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僕は質問する。「あなたが、助けてくれたのですか?」
「ええ」彼女は小さく頷いて見せた。「放っておけるわけないじゃないですか」
これはあの物語の冒頭の場面だ。主人公が初めてサラを目にした瞬間。物語のはじまりを象徴するワンシーン。霊的感触、デジャヴの実像。彼女の台詞も完全に吻合している。僕も主人公の発した台詞をそのままになぞった。いや、自然とその音声がかたちづくられた、といった方が適切だ。先述の通り、僕は既刊を幾度と読返していたので、台詞は完璧に身に入っているのだ。
物語のはじまり、といいはしたものの、厳密にはそのシーンの少し前からこのストーリーは語られはじめる。あくまでも、その表現は物語的加速の1ポイントとして捉えて頂きたい。『天空の城 ラピュタ』で、シータがパズーの許に天から降りてきたシーンと同じように。そして、その象徴的ワンシーン以前とテキストの視点について、ここいらで補足説明する必要もあるだろう。こちらの物語的加速に幾分水を差すことになるとしても。独善的な進行は、事態をよりカオスなところへ持ち去ってしまう。聞き手を置いてきぼりにしてはいけない。人に何かを伝える時、肝腎なのは1歩立止まることのできる気づきと優しさなのだ。連れの歩幅を常に意識するみたいに、エレベーターの閉ボタンを押す前に外を1度確認するみたいに、幼児と会話する際に目線を合わせるみたいに。
『レオン』は基本的に一人称視点で語られるが、章や節といった大きな括りごとに、語り手が移行する手法をとっている。それなりに用いられるメソードで多様性のある表現ができるけれど、語句やテンションの差別化にキャパシティを割かなければならない。ビギナーには不向きだ。しかし、「ハルカ」はそれを無理なく使熟していた。まるでクリック1つで書体を変更できるワード・エクセルみたいに。その記念すべき最初の語り手は――敢えて述べる必要もないと思うけれど――サラだった。第1巻はまるまる彼女のステージだったのだ。
はじめに彼女は、自身が領主の一人娘であることを説明した。しかし、彼女はそのことで、自身を特別視させるように誘導はしなかった。1人の人間、1人の女性として評価されることを、彼女は切に望んでいた。「ごくふつう」といった語句は持寄らず、淡々と事実を眼前に並立たせいった。年齢に身長に、趣味嗜好に苦手なもの。あまり語り過ぎず、最低限度に。
領主の子という特権階級の育ちながら、皮肉とも謙遜とも取れる話口になるのは、ある意味で当然であった。彼女の家は広大な土地を所有している訳でもないし、当主の父親は爵位を持っていない。もともとは絵に描いたように広大な領地を持つ辺境伯の側に仕える騎士の1人だったのが(この物語において騎士は爵位ではない)、11年前に勝利した戦争の陣頭指揮の功績が認められて、土地の一部を拝領し領主となったのだ。県知事の秘書が同県内の自治体の長になったようなものだ。その県知事の後楯をもってして。領主となった期間も未だ9年と浅く、領地面積も海沿いの町が2つにその周辺とささやかだ。安易な贅沢ができるほど裕福でもない。目敏い商人の方がよほど財を成しているだろう。それ故に彼女の自己紹介には、鼻に掛けた嫌味な部分がまるでなかった(と僕には感じられた)。
けして多くはない衣服の中から自身のセンスと気分で今日身につけるものを選び、食欲は十分に満たせるけれど更に進んで美食や暴食の限りを尽くすでもなく、将来王家や有力貴族に嫁ぐための英才教育を叩込まれている訳でもない(それは彼女の父親に、現在の領地を子々孫々で守っていこうという意思がないことも関聯している)。かといって、幾つかの有益な技能は身につけている。権力的野心や領民に対して驕慢な態度なんてもってのほか、そもそも階級や身分なんてほとんど意識したことがない。感覚的に現代の我々と非常に近しいのだ。電子製品の一切がないというだけで(その代わりとして有余るものが、この世界にはある訳なのだけれど)。
つまりは先進国民にとっての平凡を、ファンタジーに翻訳しているだけなのだ(実際、経済力があって且つ高い安全が保証されている国に住む我々なんて、世界的に見たら貴族といって差支えないのではないか。しかし、そこに発生する責任を、ほとんどの国民が自覚していない)。
それは「ハルカ」なりの、ファンタジーにリアリティと共感性を持たせるための工夫なのだろう。あるいは、その方が描きやすかった側面もあるかもしれない。ともかく、彼女の自己紹介は、爽やかなブリットポップのように等身大だった。
自己紹介を終えると、彼女は自身の現在向かっている場所について話しはじめた。
先述通り、彼女が暮らすのは海沿いの地域で、ちょうど居住する屋敷の裏手から、まっすぐ抜けたところにある海岸へ向かおうとしているところだった。季節は夏の盛り、快晴で汗がしとりと肌を滴るほどの気温だ(ただ、現在の殺人的といえる地球温暖化現象のない世界なので、その部分も加味し想像して頂きたい)。
海岸へ向かうのは避暑目的の海水浴だった。海岸は屋敷から徒歩で凡そ8分のところにある。屋敷は丘の上にあって、裏口から出ると直に海を見下ろせる。その海はエメラルドグリーンに染まり、海岸線はトルコ国旗に見るような美しい三日月型で、砂浜はさらさらとして黄色く本当に月からのギフトのようだ。地形的に内湾のさらに内湾といった具合で、外内湾への出入口がとても狭くなっている。お陰で波は穏やかで、遠浅ながら離岸流もまず発生しない。とても安全な海だ。
その海岸までは下りの一本道だ。草原で見張らしもよく、危険な生物もいない。彼女は水泳用として仕立ててもらった白く簡素な衣服を身に纏って、上機嫌に丘を下っていた。彼女はこの時期、天候さえ良ければ毎日のように海岸に出掛けている。これほどの美しい海が目の前にあって、引込まれない者がはたして存在するのだろうか。その素敵な引力のお陰で、彼女は領内で丘の上の人魚姫と形容されるほどの水泳技術を身につけることになった。
そこは領民もよく訪れる場所で、ただ泳ぐだけでなく彼らと、とりわけ子供たちと触れあうことも彼女の愉しみの1つだった。しかし、今日は見渡す限り誰もいないようだ。だったら、その分遊泳を楽しもう。そう思いながら歩みを進めていると、水面に浮かぶ1つの影が見えた。人が泳いでいる訳ではなさそうだ。力なく海面に浮遊している。最初は何かしらの漂流物か、偶さかにやって来るイルカかと思った。そこに訪れるイルカたちは何れも人懐っこくて、彼女はもれなく親しき友達となっていた。遭遇頻度の高い個体には、呼び名まで与えている。
彼女は歩行速度を速めた。しかし、近づくにつれて違和を覚え、イルカの来訪じゃないと分かってさらに少し、それがひどく不穏な事象であると気がついた。人が溺れているのだ。顔を海水に浸したままうつぶせ状に浮いている。それを見て彼女は疾駆した。暑さだけでなく、呼吸すらも忘れるくらいに。体温調節の汗と冷や汗が肌の上で混じり合って、それが疾走に依る空気との衝突で身体の表面をいやに冷していく。しかし、対する内側は瞬間湯沸し器のように急激な高熱を帯びていく。その温度差は大洋で暖流と寒流がぶつかり合うことで生じる潮目のように、渦を巻いて泡とさざ波を立たせながら、不気味な音と共に彼女の内を鬩合っている。
彼女は安全と信じきっていた親しみ深い海で、事故が起こるなんて夢にも思ったことがなかった。これまで自身の記憶するところ、その海で人が溺れたなんてことは一切なかったのだ。領内の老齢からも、そんな昔話が聞こえたこともなかった。運が良かったのもあるかもしれないけれど、なにより海辺の町の人々らしい水に対する豊富な知識がその奇跡を成得ていたのだ。その博識たる領民の不慮か、はたまた部外者の不注意か、ここからでは判断のしようがない。
走るしかない。そんなことは後で存分に確かめればいい。とにかくいまは1秒でもはやく救出しなければならない。既に事切れていてるのかも知れないけれど、可能性のある限り向かわなければならない。
もちろん溺水者の命も心配だ。しかし、自身を、いや、領民全員を慰安してきたこの海で、人死になんて起こしたくない。そういった思いも少なからずあった。こう述べると意地の悪い響きに感じるけれど、その思いを誰が否定できようか。僕は力強く肯定したい。実際に100%の行動をしているのだから。善は等しく偽善からはじまるのだ。ただ、こういった部分の揚げ足とりをして他者を攻撃することが、現実では罷り通ってしまっているのだ。
彼女は丘を駆下りる途中で何度もつんのめり転びそうになるが、水泳で鍛えた体幹と足腰でそれを必死に堪えた。それでも水泳衣装の身軽さがなければ、酷い生傷を幾つもつくっていたかもしれない。丘を駆下り地面が砂浜に変わって、砂に足をとられながらも速度を緩めず、その勢いのまま水中に飛込む。海の流れは穏やかで(豪雨や台風でもない限り、この海が荒れることはまずない)、彼女は最低限の抵抗だけを浮けてぐんぐんと進む。邪魔になった靴は水中で器用に脱ぎ捨てて、洗練されたフォームで水を掻き、溺水者を視界に捉えながらぐんぐん進む。その姿はまさに人魚姫、物語のヒロインに相応しい強さと美しさがあった。
溺水者の許へ辿着くと、速やかに状態を確認した。まず溺水者の体勢を変えて、顔を水中から出して上に向かせる。溺水者は男性だった。すぐに首許に触れて脈をみる。心肺は停止しているし、肌も石のように冷たい。
でも、まだ生きている。
彼女は魔法に依る救命活動を開始した。その一聯に併せて、この世界が魔法社会であること、自身が治癒魔法の数少ない適正者であり、その特性を生かして魔法医療を勉強していることが語られる(魔法を用いない一般医療も存在し、それぞれが影響しあって技術が発展していっている)。
彼女はまず海の流れに異常がないことを再確認する。異常無し。溺水者はどうやら、外内湾から流れてきたと考えるのが自然だった。続いて彼女は、溺水者の後頭を右肘で支えた。次いで左手で下顎を持ち上げ気道を確保し、心肺蘇生の魔法を掛ける。赤い光が2人を包むと、魔(法)力によって溺水者の心臓がマッサージされ、空気が口腔へ断続的に流込まれる。無事に魔法が発動したのを認めると、左腕を溺水者の胸に回して、右腕と両足だけを器用に使って岸へ引返す。岸までは凡そ30メートルと少しくらいだ。普段なら訳のない距離だけれど、溺水者の身体を考慮して慎重にゆっくりと進む。
砂浜まで後半分に差掛かる頃、溺水者が水を吐き自発呼吸と鼓動を回復した。彼女はそれを認めると、気道閉塞を防ぐため溺水者の顔を横にして口腔に残る水をある程度除去した。次いでテレパシーの魔法で、屋敷のサーヴァントに応援を頼む。事情を説明し担架と人手とタオルをこちらに寄越すこと、屋敷の客室を用意しておくことを伝えた。
岸に着いて溺水者を引上げると、丘の上から人が降りて来るのが見えた。屋敷の男性サーヴァントが2人。1人が担架を、もう1人がタオルを言いつけた通りに抱えている。彼女は溺水者の自発呼吸と鼓動が復常していることを再確認し、サーヴァントに焦る必要がないことを、またテレパシーで伝えた。そして、溺水者のずぶ濡れの衣服を破き下着だけの状態にした。衣服はところどころ焦げていて、ひどく損壊している(だから尚更破きやすかった)。靴は両足とも履いていなかった。海難事故に遭ったのだろうか、と彼女は推察した。だから尚更、右手中指にはきれいな指輪が填められているのが目立った。でも、救命行為に支障はないので、触れずそのままにしておく。
彼女は身体を温める魔法を掛けた。その間に溺水者の様子と、後回しにしていた容姿を確認する。見覚えのない顔だった。同い齢くらいの男の子。領民ではない。あるいは、領内に越してきたばかりの移住者なのかもしれない。しかし、外内湾から流れてきたとするなら、明らかに前者だろう。このあたりの海流の向きに依って、町から出た漂流物がここに辿着くことはないのだ。
サーヴァントの2人が到着すると、彼女はありがとうの言葉と同時にタオルを受取って、速やかに溺水者の身体を拭いた。その頃には皮膚や唇に色艶が還っていた。余分の水分を拭取れると、更に顔色がよくなったように見えた。彼女は溺水者を担架に乗せる前に、温める魔法を掛けている間に確認した骨折や裂傷や打撲など大小たくさんの怪我を治すために、満を持して治癒の魔法を掛けた。3分ほど魔力を当て続けると、総ての怪我が回復した。傷が塞がり骨はくっついて、炎症も鎮静した。組織の癒着が歪にならないように、急激な副作用がでないように、海中の移動よりも殊更慎重に施した。
施術が完了すると、彼女はサーヴァントの2人に改めて担架での搬送を依頼した。サーヴァントらは委細承知すると、1人が配慮して持ってきていた余りのタオルを彼女に手渡した。彼女は快く受取って身体を拭いた。そして、もう1人は自身の靴を脱いで彼女に差出した。彼女が裸足であることに気がついたからだ。サイズはぶかぶかだけれど、ないよりは幾分ましだ。紐をきつく縛れば脱げることもない。しかし、彼女はその心配りを断った。彼らにはいまから、溺水者を運んでもらわなければいけないのだから。彼女は彼らを納得させると、溺水者を3人掛かりで担架に乗せる。即座にサーヴァントの2人が担架を持上げて、屋敷へ戻る後ろを彼女は無言でついていった。体力魔力共にかなりの疲弊をしていて、この丘を上るのにこれほど苦労したのははじめてだった。2人のペースについていけず、途中で1度立止まってしまった。膝に手をついて、息を大きく吸込む。心配する2人に、止まらずに進んで、と言いながら。空気がまるでマグマの如く熱く重く粘着的に感じた。でも、悪くない気分だった。
屋敷に到着すると2人の説得もあり、溺水者の処置を任せて自身は入浴することにした。着替えを持って浴室に赴き、凡そ縦3メートル横2メートルの石組みの浴槽に、魔法で沸かしたお湯を張る(浴室の壁にレバーがあって、それが上下すると温めた地下水が注口から浴槽に貯まる仕組みだ。普段は薪を燃やしてお湯を沸かし、悪天候時や此度のように急を要する場合は、魔力の籠った魔道具を使用している)。
準備が整うと、水泳衣装を脱いで入浴した。桶でお湯を掬って身体を濡らし、石鹸を泡立てて総身を洗う。洗身を終えると速やかに浴槽に浸かる。これほど身体に染入る入浴は久しぶりだと、彼女は思った。達成感と疲労の健全的な融合。ついついうとうとしてしまう。
入浴を終えて、用意した着替え――つまりはいま着用しているワンピース――を身につけ髪の毛も乾かすと、速やかに靴を履いて浴室を出た。すぐの廊下にサーヴァントの1人が待機していて、溺水者を客室に丁重に寝かせていることを知らせてくれた。彼女は早足で客室へと向かい、その扉を開いた。溺水者は知らせの通りベッドに丁寧に寝かせられていて、サーヴァントのもう1人がベッドの傍らに椅子を置いて座り見守っていた。室内中央のテーブルに付属する2脚の椅子の1つを持ってきたようだ。彼女は2人に、番を変わるので温かい食事を用意するように指示した。そして、2人が部屋を後にするのを見送ると、彼女はベッド脇の椅子に座った。
溺水者の様子を子細に伺う。溺水者の頬には桃色が差して血色がよく、胸を確かに動かしながら呼吸していた。彼女は胸を撫下ろした。
座って暫くすると、強力な睡魔に襲われた。首を数度振って堪えようと試みる。サーヴァントがサイドテーブルに用意してくれていた紅茶を飲んで紛らわせようともする。しかし、遂にはその眠りから逃れることはできなかった。まるで言葉を話しはじめたばかりの子供のように。