第6話 曇り空と、たった一言のありがと
翌朝、目覚めると窓の外は薄曇りだった。
曇り空のせいか、部屋全体がどこかぼんやりと暗い。
時計を見ると、普段より少しだけ早く目が覚めたらしい。
せっかくだからと、今日も簡単な朝食を作る。
昨日の卵焼きは少し焦がしてしまったけれど、今日はちょっとだけ上手くできた。
(……なんだか、こういうのも悪くない)
たったそれだけのことなのに、気持ちがほんの少し整うのを感じる。
白河先輩に教えられて始めた生活習慣が、少しずつ体に馴染んできた気がした。
食器を片付けた後、洗面所で寝癖を直し、カーディガンを羽織って外に出る。
季節の変わり目の空気が肌に少し冷たくて、思わず肩をすくめた。
——
大学に到着すると、すでに研究棟の入り口には数人の先輩たちの姿。
何気ない会話を交わしながら中へと入っていく。
俺もエレベーターで研究室のある階に向かい、白衣に着替えて部屋へ。
ドアを開けると、部屋の中は静かだった。
「おはようございます」
「おはよう、篠崎くん」
白河先輩はすでに着席していて、パソコンの画面に視線を落としていた。
挨拶を返してくれたものの、今日の声はどこか淡く、少しだけ元気がないようにも感じた。
「今日は、午前はデータ整理。午後は簡単な分析の補助お願いね」
「はい、わかりました」
静かな声に合わせて、俺も自然とトーンを落とす。
けれど、気を遣っているようには感じさせず、淡々とした会話の心地よさがあった。
席につき、パソコンを起動させて作業を始める。
タイピングの音と換気扇の微かな音だけが、部屋の中に溶けていた。
——
午前中の作業は、前回の実験データをエクセルにまとめる作業。
「その列、もうちょっと右に詰めて……うん、そこ」
「はい、これでどうですか?」
「……完璧」
そう言って、先輩は珍しく親指を立てた。
冗談っぽい仕草に思わず笑ってしまう。
「……何?」
「いや、先輩がそんなことするの珍しいなと思って」
「たまにはね」
パソコンの画面に向き直るその横顔は、やっぱりどこか疲れているように見えた。
瞳の奥が少しだけ鈍く沈んでいて、長いまつ毛が影を作っている。
(……体調、悪いのかな)
でも、それを簡単に聞くのは失礼な気がして、俺は言葉を飲み込んだ。
——
昼休み。
自分の席で弁当のフタを開けようとしたところで、白河先輩がふと顔を上げた。
「……ねえ」
「はい?」
「もし迷惑じゃなかったら……一緒に食べない?」
「えっ、あ、もちろん!」
思わず声が上ずる。
先輩はいつも一人で静かにお弁当を食べていた。
そんな彼女からの申し出に驚いたけれど、それ以上にうれしさが込み上げてきた。
席を移動して、テーブルを挟んで向かい合う。
互いに弁当を広げ、ゆっくりと昼食を取り始めた。
「……今日も、自分で作ったの?」
「はい。まだ慣れないですけど……ちょっとだけ頑張ってます」
「うん、いいと思う。ちゃんと食べてるだけで、えらい」
そう言って、先輩はにこっと笑った。
昨日のような優等生な微笑みではなく、どこか素のままのような、あたたかい笑顔だった。
(やばい、今日の先輩、ちょっと反則だ……)
お箸を持つ指先がほんの少し震えているように見えた。
「……先輩、もしかして、疲れてますか?」
「え……ああ、うん。ちょっとだけね」
視線をお弁当の隅に落としながら、白河先輩は小さく頷いた。
「今週、ちょっと予定詰まってて……帰ったら倒れるように寝てる」
「じゃあ、もっと寝た方がいいですよ。無理しないでください」
「……ありがと」
ぽつりと漏れた言葉が、心に染みるようだった。
「最近、ちょっと疲れてたから。こうして後輩と一緒に話すだけでも、楽になる」
「そ、そうなんですか」
「うん。だから、ありがと」
言って、また小さく笑う。
たった一言の「ありがとう」なのに、胸の奥がきゅっと締めつけられるようだった。
先輩が頼ってくれることが、こんなにも嬉しいなんて、思いもしなかった。
(もっと……先輩の力になりたい)
そう思った。
ただの下心なんかじゃない。
あの静かな微笑みに、少しでも応えたくなった。
——
午後の分析作業では、いつもより慎重に取り組んだ。
先輩が不調なら、自分ができることは少しでも減らしたい。
その一心で、普段より集中して指示をこなす。
「……うん。完璧」
「よかった……先輩の負担、ちょっとは減りました?」
「うん、すごく助かってる」
先輩の表情は穏やかだったけれど、どこか安心したような雰囲気も混じっていた。
そのあとも淡々と作業が続いた。
でも、不思議と苦じゃなかった。
白河先輩の隣で、誰かのために頑張るという気持ちが、こんなにも前向きなものだとは思っていなかったから。
——
片づけを終えた夕方、外はまだ曇り空のままだった。
「今日も、お疲れさま」
「先輩も、お疲れさまです」
「今日は、よく頑張ってくれたから……ちょっとご褒美」
そう言って、先輩はポケットから小さな飴玉を取り出して差し出した。
「え、いいんですか?」
「うん、ミント味だけど、大丈夫?」
「もちろんです」
小さなキャンディを受け取るだけなのに、なぜか心がじんわり温かくなる。
先輩はそのまま、くるりと背を向けて歩き出した。
でも、ほんの一瞬だけ、肩越しに俺を見て微笑んだ。
(……やっぱり、可愛いな)
研究室という静かな場所で生まれる、些細な言葉と行動の積み重ね。
それが、何よりも強く心に残っていく。
今日の曇り空も、先輩の「ありがと」で少しだけ明るくなった気がした。