第4話 研究室の静寂と、ふたりだけの作業時間
翌朝。
目覚まし時計の電子音がけたたましく鳴る中、俺は布団の中で寝返りを打ちつつ、まどろみの中から現実へと引き戻されていた。
(……あぁ、今日も研究室か)
眠気の残る頭でぼんやりと天井を見つめながら、昨日のことを思い出す。
白河先輩と歩いた帰り道。
たったそれだけのことなのに、妙に印象に残っていた。
隣を歩く足音、言葉少なな会話、先輩の笑顔。
何かが大きく変わったわけじゃない。でも、確かに何かが心に残っていた。
ようやく起き上がって服を着替え、朝食代わりにインスタントスープを啜りながら、スマホで天気予報をチェック。
(今日も晴れか。花粉がキツそうだな……)
荷物を整えて家を出た。
——
研究室にはいつもの時間に到着。
今日も静かな空気が漂っている。
白衣に着替えて中に入ると、すでに何人かの先輩が作業に取り掛かっていた。
「おはようございます」
「おはよう、篠崎くん」
穏やかな声が返ってくる。
白河先輩はいつものように席についてノートパソコンに向かっていた。
ふと、こちらに気づいて目が合う。
「昨日の器具の返却、ちゃんとできてたよ。ありがと」
「あ、はい……よかったです」
先輩はほんの少し、口元だけをゆるめて笑った。
それが、なんでもないやりとりに思えたのに、なぜか俺の胸の奥がふわりと温かくなる。
——
午前中は試薬の在庫確認と整理。
慣れないながらも、メモを取りながら丁寧に作業を進める。
白河先輩は隣で指示を出しつつ、必要なところだけをさりげなくフォローしてくれた。
「これは次の入荷まで少し余裕があるから、この棚の奥に置いておこうか」
「はい、了解です」
「ラベルは貼り替えといて。日付も今日の日付に」
「えっと……これで、いいですか?」
「うん、ばっちり」
先輩の声は相変わらず静かで落ち着いている。
けれど、時折こちらの手元を覗き込むときに顔が近づいて、俺はつい息を飲んでしまう。
そのときの先輩は、きまじめで、でもどこか柔らかくて、近くで見るとまつげが驚くほど長かった。
(……近いって)
意識しすぎてしまっている自分が、なんだか情けない。
けれど、それも含めて先輩との距離がほんの少し縮まっている気がした。
作業の合間、ふと白河先輩がペンを止めて俺を見た。
「……こうやって一緒に作業するの、わたし好きかも」
「えっ」
突然の言葉に、思わず手が止まる。
「あ、変な意味じゃなくてね。後輩に教えるのって、案外新鮮で楽しいなって」
そう言いながら、先輩は頬をほんのり染めて、視線をそっと逸らした。
(ずるい……)
その仕草が自然すぎて、俺はどう反応していいか分からなかった。
——
昼休み。
俺はいつものようにカバンからコンビニのおにぎりを取り出して、自分の席で食べ始めた。
今日も卵と鮭のおにぎり。
ふと視線を上げると、白河先輩も自席で弁当を広げていた。
お弁当箱の中には、小さく切られた卵焼きや彩りのいい野菜のおかずが詰まっていて、まるで誰かが気を配って作ったようなやさしさを感じる。
ちらりとこちらを見た後、先輩がゆっくり口を開く。
「コンビニの、また同じやつ?」
「はい……つい、いつもと同じの選んじゃって」
「それ、もしかして朝買ってる?」
「え? あ、はい。家を出る前に寄って……」
「朝食は?」
「……スープだけです」
「……ふーん」
頬をぷくっと膨らませるような、あきれた表情。
それが本気で怒っているわけでもなく、むしろ子どもっぽくて、少しだけ可愛かった。
「……もし、朝もう少し早く起きられたらさ、自分で何か作るのもいいと思うよ」
「えっと……たとえば?」
「簡単なトーストとか、卵焼きとか。スープだけよりはずっといい」
「先輩、そういうの得意なんですか?」
「うん……まあ、一応」
「すごいですね」
「べ、べつにすごくはないけど……自分の分くらいはちゃんとするよ」
言いながら、先輩はお箸で小さな卵焼きを口に運んだ。
その頬が少しだけほころんだのを見て、俺は妙に安心する。
——
午後。
白河先輩から、実験器具の扱いについて詳しい説明を受ける。
昨日までは見て学ぶだけだったが、今日は実際に使わせてもらえるようになった。
緊張しながらも、一つひとつの動作を丁寧にこなす。
「……よし。大丈夫そうだね」
「ほんとですか?」
「うん。慣れてきたね」
「まだまだですけど、なんとなく流れは掴めてきた気がします」
「それなら上出来。初週にしては十分すぎるくらい」
「……教え方が分かりやすいからですよ」
「それはうれしいな」
言って、先輩は少し照れたように笑った。
その笑顔は、どこかやわらかくて、俺は思わず見とれてしまった。
長いまつげの先、伏せられた瞳の奥に揺れる光。
こんな近くで見ていたら、目が離せなくなる。
——
帰り際。
今日も自然と、白河先輩と並んで研究棟を出る。
昨日と同じ道。昨日と同じ時間。
けれど、昨日よりも少しだけ気持ちは軽かった。
「……一日、おつかれさま」
「ありがとうございます。先輩も」
「明日は、ちょっとだけ変わった実験に入るから、体調はちゃんと整えておいてね」
「え、そんなすごいことするんですか?」
「すごくはないけど、初めてやるには少し緊張するかも。だから、ちゃんと寝て、ちゃんと食べて」
「……スープだけは、ダメってことですね」
「当たり前」
ふっと笑った先輩の横顔は、どこか優しさに満ちていた。
風が吹いて、先輩の髪が少しだけ揺れた。
細くて柔らかそうな髪が頬にかかるのを、指先で払うその仕草が、なぜか妙に印象に残った。
今日の一日が、昨日よりも少しだけ特別に思えたのは、きっとその笑顔のおかげだ。
明日は今日よりも、もっと頑張ろう。
そう思えたのは、彼女のその何気ない一言のおかげだった。
今日も、隣に誰かがいることが、少しだけ嬉しかった。