第7話 優しさの裏にあるものと、名前を呼ばれた日
週が明け、月曜日の朝。
先週の曇り空とは打って変わって、雲ひとつない晴天だった。
窓から差し込む光が眩しくて、まぶたをしかめながらゆっくり起き上がる。
(今日も、ちゃんと朝ごはん……だよな)
気がつけば、その思考が自然に浮かぶようになっていた。
パンを焼きながら卵をフライパンに落とし、サラダ代わりに昨晩の残りのレタスとミニトマトを添える。
「……うん、なんかもう“生活”してるって感じだ」
つい独り言が出てしまうほど、自分でもこの変化に驚いていた。
——
大学に着くと、研究室の中はいつもより人が多かった。
新しい週が始まったせいか、空気に少しだけざわついた活気がある。
白衣に着替えて中に入ると、白河先輩の姿もすでにあった。
先週よりも顔色がよく、表情もいくらか穏やかに見えた。
「おはようございます」
「おはよう、篠崎くん」
言葉を交わすと、先輩はふとこちらをじっと見た。
「……なんか、雰囲気変わったね」
「え? そうですか?」
「うん。なんていうか、顔つきがしっかりしたような」
「……ちゃんと朝ごはん食べてるおかげですかね」
冗談混じりに返すと、先輩はくすっと笑った。
「それ、わたしのおかげってこと?」
「そうなりますね」
「ふふ、それはちょっと嬉しいかも」
先輩は頬に手を添え、少しだけ照れたように笑う。
その仕草が妙に印象的で、胸のあたりがふわりと温かくなった。
——
午前中は、前回の分析結果をもとにした考察の確認。
作業は地味だが、先輩の手順は的確で、少しずつ自分でもできることが増えてきた。
「この部分、試料によって偏りがあるから、統計的な確認が必要だと思う」
「……ここですか? 確かに、データが跳ねてますね」
「そう。気づけるようになってきたじゃん」
「……ほんとに?」
「うん。最初は不安そうだったのに、今はちゃんと自分の目で見て判断してる」
そんな風に言われたのは初めてで、照れくさいけれど嬉しかった。
まるで自分がちゃんと“この場所にいていい”と認められたような気がした。
(……もっと頑張ろう)
自然とそんな気持ちになるのが、先輩と話している時だった。
——
昼休み、今日も先輩と一緒に昼を食べることになった。
先週までは考えられなかったような距離の近さに、内心驚いている。
「……そういえば」
「はい?」
「わたし、ずっと“篠崎くん”って呼んでたよね」
「え? あ、はい……?」
突然の話題に戸惑っていると、先輩は箸を持ったまま小さく首を傾げた。
「……名前、なんていうの?」
「あ、蓮です。篠崎蓮」
「蓮くん、か」
先輩はその名前を、ゆっくりと口の中で転がすように繰り返した。
「……なんか、いい名前だね」
「そ、そうですか……? 普通の名前だと思いますけど」
「ううん。響きが柔らかくて、呼びやすい」
そして、ふっと視線を逸らす。
「じゃあ、今度から蓮くんって呼ぶね」
「……えっ?」
思わず声が裏返った。
名前を呼ばれるだけで、こんなにも動揺するなんて思っていなかった。
でも、それくらいその“蓮くん”という響きには力があった。
白河結衣という女性が、自分を名前で呼んでくれた。
それだけで、何かが少しだけ変わったような気がした。
——
午後の作業を終えた帰り道、今日も先輩と並んで歩いていた。
風が少し冷たくなってきた夕方。
それでも、隣に先輩がいるだけで、寒さがやわらぐ気がした。
「蓮くん」
「……っ、はい」
「……やっぱり、名前で呼ぶと変な感じするね」
「俺も、ちょっとびっくりしました」
「でも、すぐ慣れるよ。そういうのって、距離が近くなった証拠だから」
そう言って、先輩は微笑んだ。
その笑顔は、いつもの淡々とした彼女ではなくて。
どこか、心の奥にある本当の表情のように見えた。
——
名前を呼ばれた日。
それは、たった一言だけれど、確かに特別な一日になった。