足首にみずいろのリボンー5ー
※R15
※このシリーズは、ロマンティック傾向のある二者のアセクシャルのDom/Sub(支配と服従)を主題としています。
※Dom/Subユニバースものではありません。
※このシリーズに性描写はありませんが、30代と20代という年齢差のある関係性の権力勾配を扱っています。
※Domの自宅を訪れるSub。Dom/Sub関係を経て、SubがDomに告白をする。
画布の住む国立まで、榛生の自宅からは二度の乗り換えを含めて一時間ほどだ。
歩けない距離ではないが、大規模に開発された団地区画は似たような景色が続くため、画布が送ってくれたメモにしたがってバスに乗車していた。
synclyやナビアプリの起動は、ゆるく禁じられている。不安になったり、迷ったりしたら利用してもいいと言われているけれど、何かあったら画布さんに直接連絡したほうが早いな、と榛生は考えている。
スマホの存在を意識すると、画布の「命令」を意識してしまう。心を鎮めるために、ポケットの奥のチャームの凹凸を指でなぞった。画布の指示によって生じた波紋を、画布に与えられたチャームで宥めていることは奇妙なことのようにも、あたりまえのことのようにも思える。
昨日までの画布の指令は一日一枚、なるべく決まった時間に鏡の前で自撮りをするというものだったった。自分の顔など見慣れていたつもりだし、今も撮影される機会は少なくないが、なぜか心がざわめいた。画像は送信しなくていいから、代わりに画布にスマホを直接見せるというのが今回の「命令」だった。
それで、榛生は画布の住居に向かっている。団地はバス停の名前もどれも似ていた。伝えられた降車駅と相違ないことを確かめつつ、停車駅で降りる。
街路樹の影が鬱蒼と差している歩道を抜けて、人気のない公園を通りぬけて、教えられたナンバーの建物へ。エレベーターはないらしい。五階まで階段を昇り、部屋のナンバーと表札を確かめて、ドアの前に立つ。チャームをひと撫でして、チャイムを鳴らした。ビーッとブザーのような音が響き、すぐに扉が開いた。
「ようこそ」
ドアの室内側のノブを握った画布が、榛生を迎えた。ひらかれたドアから、コーヒーの匂いが漂ってきている。画布は、若白髪の混じった少し癖のある髪も、黒いTシャツも、いつもよりも少しラフな格好をしていた。顔を見て、安堵したのが榛生は自分で分かる。
「お邪魔します」
「来てくれて、嬉しいよ」
「画布さんが、来るように言ったんじゃないですか」
皮肉っぽく響いただろうか。言葉を継いでから、画布の様子をうかがうと、
「うん」
両眼を細めた画布と眼が合う。どきりとした。
自分から「話したいことがある。もう少ししたら、言葉になったときに時間を取ってもらえますか?」と伝えたのだけれど、ふとした瞬間に、待たせていることを意識する。きっと画布は、榛生が言い出すまで待ってくれるのだろう。
「お土産持ってきてくれたの? 気が利くね」
あるいは、うまく聞き出してくれるのだろう。
画布は榛生の紙袋にめざとく気がついて、手提げに手を添えるようにして受け取った。
「甘い物、大丈夫でした?」
「うん。正直助かるよ」
今すぐにでも命令して聞き出してほしいような、そうはしない画布に心地よさを感じながら、軽く会釈をして、導かれるまま、靴を脱いでグレーのスリッパを履き、部屋に上がる。土間はダイニングキッチンと面している。フローリングは年季の入った疵がところどころについている、けやき色。
「コーヒーを淹れるから、ちょっと待ってて」
「ここまで来たご褒美ですか?」
「そんなところ」
画布はテーブルにそなえつけられた、客人用らしき椅子を引いた。榛生は着席して、画布の横顔を見つめる。画布は手慣れた様子で電子ケトルのスイッチを入れて、コーヒーの保存缶を開けた。
こぢんまりとしたキッチンは片付いていて、ウォールラックに鍋やフライパンが掛けられている。キッチンとダイニングはステンレスの収納棚で区切ってあり、棚には調理家電が整然と並ぶ。収納棚の隣はこの広めの木製テーブルで、ガラス製のコーヒーサーバーが鎮座している。画布は手慣れた様子でフィルターをセットし、湯が沸くとコーヒーを抽出してマグカップに注いだ。
「砂糖はいくつ? ミルクは?」
「砂糖だけ一杯、入れてください」
画布がマグカップをテーブルに載せる。釉薬がつやを持たせている色違いで、榛生のものが緑の、画布のものが紺色だった。画布も砂糖のみ加えたらしく、表面の澄んだコーヒーが湛えられている。
画布も椅子に座って、榛生の手土産を開きはじめた。
「榛生君も食べるだろ?」
「それはいちおう、画布さんの原稿のお供のつもりで買ってきたんですが」
「好きなものを食べているところを、俺に見せてほしいな」
榛生は口の端をぎゅっと結んだ。自分の表情の癖くらいは心得ていて、照れると頬が緩むのを抑えようとして、唇の両端を引き結ぶ。食事しているところなんか、何度も見ているだろうにと心のなかで呟く。
「榛生君は、なにが食べたい?」
画布は菓子箱を空けて、二人ぶんの丸皿とともにテーブルに載せた。丸皿の素地はくすんだ茶色で、ぽってりと厚めの白い釉薬が、クリームのようだ。
選ぶことをうながされるときは、いつも少し緊張する。ポケットのなかのチャームの存在がごく短く脳裏をよぎり、触る必要はない、と判断する。画布は目の前にいるのだから。少し迷って、個包装された半ダース入りのセットから、まろい帆立をかたどったマドレーヌを手に取った。
「いただきます」
「どうぞ。俺もいただきます」
見せてほしい、という言葉のとおり、画布は三口ほどでフィナンシェを食べ終えててしまい、榛生に視線を寄越した。
「…うん、美味いよ」
「よかったです」
見守られながら、榛生もマドレーヌのしっとりとした生地に歯をうずめる。ひとくち。
うん、おいしい。新鮮で豊かな、卵とバターと牛乳の味が溶け合っている。
俳優としてのキャリアのほとんどは未成年だったから、差し入れというのはほとんど受け取る立場だった。こだわりのある先輩の差し入れのロゴマークをなんとなく覚えていて良かった、と思う。
見守られている、と榛生は感じる。
verseonは学生のサークルがそのまま会社になったため、当時二十歳前後だった友人たちは、手土産や差し入れに疎かった。なし崩しに社交と渉外担当になったから、社長という立場になったようなものだと、榛生は認識している。
贈答品を選ぶのは趣味のようなものだが、画布との親密さの色合いは変わりつつあるから、美味しいという言葉が聞けて、口許が綻んだ。
マグカップを手に取った。釉薬で触り心地がつるつるとして、あたたかい。唇に近づけると、コーヒーのナッツのような香りが立った。口に含む。ボディはやや重め、朝に飲めばきっと眠りが醒めるだろう。コクは深いが、後味は意外にすっきりして、わずかな酸味が胸に浸透する。
「おいしいです」
「口に合ってなによりだ」
画布は眉尻を下げて笑った。これは、と榛生は気づく。
「これ、もしかして画布さんのオリジナルブレンドですか?」
「…原稿中、あまり楽しみがなくてね」
謙遜してみせているものの、自信作なのだろう。凝り性だなあ、と、笑みがこぼれた。でなければドミナントなどできないのかもしれないが。
「これは原稿のお供用なんですね」
「来客用のブレンドは試作中なんだ。…出来あがったら、味をみてほしい」
「それはもちろん」
またここに呼ばれることがあるんだ。
カップを傾けて、照れで少し渇いた喉を潤した。
コーヒーを飲み終えると、画布は室内窓で区切られた隣室に榛生を招いた。リノベーション済みなのだろう。窓に向かってL字型の机にパソコンとプリンタが載り、オフィスチェアが備えつけられている。壁面の三方向は、書棚で埋め尽くされていた。
いくつかの棚は布が掛けられていて、背表紙が見えなくなっている。眺めていると、書名が見える書棚は、辞書類が収納されたものであることに気がつく。
「…これは、」
「官能小説のタイトルは見えないほうがいいかなと思って。余計なことだった?」
「あっ、やっぱり」
榛生は画布の著作を読んでいる。画布もそのことは知っているはずなのだが、大量に並んでいると少し首筋がぴりぴりするような気になるのも確かだ。「すみません。画布さんのお仕事なのに…」
「うん? そこにあるのは俺が出した本じゃないし、榛生君とのドムサブは、俺が言い出したことだから。俺が気を配るのは当然。…そこに座って」
画布は、部屋の中央に置かれた、ベロアの生地が張られたソファを示した。榛生が腰を下ろすと、ふかりとしたクッションの感触。
画布は机に備えつけられたオフィスチェアを半回転させて、榛生にを向けて腰を下ろした。ぎし、と画布は背もたれにいちど深くもたれかかったあと、身を乗り出して、榛生に手を伸ばす。
「じゃあ、課題を見せてもらおうかな」
「は、い」
榛生はスマートフォンを取り出し、ロックを解除して、フォルダをひらいて画布に手渡した。画布はさらに身を乗り出し、榛生からも画面が見えるようにしながら、画像を一枚一枚確認していく。
「一枚目、少し緊張してた?」
「はい。…そういえば自撮りって久しぶりで。以前、プロモーションでSNSを使ったときくらいです」
画布の親指が画面をすべり、二枚目、三枚目と、一週間ぶんの写真をスライドして表示していく。鏡のまえで撮った、スマートフォンを手にした自分。帰宅してからすぐ、スーツのまま撮影したもの。部屋着で撮影したもの。混在しているが、日ごとに表情がほぐれているのが自分でも分かる。
「プロの方に撮っていただいたり、社員が撮ったものに写りこんでることはあるんですけど」
「もしかして、自分の顔は好きじゃない?」
「あ、いや、…むしろ、」
画布が興味深げに眉を動かした。
今しかない。榛生は膝のうえで拳を握り、口を開いた。
「画布さんに見てほしいことがあって」
声は裏返って、早口になった。
「うん?」
画布は軽く微笑んで、先を促す。
「ぼくの、女装、…を、見てほしいんです」
語尾は、蚊が鳴くような声になった。
「まえに、『楽園』…映画『楽園に捧ぐ』の、月留の話をしました。僕は高丘月留っていう、異性の制服を着る役を演じて。僕はずっと月留のことが引っかかって心残りなんだって思ってたんですけど、それも嘘ではないんですけど。でも、もっとやれるって思ってたんです」
「『もっとやれる』」
「僕はもっとかわいい服を着たかったし、もっとかわいくなれたと思うんですよ! それを…画布さんに…」
見てほしいんです。
榛生は今度ははっきりと、画布を見据えて言った。
「それが、画布さんに命令をもらううちに見つけられた自分なんです」
「そうか」
画布は目元をやわらかく緩ませたあと、真剣な面持ちで頷いた。
「じゃあ、俺が見なきゃいけないね」
カーテンが揺れる。
「…はい、」
二十センチほどひらかれた窓から、風が吹き込んでいる。




