第2話 不器用な優しさと、はじめての昼休み
研究室配属から二日目。
朝の慌ただしさは相変わらずだった。
アラームを三度止めて、ようやく布団から抜け出す。寝癖を帽子で誤魔化し、顔を洗って服を引っかけて、コンビニで適当におにぎりとお茶を買う。
「はぁ……」
エレベーターの中でため息をついた。
大学三年の春。研究室に配属されたばかりなのに、もうこの生活リズムは破綻している。
駅から大学までの道のり、俺は人混みの中でひたすら無言だった。
街路樹の隙間から差し込む陽光は暖かくて、少しだけまぶしい。
だが、そんなのを感じる余裕もなく、俺は研究室のある棟へと足を進めた。
——
理工学部棟の研究室に到着すると、すでに何人かの先輩たちが実験や書類作業に取り掛かっていた。
「あ……おはようございます」
「おはよう、篠崎くん」
その中で、真っ先に声をかけてくれたのは白河先輩だった。
昨日と同じ白衣姿。髪は変わらず一つに結ばれていて、涼しげな瞳がこちらを見ている。
「今日も午前中は器具の取り扱いを中心に説明するから、ゆっくりでいいよ」
「はい、ありがとうございます」
まだ少し緊張していたけれど、彼女の一言で肩の力が抜ける。
言葉自体は淡々としているのに、どこか安心感があるのは不思議だった。
午前中は主に実験器具の取り扱いを教わった。
フラスコ、ピペット、遠心分離機——慣れない単語と慣れない操作に、俺の頭はあっという間に容量オーバーになる。
「これが洗浄済みのセットね。乾燥機の使い方は……ここをこう押すだけ」
隣に立つ白河先輩は、手早く作業を進めながらも、俺の動きにさりげなく目を配っていた。
「うまくいかなかったら、もう一度やればいいよ」
「……すみません。なんか全部覚えるのに必死で」
「一日で覚えられるわけないでしょ」
クスッと笑った彼女の横顔が、どこか柔らかく見えた。
その笑顔に特別な意味を読み取るには、まだ早い。けれど、人としての距離が少しだけ近づいたような気がして、俺は密かにうれしくなった。
——
やがて昼休み。
先輩たちは各々で昼食を取り始め、部屋の空気が少しだけ緩んだ。
俺はカバンから、朝買ったおにぎりとペットボトルのお茶を取り出して、自分の席で食べ始めた。
「それ、今日の昼ごはん?」
ふいにかけられた声に顔を上げると、白河先輩が俺のデスクの前に立っていた。
「え、あ……はい。コンビニで、いつもこんな感じです」
「ふふ、昨日も似たようなのだったから。予想通り」
言って、先輩は自分の席に戻る。
そして、トートバッグから取り出したのは、きちんと包まれた手作りのお弁当だった。
お弁当の中身は、彩りよく並んだ卵焼きに煮物、ミニトマトにブロッコリー。
栄養バランスも考えられていて、見ているだけでお腹がさらに鳴りそうになる。
(……俺、今日の昼飯、おにぎりとお茶だけだよな)
「もしよかったら——」
白河先輩が口を開いた、まさにそのときだった。
「結衣〜、資料のアップロード終わった? 明日までって言われてるやつ」
「うん、ちょっと待ってて。今出す」
他の先輩の声に、白河先輩は一度頷くと、すぐにノートパソコンを開いて作業に戻った。
先輩の指がキーボードをリズミカルに打つ。
目元は真剣で、さっきまでの和やかな雰囲気とはまた違った顔だった。
(……やっぱ、すごい人なんだよな)
俺はそっと視線を落とし、おにぎりの袋を開けた。
昨日も、今日も。何かと気にかけてくれるけど、それはあくまで“先輩としての優しさ”だ。
その瞬間、白河先輩がちらりとこちらを見て、口を開いた。
「……ごめんね、さっき途中になっちゃって。別に大したことじゃないんだけど」
「いえ、全然気にしてません」
「そっか。それならよかった」
彼女は微かに笑って、また視線をパソコンに戻した。
(……きっと、誰にでもこんな風に気遣いできる人なんだ)
俺はそう思うことにした。
それでも、その些細な気遣いが、今の俺にはちょっとだけ沁みた。
先輩のことをまだほとんど知らない。
でも、昨日より少しだけ近づけた気がして、昼休みが終わったあともなんだか胸の奥があたたかかった。