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はっ、と僕は息を呑む。まるでスイッチを切換えるみたいに。視点を記憶からまた別の記憶へと転回させる。乗り物の上で格闘するアクションスターが、接近してきた速度の違う別の乗物に飛移るように。ナチの手先と奮戦するインディアナ・ジョーンズみたいに。
『レオン』の冒頭をなぞっていると、僕は自身が先ほどまで溺水していたことを想起した。睡眠麻痺に相違ないと思っていたそれは、まさしく主人公のレオン・ルブルムが、昏睡して海を漂流していた場面だったのだ。意識の途切れかけた時に聞いたあの音は、彼女が僕の救助に急行し波を掻分ける時のものだったのだ。
どうやら僕は、彼の物語の軌跡を辿っているみたいだ。
僕は彼女から目を切り俯いた。パチン。再度スイッチを切換えて、記憶を精細に呼起こす作業に移る。彼もきっと、そうしていたはずだから。
未だぼんやりとする記憶の輪郭を、頭の中で確乎とした文字に成形する。宛らタイプライターを打込むみたいに。打鍵された文字盤と、改行レバーの音の心地よさをイメージしながら。すると、記憶の大枠に附随した細かな断片が浮かび上がる。まさに深海からの泡沫のように。水の感触や思考の順列、緩慢な速度で移動していたことやその方向、パニックの様相と総括と願望。またそれらを文字に起こす。今度はより微少の断片が浮かぶ。また文字に起こす。断片、文字、断片、文字。それらをただ只管に繰返す。必要の文字数に達する、あるいは、手持ちの紙が尽きるまで、その作業は寸暇を惜しんで継続される。
僕が何かを鮮明に思返す時、その一聯が一種のプログラムとして内的に機能する。これも、昔お世話になった人のアドバイスから構築したメソードだ。
気管支のあたりをを無遠慮に、直截握緊められるような感覚に襲われたところで、そのプログラムは強制終了した。溺水の経験なんてそれまでなかったから、思起こすだけでも心臓と肺がきりきりと痛んだ。その節くれだった大きな手に刻まれた禍々しい指紋と、捻りを加えた引千切らんばかりのグラップル。誤って呑込んでしまった石が、食道の入口附近にいつまでも残り続けているみたいに気色が悪い。――ひどく恐ろしかった。
彼女は一定の緊張を維持して、僕の返事を待ってくれている。僕の不穏な変化を1つとして見逃すまいと、瞬きも少なに見詰めている。勿論、僕は俯いているのだから、その様子を直截に観ているわけではない。彼女の語りに依って、予め知らされているのだ。
僕は渇いた異物感を、ひとまず胃の底まで落としてしまう。次いで肺の中の空気を鼻から大きく放出して、出し切ると1秒ほど呼吸を止めてから、息を口腔で冷やし細めて吸込んだ。そうやって、僕は一定の落着きをとり戻した。彼女から見ても、身に染みついたルーチンと理解できる範囲において。
正直に打明けると、僕はひどく当惑している。現状をどのように解釈するべきか。
まともに考えれば、やはりこれは夢なのだと思う。溺水は睡眠麻痺によって生じた内的なまやかしであり、そこから聯想するように物語冒頭の追体験へと繋がったのだ。直前に感傷たっぷりにストーリーを思返していたのだから尚更だ。僕が物語の世界に入込むだとか、リアルと空想が融合するだとか、まさしく魔法のような奇跡が本当に起こる訳がないのだ。
しかし、夢と断じるにしては、感覚があまりにもリアルで鋭敏だ。ベッドの柔らかな感触は勿論のこと、窓から侵入する陽光と青空の眩しさ、うすらと肌に汗を纏わせる気温の高さ、部屋の中を流動する空気、それに付着する建材や油絵や潮の匂い、鮮明な視野、彼女の存在感や声のクリアさ、窒息の苦しみに不動状態のもどかしさ、恐怖と聯動してもたらされる内的な痛み。その総てが夢だなんて、知覚的にはとても信じられない。
いや、夢とは元来そういう事象なのかもしれない。夢裡では実際、現実と同じように痛みや疲労を知覚しているのだ。ただ、夢から覚めると、それらをすっかり忘却してしまっているだけなのだ。だから、主観性が消失する。これまでの幾つもの悪夢も、感覚上では本物と相違なかったのだ。眼前で誰かが水爆の業火に焼かれた夢も、知性もあり疾走するゾンビの大群に追われた夢も、路地裏から伸びてきた黒く大きな腕に捕らわれた夢も、僕が母の首を引千切れるくらいに締めていた夢も、総て現実で実際に起こった場合と同じように知覚していたのだ。焼爛れる肉の匂いも、食欲という純粋な害意を孕んだ奇声も、圧倒的な握力によって刻みつけられた痛痒とそれから逃れようともがいた結果生じた幾つもの傷痕も、母の必死の抵抗と痙攣と開きかけた瞳孔と僕の食込んだ爪に依って流された血の温もりとその粘性、それら総てを実質的に体感しているのだ。ただ、それら総ての知覚を、目覚める瞬間には忘れてしまう。夢の構成は支離滅裂なのだから、尚のことだ。大方の場合、そこに論理的整合性と聯続性はない。どんどんと場面がカオスに切換わって、入組んで、押流されて、収集がつかない。『エターナル・サンシャイン』の、主人公ジョエルの頭の中みたいに。まさしく、アナーキーだ。
こういった想像をしていると、僕が現実だと信じ切っている世界も、本来はある種の夢なのではないか、そのような妄想に駆られてしまう。本当の僕は、いまから10世紀も先の未来のようなあらゆる社会的文明的命題が解決し不条理な苦しみから解放された素晴らしい世界にいて、それでも苦しみについては学習しなければならないとして用意されたメタバースの中にいるのだ。記憶は一旦消去され、1つの不条理な人生を生きる。必要十分なところまで学べると修了し、記憶が復活して数多の教訓と感動を得るのだ。実際、そうだったらいいのになと思う。そういった具体的に規定された、ある種の物語的救済が自身にも与えられて欲しい。正しい役割を正しく全うする。いや、そうあって然るべきなのだ。
ゾゾゾゾ
出抜に全身が粟立った。恐怖がアマゾンの攻撃的な蟻の大群のように、足先から頭頂まで駆登ってくるのを感じた。それは海中で身動ぎ1つできず窒息したことではないし、過去の――覚えている限りの――悪夢を一遍に列挙したことでもない。僕を救出したことで、目の前にいる彼女がその後無惨な死を遂げることが確定した事実。僕がそれを僕自身の視点に依って、子細に知っていることだ。予言的に、というよりは預言的に。むしろ、後者の方が酷烈だ。
僕にとって、彼女の悲劇はあくまでも紙面上の形象だった。どれほど僕が彼女と物語に共感し、中庸の空間に迎入れられたとしても、それは個人的で内的な形象の聯続に過ぎなかったのだ。外的に身近な事柄とは直截には関聯せず、いまはその扱いに手を焼いていても、煙のように場に留まれないそれは、いつかは時間の作用によって分解され洗われて、想い出へと変換される。だから、人はその生涯に数多の作品に触れたり、幾度と同じ作品を見返したりするのだ。
しかし、いま突如として物語に客体的な像が与えられて、眼前に展開された。触れて干渉することができる訳だ。僕はそのあまりの重量に押潰されてしまいそうだ。それは現実が常々我々に与えている重量だ。物語に係るそれは我々にとても友好的であるのに、現実に係るそれは無感情で冷淡だ。物語からは作者の温かさを感じられても、現実は神の温もりなど絶無だ。
「ハルカ」は彼女の恐怖について、掘下げて描写はしなかった。必要最低限といった程度だった。それよりも彼女の勇気をこと細やかに描写した。熱量、息遣い、視線、躍動を絵に描くように描写した。力強い線と鮮やかな色彩がそこで使用された。勿論、それは構成として至極正解だ。何も発生したとする感情や出来事総てを、平等に事務的に描写することがリアリティではない。それを取捨選択するセンスこそが、リアリティなのだ。
そう、選択こそが、表現の核心なのだ。
物語を強力に前進させる力、「ハルカ」のチョイスに誤りはなかった。
ただ、彼女と舞台が客体性を得て実体化したいま、物語として落とし込むために切捨てられた事象と感情が、僕の頭の身体に陸を貪る津波の如く流込む。まったく想像しなかった訳ではない。作者が選別した部分を自身で補完することも、読書にとって重要な要素の1つだ。彼女がずたぼろの主人公の姿から、未だ見ぬ災害の形象を生々しく捉えたのと同じように。
しかし、僕は蛇に睨まれた蛙のように硬直し、立上がることができない。
いや、そもそも、僕は起上がりたくない。僕が動かなければ、その物語ははじまらないのだから。