ ◇ ◇
神父の誘導が上手いのか、実物を見てないためにパニックが発生していないためか、大きな混乱もなく避難は行われている。
オティーリエとフィアとノシェの三人も落ち着いて避難の列に並んで、前の人に続いて歩いていた。
当然、パリトも三人のすぐ後ろを黙ってついて来ている。
「フィアとノシェとパリトさんは災難だね。
ひょっとして、魔獣に追いかけられた?」
「いいえ。
礼拝堂に入った途端、先ほどのお話を聞いて驚いているところですわ。」
オティーリエが歩きながら三人に問いかけると、フィアから答えが返ってきた。
フィアはフルネームをセレスフィア・ノレット・オストライアと言い、鉱山を持ち、自動車、産業用機器をはじめ、家庭向けの蒸気機関製品なども取扱う各企業を傘下に持つ巨大グループ会社を経営する、ホルトノムル侯爵領の中でも指折りの名家の娘である。
少し癖のある美しい銀色の髪を腰まで伸ばし、青みがかった灰色の瞳を持つ神秘的な印象の少女だ。
そのセレスフィアを挟んでオティーリエの反対側を歩いているのはノシェ。
セレスフィアの家が経営する自動車工場の工夫である父親と、事務員をしている母親を持つ、ごく一般的な家庭の一人娘。
ただ、普段はセレスフィアの友人兼侍女見習いとしてセレスフィアの家で仕事をしているので、一通りの礼儀作法は身に付けている。
鮮やかな赤色の髪をショートカットにしていて、瞳の色は茶色。
少しだけどそばかすがあることをちょっと気にしている。
「もうちょっと遅ければ魔獣に追いかけられてたってことだから、ラッキーと言えばラッキーかもね。」
ノシェもその気になれば上品な言葉遣いが出来るけれど、この場は友達として振る舞うことにしたようで、言葉を崩して話しだした。
ついでに態度も崩して頭の後ろに両手を回したりなんかしているので、お仕着せの侍女服と全く雰囲気が合っていない。
「そうだね。
三人が危ない目に合わなくてよかった。」
オティーリエが言うと、セレスフィアとノシェは笑顔で応えて、後ろでパリトがうんうんと頷いた。
「でも、正直、魔獣って言われてもピンとこないよね。」
「そうね。
お話の中だけの存在という印象ですもの。
今もお話を伺っただけで実物を見ていませんから、余計そうなのではないかしら。」
「わたしも。
なんか想像できなくて、変なこと思い浮かべちゃうよね。」
ノシェの言葉にセレスフィアが肩を竦めながら答えて、オティーリエも頷く。
そんな会話を続けているうちにも避難の列は進んでいて、四人は礼拝堂の奥の扉を抜けた。
扉を出てすぐの所に神父が立っていて、列を右側に誘導している。
四人がそのまま人の流れに従って少し歩くと、廊下の突き当りに上りと下りの両方の階段があって、そのうちの下に降りる階段の方に避難の列は続いていた。
「変なことって、どんなこと?」
「うーん、改めて聞かれると困っちゃうけど、なんかコミカルな絵しか思い浮かばない。」
オティーリエが人差し指を顎にあてて、ちょっと上を見ながら困り顔でノシェに答えると、ノシェは納得顔で頷いた。
「ああ、こういう時、妙にコミカルな絵しか出てこないことってあるよね。
必死に戦ってくれてる騎士様達には申し訳ないけど。」
「不謹慎だったかな?」
オティーリエは、どこか申し訳なさそうな表情になった。
「どんなのかも分からない物を想像するんだから、仕方ないんじゃない?」
「そう言うってことは、ノシェも?」
オティーリエは後ろ手を組みながら少し前屈みになって、セレスフィアの向こうからひょこっと顔を出しながら、ノシェを見た。
「いや、あたしは特に想像したりしないから。
ティリエの想像力は逞しいなぁと思うだけで。」
「う。
だって、気になるじゃない。」
ノシェはちょっと揶揄うような調子で言ったけれど、オティーリエの方は真面目に受け取ったようで、姿勢を戻しながら、どこか言い訳がましく答えた。
階段は途中で折り返してさらに続いている。
「まあ、確かに気にはなるけどさ。
神殿が潰れたら、生き埋めになるのかなーとか?」
ノシェは変わらず、揶揄うような調子で言う。
しかし。
「ちょっと、ノシェ、嫌な想像やめてよ。
地下に避難するってことは、きっと、神殿が潰れても地下までは被害が出ないって神父様達が判断したんだよ。」
オティーリエは本当に嫌そうに言った。
思わずみんなが瓦礫の下敷きになる想像をしてしまったらしい。
そのオティーリエに、ノシェも嫌そうな表情を浮かべた。
「いやいや、ティリエこそヤな想像やめてって。
あたしは、神殿が潰れちゃったら、地上に出る出口が塞がれちゃうんじゃないかなって思っただけだよ。」
「あ、そっか、ごめん。
でも、確かにそれはありそうかも。」
「うぁ、納得しないで。
ティリエに同意されると、なんか本当になりそうで怖い。」
「え、わたし?
言い出しっぺはノシェじゃない。」
眉をひそめて言うノシェに、オティーリエは何言っているのと言わんばかりに返した。
「いや、うん、まあ、そうなんだけどさ。
ティリエの言うことって当たるから。」
「そうね。
ティリエは状況判断が的確なのよ。」
ノシェの言葉にセレスフィアも同意する。
「ううん、そんなことないよ。
状況判断なら、フィアの方が絶対、的確だよ。」
オティーリエは首をぷるぷると振って答えた。
それなりの長さのあった階段を降りきると、正面に向かって伸びる廊下と、さらに折り返して下に降りる階段があった。
ここにも神父が立っており、正面の廊下をまっすぐ進むように列を誘導している。
「あら、ありがとう。」
「ちょっと待って二人とも。
あたしは?」
どこか不満げに尋ねるノシェに、オティーリエとセレスフィアはお互いに顔を見合わせると、真面目な顔で答えた。
「ノシェはね、言葉は乱暴だけど、周りをよく見ている、すごい気遣いさんなんだよ。」
「ええ。
ノシェは、侍女としてしっかり仕事をして下さってますわ。」
「う。
そう面と向かって言われると照れるね。」
階段を降りた所から少し歩いたところで、左手の扉が開けられて神父が立っていた。
どうやらここが目的の場所らしい。
扉の中は礼拝堂と同じくらい広い部屋で、いくつかの長机と椅子が置かれていて、なんとなく大きな食堂という感じ。
「神殿の地下ってこんなになっていたのですね。」
セレスフィアがちょっとだけ驚きのこもった声で言うと、こちらは驚きの表情を浮かべているノシェが言葉を続けた。
「廊下の先もあったし、さらに地下への階段もあったし、神殿ってなんかスゴイ建物だったんだね。」
先に来た人たちがすでに椅子に座っていて空きがないので、四人は出来るだけ隅の方に立っていることにした。
『蒸気と白騎士 〜お忍び令嬢と従者とリスの事件手帖〜』を投稿始めさせていただきました。
よろしくお願いします。
急な事態による避難のハズなのに、実物を見ていないおかげで特に混乱もなく。
どこか呑気な会話をしている主人公達でした。