足首にみずいろのリボンー1ー
藤波画布(37歳のアセクシャルの官能小説家の男性)が、
期待されるキャラクターを演じがちな久我榛生(くがはるみ:27歳のアセクシャル、元俳優のAI系テック社長の役員男性)と
性的接触を含まないDom/Sub(支配/服従)関係になり、精神的な解放をめざすおはなしです。
※このシリーズは、ロマンティック傾向のある二者のアセクシャル同士のDom/Sub(支配と服従)を主題としています。
※Dom/Subユニバースものではありません。
※性描写はありませんが、30代と20代という年齢差のある関係性の権力勾配を扱っています。
※このエピソードには飲酒描写があります。
2025/01/27 改稿しました。
「つまり、久我にピグマリオンの才能がないってことだよな」
軽口に、久我榛生は睨めつける眼差しで応答した。第一ボタンまで留めた深緑のシャツに萌葱色のジャケットと揃いのスラックス、飴色の靴。仕立てのいいいでたちの榛生は、不機嫌そうに会議室のテーブルを指先で叩いた。
「そういう冗談は、関心しない」
冷ややかに斬って捨てる態度は、しかしかえって場を沸かせた。オンラインで参加しているメンバーから、ヒュウ! と歓声が上がる。囃し立てる声に、榛生は嘆息してみせた。それもまた、榛生が少年時代に演じたキャラクターがそのまま成長したかのような振る舞いだった。
「悪い悪い」
「佐村、調子に乗るなよ」
目黒に立地するビルの7階、IT会社「verseon」の本社会議室で行われる勉強会が終わると、内輪の冗談の応酬になる。同僚の軽口を発し、榛生が冷ややかに嗜めるというのは、一連の流れだ。車椅子のゲストを見送ったり、在宅からオンラインで参加しているメンバー用のディスプレイの電源を落としたりしながら社員たちは親しげで、藤波画布はやや疎外感を味わう。
画布、というのは本名だ。画布の職は官能小説家で、異性愛や男性同性愛・女性同性愛……レーベルで必要に応じて筆名を使い分けている。筆名はもう少し、ありふれた印象のものだ。
2週間にいちど行われる、言語についての勉強会は、オンラインで参加している数名を含めて、ほとんどがverseonの社員だ。社外から加わっているのは、画布を含めて3人のみ。画面越しの軽口は、副社長のものだ。
勉強会は指示と服従についてをテーマとし、毎回ゲストを呼んでいる。興味深い内容もないわけではなかったが、榛生がいなければ熱心に通わないだろうな、とも画布は感じている。verseonは二十代を中心とした若い会社で、勉強会のゲスト講師も若手研究者が多い。画布は、三十七歳の浮いた存在だという自覚がある。
versonは創設者はここにいないメンバーを含めて5人、大学の同級生だ。榛生はその頃には俳優を引退しており、それまでに得た報酬を投資し、利益を仲間に出資した。前後して、生成AI分野で大きな技術革新があった。verseonの創設メンバーはそれを利用し、ユーザーひとりひとりの好みに応じたマネージャーAI「syncly」を生成することを考えついた。
それ自体は、とくに変わったアイデアというわけではない。当時、有象無象のマネージメントAI生成アプリが、生まれては消えていった。そんな中でversonが成功をおさめたのは、synclyがユーザー好みのAIの人格を生成するアルゴリズムの設定、愛着を持たせるためのアイデアに秀でていたからに他ならない。ユーザーはsynclyをインストールすると、いくつかの問いを出題される。回答に応じてsynclyはキャラクターAIを生成する。AIの容姿は部分的にカスタマイズ可能だ。その後、ユーザーとの対話にしたがって、AIの人格は少しずつ変化していく。ヒト同士のコミュニケーションが、相互に影響を与え合うように。
また、インストール後一定期間が経過すると、ユーザーとAIは二者間の秘密を共有する。それはしばしばなんでもない、ちょっとした過去のできごとだが、ユーザーの好みをたくみに反映した、共通の、架空の思い出だ。それによってユーザーはキャラクターAIに引き寄せられる。ユーザーの人生にフィクションがひとしずく、垂らされる。画布も、「嵌まる人間は、滑り落ちるように嵌まるだろう」と唸るほどだ。
verseonは今でこそ株式会社の体裁を取っていたが、初期は半ば同人サークルのようなものであったから、メンバーはそれぞれの分野で助言し合っていたという。もとは出資者というポジションの榛生も、コンセプトやユーザー好みの性格設定の仕方、変化のさせ方、「思い出」を生成する手順の生成法にも深く関わっている。
初期にはアプリケーションの中での対話が中心で、服装やアクセサリーが課金アイテムのシンプルなものだったが、少しずつ業績を伸ばすにしたがって、機能はめざましく拡張した。スマートフォンやタブレット内の他アプリケーションと連携し、カレンダーやTodoリストやタイマー、スマート家電の操作等も可能になった。
verseonが開発したのは、名目上はマネージメントAIだ。しかし、幼なじみや親友や恋人、あるいはそれらのすべてのように慕うユーザーも少なくない。
verseonは、最初からそれを意図して創られた。創立メンバーには非対人性愛者であることをカミングアウトしている者や、AIを人格のある友人として扱いたい者のほうが多いくらいで、synclyで生成されたAIを伴侶として扱う社員も存在する。この勉強会でも、同様だった。
そのような仲間が多い中で、榛生はsynclyに深く入れ込んではいない。そのことを評して、「久我はピグマリオンの才能がない」と、軽口を叩かれているのだった。
勉強会のあとは食事会を名目にした飲み会になることが多い。一次会といったところだ。3年前から始まった勉強会に通いはじめ、藤波画布は久我榛生と、二次会を称してバーで呑むようになっていた。区内の、小さいながらも個室をそなえた、verseon社員の行きつけのバーだ。天井や壁は黒く塗られている。黒縁の眼鏡に紫色のTシャツに黒いジャケット、チノパン、ブーツという服装の画布は、
「俺いま忍者みたいじゃない?」と首を傾げる。「そんなに忍者じゃないです。小豆色がかってるほうが、黒に紛れやすいみたいですよ。昔聞いたんですけど」
答える榛生の声は、勉強会よりも穏やかだ。
「絶対ああいうの、良くない…」
榛生は嘆息して、ガラステーブルに突っ伏した。画布が見たところ、一次会ではビールを二杯しか飲んでいないから、ザルの榛生はそこまで酔わないはずだ。だというのに話題と感情が飛躍している。
個室だからさほど問題はないだろうが、元俳優はさほどの音量を発していなくても発音が明瞭だ。
「なんだ『そういう冗談は、関心しない』って。今は気心が知れたメンバーしかいないからまだしもですよ。ああいう顔、知らない人の前でやったら僕は心底いやなやつじゃないですか」
「まあまあ」
画布はボウル状の器のナッツの盛り合わせにヘイゼル(榛)ナッツを見つけて、ひそかに口に放り込んだ。燻製塩がまぶされたヘーゼルを噛みくだき、榛生をなだめる。
このところ二次会の榛生は、自分の言動を嘆くことが多い。三年かけて、画布は二人きりでこういう弱音を聞かせてもらえる仲になったのだ。
「そういう流れが出来ちゃってるよな。佐村君が茶化して、君がねめつけるっていう」
「そうなんですよ!」
榛生は顔を上げる。悲嘆に暮れてさえ秀麗な相貌に関心しつつ、画布はジンジャーエールを喉へ流し込む。辛みがじんと舌を痺れさせた。
「なんか、そういう流れを期待されているような気がして」
榛生は肘をつき、溜息を吐いた。
「実際そういう向きは、あると思う」
「そういうのを感じてしまうと、その通りに振る舞ってしまうんです。昔から…、」
榛生は再びテーブルに腕を伸ばして、伏せた。
synclyが最初にユーザーに問いを投げかけ、好みの人格を生成し、適宜修正するアルゴリズムに、俳優時代の榛生の経験や、期待に応える性質が活かされている、というのはまことしやかに囁かれている。もっとも、突っ込んで尋ねたところで、「社外秘です」と返されてしまうだろうと画布は踏んで、追及はしなかった。
「俺だけは、本当のきみを分かってるよ」というようなことを囁いても、いいのだけれど。かつて人気を極め、若き成功者として注目を集める青年の、繊細な本音を独占したら、きっと良い気分になれるだろう。
でも、榛生とはもっと愉しいことがしたいと、画布は願っている。
「本当はちょっと疲れてるんです。…決断疲れ、って言うのかな」
「ああ、決断力を温存するために同じ服をローテーションしてる経営者みたいに?」
「服は、好きなんですけど。…会社も投資も、好きなんですけど。なんか…考えるの、疲れちゃって」
一か月くらい旅行にでも行こうかなあ。海外とか。ああ僕、どこに行ったら話の種になるか、とか、synclyの参考にすることとか、考えてる。こういうのから解放されたい。子どもの頃からしっかりしてるとか言われてたけど、どこどこに行ってくれって、言ってくれれば、いいのに。
榛生は独り言を言っている。独り言の口跡も良いんだからな、と画布はカクテルを傾ける。噂通りだとすれば、榛生に「ピグマリオンの才能がない」、synclyに嵌まり込まないのは、当然だろう。synclyは榛生の『従』の部分を部分的に参考にしている。
榛生のsynclyが主人に命令するよう進化しなかったことに、画布は胸を撫で下ろしていた。
「命令されたい?」
榛生は首を少し回し、眼だけを動かして、画布を見上げた。
「きみに、命令をしてあげようか。きみが、自分が何を考えているのか分かって、人に合わせなくても良くなるように、誘導してあげる」
榛生は瞬きをした。薄暗いバーの照明でもそれと知れる、長い睫毛の影が差している。
「…口説いてます?」
「うん」
「あんたなぁ。……周到な人、好きですけど」
「光栄だな。俺をドミナントにしてみなよ」
「僕がサブミッションになるってことですか?」
「そう」
画布は個人的にも、職業上もSMという言葉を使用することも多いが、敢えてドミナントとサブミッション、という言葉を使った。画布はあまり他人の生の肉体に興味がないし、痛めつける趣味もない。それに、榛生には被支配願望はあっても、被虐願望があるわけではなさそうだし、あったとしてもすぐには認めたがらないかもしれない、と判断したためだ。
「画布さんって、…」
「うん、アセクシャルだね」
画布と榛生は親しい。画布は官能小説家だがアセクシャルだということを、榛生は知っている。三十歳を過ぎた頃に「自分がセックスが好きではない」と認識してから官能小説が書けるようになったということを、すでに話している。好意の対象のジェンダーは問わない、ということも。
榛生がいなければ出席することはないだろう勉強会だが、verseon関係者は異性愛者の割合が少なく、画布にとって居心地の良さはある。
「だから性的接触はなし。痛いこともしない。きみも、そのほうがいいだろ?」
「それは、そうですけど」
榛生と画布は親しい。画布は榛生がインスタグラムにAceと載せていることを知っている。非対人性愛者、フィクトロマはめずらしくないverseon社内で、榛生がゲイデミロマンティックのアセクシャルであることも、聞いている。
「どういうことを、するんですか」
「まず榛生君には、日記を毎日送ってもらおうかな。最初は二、三行でもいいよ。AIの補助は、なるべくなし」
榛生はきゅっと唇を閉じた。聞けば聞くほど魅力的な提案に思えたからだが、なんとなく、笑ってみせることに抵抗がある。
「どうした?」
「お試しでお願いします」
「じゃあ、」
「あ、でもその前に」
榛生は上半身を起こし、鞄からタブレットと備えつけのキーボードとペンのセットを出した。synclyに命令して、アセクシャルの交際に参考になりそうな同意書の書式を出力。synclyがドキュメントアプリの起動を提案する。
「アセクシャルと言っても、それぞれ不快に思うことはちがいますからね。してほしいこと、してほしくないことをまず書面にしておきましょう。今画布さんにもドキュメントを送信したので、共同編集をお願いします」
画布は尻ポケットからスマートフォンを取り出し、ドキュメントアプリを開いた。
「…家でプリントアウトもしておくよ」
「適宜、書き足したり修正しましょう」
プリントアウトするんだ。ほほえましい気持ちになったので、榛生は今度は素直に破顔した。
榛生は出力された質問にキーボードで返答を打ち込んでいく。「性嫌悪あり。下ネタは苦手。身体的接触はハグまで、服を着たときに隠れるところには触れられたくない」。
何かを思い出す、と首を傾げて、画布の小説だ、と気がつく。画布の小説で完読したものは数冊だが、レーベルごとのペンネームは知っている。描写が濃厚ではない作品は、榛生にも読むことができた。画布の官能小説は、暴力をテーマにした作品でないかぎり、性的同意の場面が必ず差し挟まれる。
画布が勉強会に参加するようになって3年、アセクシャルの官能小説家というのはあいかわらず榛生にとってどこか不思議な存在だが、そういうものなのだろう、と思う。恋愛に消極的ではないアセクシャルと言っても、さまざまだ。
画布とは話していれば楽しく、個人的興味もある。
「『服を着たときに隠れるところには触れられたくない』、か…。その服って長袖? 半袖?」
「長袖です」
「顔や髪は? OK?」
「大丈夫ですけど、いちおう確認してほしいです」
画布は接触はとくに問題なし、「セックスが嫌い」とタップし、入力した。生の性器やセックスは、苦手だった。なんだか、冗談のように滑稽に思えて、笑ってしまうのだ。
「してほしいことが、まだあんまり思いつかないんですけど、」
「追々ってことにしようか。俺はきみに甘えてほしい」
榛生は唇を尖らせた。
「もう誘導始まってます? …画布さんも、追々ってことにしましょうよ」
画布は性的惹かれが希薄だが、独占心と執着心は強い自覚がある。それらについては画布は、今は記さないことにした。
「セーフワードも決めておこうか」
「画布さんの小説みたいに?」
画布はにっこりする。
「そうだね。俺の小説みたいに。きみが一言言ったら、プレイはそこで中止。たぶん俺ときみのセクシャリティ上、直接の接触はなしで、テキストメッセージを使ったりすることもあると思うけど。それもちゃんと、中止にする」
ううん。榛生は唸って、手指を口許に持って行く。画布は頬杖をついて、それを眺めた。
「かえって興奮させるようなのは、できればやめといたほうがいい」
「ん…。難しいですね…」
悩んでいるらしい榛生に、画布は助け船を出した。
「じゃあ、暫定で『黄色』と『赤』にしよう。嫌な感じがしたら、『黄色』。すぐにやめてほしいときは『赤』。『黄色』でも俺は止めるから。このまま進んだらまずいかも、って気配でも、シグナルを出して」
「はい」
榛生は穏やかな笑みを溢した。
安心させることに成功したと見てよさそうだと、画布も胸をなでおろす。とはいえ榛生は表情をつくるのが巧みだし、本心ではない感情もなかなか他人に悟らせない。
だから3年もかかったし、こうなっているわけだ。
「じゃあ、お試しから。よろしくお願いします」
タブレットをしまうと、榛生はぺこりとお辞儀をした。まろい頭のかたち。礼儀正しい仕草に、画布も思わず、
「よろしくお願いします」
頭を下げた。
榛生は締めにホワイトルシアンを、画布はコーヒーを締めにオーダーした。榛生がタブレットをブリーフケースにしまうと、ややあって、店員が注文した品を運んでくる。個室に、コーヒーの香りが漂う。
ホワイトルシアンは円筒形のグラスに注がれたウオッカとコーヒーリキュールのカクテルに、生クリームを注いだものだ。榛生はストローで円筒形のグラスに注がれたブラックルシアンの氷をストローでつつく。コーヒーリキュールとウオッカのカクテルで、甘みは舌にしなだれるれるようなコーヒーリキュールだが、生クリームとウオッカの風味で包まれて飲みやすくつくられている。
画布のオーダーしたコーヒーは店オリジナルのブレンドで、厚みのある陶器のあるカップを満たしていた。スモーキーな香りが鼻腔をくすぐる。ひとくち啜ると、焦げた苦み、あとから深みが追いかけてくるが、後味は爽やかな、ベリーの風味がのこる。
テーブルを会計を終えて、店員が去ったあと、画布は付け足した。
「…榛生くん、きみはおそらく自分で思ってるよりしっかりしてるし、それもきみの偽らざる一面だよ」
俺だけに依存させたかったら、べつのタイミングで言うべきなんだろうな。たとえば、社内で人間関係が深刻になっているときとか。声に出さずに付け足すと、榛生は唇をきゅっと閉じて、指先をこめかみに当てて、軽く頭を振った。
頭痛でもするのかと、画布が覗き込もうとすると、榛生は俯いた。
「榛生君?」
「なんでもないです」
「…うん、」
榛生は顔を上げて、ふふ、と笑みを溢した。酒に強い榛生だが、尻のまわりが照れたように、少し色づいている。画布は口許を押さえて、咳払いをした。年甲斐のないにやつきを、眼鏡で少しは隠せているといいのだけれど。