第5話 初めての実験と、そっと差し出された優しさ
朝日が差し込むカーテンの隙間で目を覚ます。
カーテンの端がふわりと揺れ、春の空気が微かに部屋に入り込んできた。
(昨日、先輩に言われた通り……朝ごはん、ちゃんと食べるか)
重い体を引きずってキッチンへ。
冷蔵庫を開けると、残っていた卵と食パン、そして野菜ジュースが目に入る。
卵を割り、焼き始める。
ジュワっと音が立ち、キッチンにほんのり香ばしい匂いが広がった。
パンはトースターで軽く焼くだけ。
……たったそれだけのことなのに、少しだけ背筋が伸びたような気がした。
「……よし、今日も頑張ろう」
そう呟いて、俺は家を出た。
——
大学に到着すると、すでに研究室の灯りはついていた。
白衣に着替えて部屋に入ると、白河先輩が静かにパソコンを打っていた。
「おはようございます」
「おはよう、篠崎くん」
先輩はふとこちらを見て、小さく微笑んだ。
「顔色、昨日よりよさそう」
「……あ、はい。今朝、ちゃんと食べました」
「そっか。じゃあ、今日は安心して任せられるね」
その一言に、思わず頬がゆるむ。
先輩はまたパソコンの画面に視線を戻すが、その横顔がどこか嬉しそうだった。
——
今日のメインは、簡単な化学実験の補助。
先輩の指導のもと、器具の準備から試薬の計量までを実践する。
緊張で手が汗ばむ中、先輩がそっと隣に立つ。
「この試薬は光に弱いから、取り出したらすぐにフラスコに移してね」
「はい、わかりました」
「あと、このビーカーは加熱に弱いから、使い終わったらすぐ洗って戻しておいて」
「はい……」
隣で説明しながら指差す先輩の手が、時折俺の手と触れそうになる。
そのたびに心臓が跳ね、集中しなきゃと自分に言い聞かせる。
(落ち着け、俺。ミスしたらそれこそカッコ悪い)
真剣な表情の先輩を横目に見ながら、俺は深呼吸して手順を進めていった。
作業中、ふと先輩が小さくくすっと笑った。
「なんか、緊張してるのが背中から伝わってくる」
「えっ、そ、そんなにですか……?」
「うん。でも、失敗しても怒らないから、安心してね」
「……それ、すごく心強いです」
先輩はそう言って、ほんの少しだけ俺の白衣の裾をつまんで引っ張った。
まるで「こっちこっち」と道案内をするような仕草に、思わず胸がどきりとする。
(……なんだよ、その可愛い動き)
自分で考えたくせに、慌ててその思考を打ち消した。
——
昼休み。
今日の俺の昼は、昨夜の残りを詰めた即席弁当。
白河先輩の忠告がじわじわ効いてきて、自炊意欲が芽生え始めていた。
「珍しいね、自分で作ったの?」
「はい、ちょっとだけ……先輩に言われたので」
「へぇ、見せて」
俺は弁当箱を先輩に見せる。
ご飯の隣に卵焼きとウインナー、そしてミニトマトが入っただけの簡素なもの。
「ちゃんとしてるじゃん。色合いもいいし」
「いや、適当に詰めただけですよ」
「その“適当”ができない人もいるんだよ。偉い偉い」
言って、先輩はふっと笑った。
そのとき、頬にかかる髪を指先で整える仕草をして、いつもの落ち着いた雰囲気の中にどこか柔らかい印象が混ざった。
(……先輩って、やっぱり可愛いな)
言葉にするのはまだ早いけれど、そんな気持ちがふと胸の内に芽生えた。
——
午後の作業も無事に終え、片づけの時間。
洗い終えたビーカーを棚に戻していると、背後から声がかかる。
「おつかれさま、篠崎くん」
「あ、はい……今日、すごく勉強になりました」
「明日は少し応用的な内容に進む予定だけど、いけそう?」
「はい、先輩が見てくれるなら、たぶん大丈夫です」
その言葉に、先輩は少しだけ目を見開いてから、すぐにふわりと微笑んだ。
「じゃあ、また明日ね」
「はい、また明日」
今日も、そっと差し出された小さな優しさに、俺は何度も助けられた。
研究室という静かな場所で、俺たちの距離は少しずつ、でも確かに近づいている。