第9話 ひとつの約束と、揺れ始めた距離感
土曜日の午後。
大学は休みだが、研究室の鍵を借りて課題の続きを進めるために足を運んだ。
普段は賑やかな構内も、休日の今日は人影もまばらで、どこか別世界に来たような静けさがあった。
研究棟の前で足を止めると、空は鈍色の雲で覆われていて、雨が降り出しそうな気配を感じる。
手に持っていたファイルを抱え直し、静かに建物の中へ入った。
廊下を歩いていると、すでに明かりのついた研究室の扉が目に入った。
(あれ……もしかして)
静かに扉を開けると、白河先輩が窓際の席でノートパソコンに向かっていた。
白衣ではなく、淡いニットにタイトなジーンズという私服姿。
その柔らかな服装が、彼女の雰囲気をいつも以上に和らげていた。
「……こんにちは」
「……あ、蓮くん」
先輩は少し驚いた顔をしたあと、すぐにふっと微笑んだ。
その笑顔に、なんとなく胸が温かくなる。
「まさか来るとは思わなかった。今日は誰も来ないと思ってたから」
「課題、片付けたくて……先輩も?」
「うん。家だと集中できなくて、つい」
ノートパソコンを閉じて、彼女はゆったりと椅子にもたれた。
「静かな研究室って、案外落ち着くよね」
「そうですね。なんだか、自分の呼吸の音まで聞こえるくらい静かで」
「ふふ、それちょっとわかるかも」
促されるまま、俺も一番奥の席に荷物を置いて作業を始めた。
——
午後の研究室は、まるで時間が止まったかのようだった。
タイピングの音と、外の風が建物に当たる低い音だけが、淡々と響いていた。
時折、先輩と他愛もない言葉を交わす。
「蓮くんって、静かに作業するとき、何かこだわりある?」
「え……こだわりですか? うーん……無音より、少しだけ環境音がある方が落ち着くかも」
「環境音?」
「カフェの雑音とか、雨音とか」
「わかる。私も雨の音、好き」
話はそれだけで終わる。
だけど、こうしたやり取りの中で、先輩と少しずつ距離が縮まっているような気がしていた。
——
夕方近くになると、曇っていた空からぽつりぽつりと雨が降り始めていた。
先輩が小さく背伸びをして、パソコンを閉じる。
「もうひと頑張りしたかったけど、集中力が切れたかも」
「お疲れさまです」
「蓮くんは?」
「もうちょっとやっていこうかなと思います」
「そっか……じゃあ、飲み物でも買ってこようかな。自販機行くけど、ついてくる?」
「あ、じゃあ俺も行きます」
ふたりで廊下を歩く。
外の雨音が、窓ガラス越しにかすかに聞こえていた。
「……なんか変な感じ」
「何がですか?」
「こうやって、誰もいない研究室で、ふたりだけで過ごしてるのが」
「……嫌ですか?」
「ううん、逆」
缶コーヒーを手に、彼女は少しはにかんだように笑った。
「ちょっと新鮮。こういう日、たまには悪くないね」
俺はその言葉に、何も返せずに頷いた。
喉の奥が少し詰まるような気がした。
——
帰り際、先輩がぽつりと切り出す。
「……ねえ、来週の木曜。資料集めで図書館行こうと思ってるんだけど……もし時間あったら、一緒に行く?」
「え?」
「ひとりだと、まただらだらしてしまいそうだから……付き合ってくれると助かるな」
「……もちろん、行きます」
「ありがとう。じゃあ、約束ね」
それは、あくまで“勉強のためのお願い”だった。
でも、なぜかその言葉が妙にうれしくて、胸がふわりと浮いたような感覚になった。
——
別れ際、先輩がふと立ち止まって言った。
「……蓮くん、最近少し変わったよね」
「え?」
「前より、ちゃんと目を見て話してくれるようになった」
「……気づいてました?」
「うん。前はちょっとだけ、距離を置いてる感じがしてたから」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃないよ。でも……そういう変化、わたしは嬉しい」
そのまま、先輩は振り返らずに研究棟を出て行った。
残された俺は、曇った窓の外をしばらく眺めていた。
ふたりの距離は、たしかにほんの少しずつ近づいている。
けれど、それが恋なのかどうか——まだ、わからなかった。