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第3話 先輩と並んだ帰り道、少しの沈黙と、少しの会話

 研究室の午後は、午前よりも静かだった。


 午前中の器具取り扱いの時間を終えた後、個々の作業に集中する雰囲気に包まれた室内。

 俺は、白河先輩に教えてもらったメモを頼りに、消毒済みの器具を棚へ戻す作業を任されていた。


 ガラス器具の音を立てないように慎重に動きながら、周囲に気を配る。

 静かな部屋に響くのは、カチャカチャという器具の音と、時折交わされる小さな会話、そしてパソコンのキーボードを叩く控えめな音。

 先輩たちがそれぞれの作業に集中する空気の中、俺はまだ場に馴染み切れていないことを自覚していた。


 けれど、そんな自意識過剰も、白河先輩の一言で救われる。


「慣れないうちは慎重すぎるくらいでちょうどいいよ」


 ふいにかけられたその声は、昨日と同じく柔らかくて落ち着いていた。


「……あ、ありがとうございます」


 振り返ると、彼女はパソコンの手を止めてこちらを見ていた。


「私も最初は同じだったから。緊張してたし、洗浄したつもりで水滴が残ってたりして、先輩に注意されたこともあった」

「え、白河先輩でもそういうことが……」

「うん。今だから言えるけどね」


 冗談めかして笑った彼女の表情は、いつもより少し砕けて見えて、俺は安心したような気持ちになった。

 自分だけじゃないという事実は、こんなにも心を軽くするものなのか。


(……ちょっとずつ、慣れていけるかもしれない)


 心の中でそう呟きながら、俺は再び棚の扉を静かに閉じた。


 ——


 午後も終わりに差し掛かり、研究室内にゆるやかな空気が流れはじめる。

 時計を見ると、夕方五時過ぎ。

 他の先輩たちも少しずつ帰り支度を始めていた。


「今日はもう、片付けして大丈夫だよ」


 白河先輩のその言葉に、俺も器具を片付け、白衣を脱いでロッカーにしまった。

 着替えの最中も、なぜか胸の内は妙に落ち着かなくて、鏡の前で髪を手ぐしで整えながら小さく深呼吸をした。


 帰る準備をして廊下に出ると、ちょうど先輩と目が合う。


「……帰る方向、一緒?」

「え、あ……駅まで、なら」

「じゃあ、ちょっとだけ一緒に歩こうか」


 それだけのやり取りなのに、やけに心臓の鼓動が大きく聞こえた。


 ——


 研究棟を出た外は、春の夕暮れらしい穏やかさに包まれていた。

 日が傾き始めた空は薄くオレンジがかかり、キャンパスの影が長く伸びている。

 歩道の端には小さなタンポポが風に揺れ、空気は昼間よりも少しだけ冷たい。


 並んで歩く。

 それだけなのに、どこか非日常のように感じられるのは、俺が普段一人で行動しているからだろう。


「この時間帯の風って、ちょっと冷たいよね」

「そうですね。でも、昼よりは過ごしやすいです」

「うん。私は、この時間帯、わりと好き」

「……どうしてですか?」

「なんとなく、一日が終わったって感じがして。忙しかった日でも、こうして歩いてると、少し気持ちが整うの」


 彼女の言葉は、まるで日記の一節のように静かだった。


「蓮くん、意外と真面目だね」

「え……そう、ですか?」

「うん。今日もそうだけど、ちゃんと話聞いてたし、メモも取ってたし」

「いや、もう必死で……分からないことばっかで」

「でも、分からないからって投げ出す人も多いんだよ。ちゃんと向き合ってるの、えらいと思う」


 その言葉は、ただの評価じゃなかった。

 今まで俺が一人で勝手に抱えてきた不安や焦りを、誰かが見てくれていたということが、何より嬉しかった。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」


 沈黙が少し流れる。

 でも、気まずさはなかった。


「先輩って、普段からそんなに気配りされるんですか?」

「ん? そうかな。あんまり意識してないけど……昔からそういうの、身についちゃったのかも」

「昔から、って……?」

「うーん、なんだろ。私、兄弟が多くてね。自然と周りを見て動くようになったというか」

「ああ、なるほど……」

「それに、気づいてあげられなかったら後悔するってこと、何度かあったから」


 言葉の端に、ほんの少しだけ影が差した。


「……すみません、なんか聞いちゃって」

「ううん、いいよ。もう過去のことだし」


 結衣先輩は笑った。

 けれどその笑顔は、どこか遠くを見ているようでもあった。


 その瞬間、彼女のことをもっと知りたいと思った。

 優しさの奥にあるものに、少しだけ触れてみたくなった。


 駅が近づいてくる。

 通勤帰りの人々が行き交う中、俺たちの歩幅は自然と揃っていた。


「蓮くん、普段はどんな感じなの? 家では」

「……うーん、かなりズボラです」

「なんとなく、そうかなって思ってた」

「ひど……」

「ふふ、ごめん。でも、無理してちゃんとしようとしてるの、分かるから」


 気づかれていたことに驚きつつも、なぜか恥ずかしさよりも安心感の方が強かった。


「先輩は、家でもしっかりしてるんですか?」

「まあ……一応は。でも、完璧じゃないよ。朝は弱いし、部屋も散らかってるときはある」

「意外です」

「よく言われる。でもね、ちゃんとしてる人に見えるってのも、案外プレッシャーになるんだよ?」


 その言葉に、思わず足を止めそうになった。


(ちゃんとしてる人にも、ちゃんとしてるなりの悩みがあるんだ)


 改札が見えてくる。


「じゃあ、また明日」

「はい。また明日」


 結衣先輩は手を軽く振って、改札の中へと入っていった。

 俺はその背中を目で追いながら、しばらくその場を離れられなかった。


(……また、明日も話せるかな)


 そんな風に思ってしまった自分が、少しだけ不思議だった。

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