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知らない、見たことのない女性だ。深く俯いているうえに、癖とボリュームのある長髪が額に掛かっていて顔がよく見えない。僕から見てやや右の方に傾げている。髪の毛は1本1本が加工された黒曜石のような反映をして煌めいている。その1本ずつ総てに個性があるように見えて、生きているような雰囲気まである。空中の塵はむしろ、そこから放たれた豊かな胞子のようだ。目算で170センチメートルに届くであろうすらりとした肢体に、日焼けとは違った生来的な褐色の肌。どうやら東洋人でないようだ。肌のきめを見る限り20代前半、いや、同年代かもしれない。
彼女の服装はまるでディズニープリンセスの普段着のようだ。窓外の青空と同じコバルトブルーとホワイトを組み合わせたロングワンピースを身につけていて、首周りとウエスト部の両端に白い紐飾りがあってきれいに結んである。清潔で、落着いた上品さがある。揃えた足の膝の上に両手を乗せている仕草も、そのワンピースととてもよく調和している。靴はライトブラウンの革のサンダルで、幾何学模様の穴が無数に空いて通気性の面でとても楽そうだ。そこから覗く足は難解だけれど蠱惑的な暗号のようで、僕をまた別のどこかへ誘おうとしているように思えた。そこはこの部屋と変わらないくらいに、奇妙で完結的な場所なのだろう。
不思議だ。初対面の女性に対して、魅了を具体的に言語化したのははじめてのことかもしれない。僕は元来、一目惚れやそれに類する慕情を抱く質ではないのだ。外形的に魅力的な人が視界に入っても、熱い空気の塊のような思いがその間心を圧迫するだけ。それをすぐさま言葉に置換えようとは考えないのだ。それを求愛のモチベーションとすることも(そもそも、求愛や告白などを、実際に行動に移したことはないのだけれど)。
もしかすると、失われた記憶のなかで彼女とは既知の間柄になっていて、ただならぬ親交まで生まれているのかもしれない。記憶ではなく、身体に刻込まれた好意の表れなのかもしれない。かててくわえて、何かしらの精神的変革もあって、それは世俗的に見て良い方向に進んでいるのかもしれない。その担い手こそが、彼女なのかもしれない。友情か尊敬か、それともそれ以上の気持ちなのか。ただ、それは数年単位の時間が積重なってのことであるべきだ。さすれば、人生は思いもよらないものだと個人的に納得できる。物語的だと噛み砕くことができる。しかし、それがたかだか数ヵ月ぽっちの出来事であったならば、節操なしと自身を厳しく誹議してやりたい。都合がよすぎる。たとえ、友情や尊敬の類いであったとしてもだ。
いや、僕自身が一目惚れをするような、ある種の軽薄短小な男に変節している可能性もある。彼女は幾つかの要因が重なって、偶さかに居合わせただけの他人に過ぎないのだ。
そうさ、いまさら僕が他者の性愛を欲するなんて、筋違いも甚だしい。恐らくはちょっとした外出中に、僕は何かしらの衝撃を頭部に受けて気を失っただけなのだ。そこを通りすがった彼女が介抱してくれた訳だ。いや、もしかすると、彼女がその衝撃の動因であるのかもしれない。彼女と階段で接触し僕が下に落っこちてしまったとか、彼女が高所から物を落としてしまいそれが僕の脳天に直撃しただとか。その方がこの部屋にいる理由として実にナチュラルだ。記憶の欠落にも説明をつけらる。赤の他人なんかが、僕のために付添ってくれるはずがないのだ。
その何れかを確かめるためには、彼女に尋ねるよりほかはない。ただ、彼女の小熊のような微睡みを妨げてることが、許されるものだとも思えない。気持ちよさそうに眠っているのもあるけれど、これが実際に後者、ただの他人であった場合、下手をするとセクシュアル・ハラスメントにだってなりかねない。その烙印を押されるのだけは、死んでも御免だ。
結局のところ、このまま待っているのが1番いいのだろう。いや、でも……。
ギシッ
糸を纏める蜘蛛のように手を拱いていると、控えめな軋みが聞こえた。椅子の脚が床と擦れる音だ。彼女の身体がビクッとこわばったのだ。僕は息が止まってしまう。ふぃっ、と不意にしゃっくりのような音を出してしまった。
「うん……」彼女はまるで機械の起動の合図みたいに、音を乗せた吐息を漏らした。そして、ゆっくりと顔を上げて、髪の毛を手で横に流した。顔に窓からの陽光が触れる。「――よかった。目覚められたのですね」
アリエルグリーンの大きな瞳が僕を捉える。まるで僕の顔に書かれている何かしらの文章を読取ろうとするみたいに。それに感応するように僕の目も、紙風船が膨らむみたいに開け放たれる。彼女に釘付けになってしまう。
すらりと伸びた高い鼻、きりっと引締まった眉毛、長い睫毛、健康的な厚めの唇、地面に蹲るうさぎのような耳、右の耳たぶに刻まれた2つの黒子。
僕は、彼女から目が離せない。まるで地球の美しさに魅せられている月のように。口もあんぐりと、下顎が急激に重量を増したかのように開かれてしまう。心臓があまりの衝撃に、痙攣を来して止まってしまいそうだ。
僕は彼女を知っている。記憶が戻った訳ではない、そもそも、最初から失われてなどいなかった。僕は何も変わってなどいなかったのだ。
「s」
僕は彼女の名を口にしそうになり、咄嗟に音を引っ込めた。
「だ、大丈夫ですか?」
僕の反応に、彼女は心配のポーズを見せる。そのはてしない物語のような優しい声音と表情に、僕は涙が出そうになる。僕はそれを必死に堪える。欠伸を我慢するみたいに身体を震わせながら。
彼女の名は、『サラ・ベニーニ』。僕の愛した小説、『レオン』のヒロイン、その人だ。彼女が、僕のすぐ目の前にいるのだ。
彼女は小説のイラストそのままの、謂わば平面的造形のままでそこに存在している訳ではない。アメリカ映画の『スペース・ジャム』によろしく、2Dキャラクターがそのままの象で空間を動作している訳ではない。宛らそれは現実的に変換されているといった具合だ。肌や髪の毛や瞳には生身としての実感と奥行きがあり、何より目の大きさに特有の誇張がない。情報に満ちて空間にも受入れられた、生きた人間として目の前に在るのだ。
何故小説のキャラクターが現実的に変換されているという結論に速やかに至れるのか、それは僕の感受性に係る領分であり、論理的な説明ができる訳ではない。表現を借受けるなら、魂がそう囁いている、となるのだろうか。僕の内側で僕自身の声が、彼女はサラ・ベニーニ本人であると告げているのである。まるでブラックミュージックのコーラスのように、何度も何度も、しつこいくらいに。そこに疑いを挟む余地なんてないのだ。月は地球の周りを回り、地球は太陽の周りを回る。
「こ、ここは……?」
僕は、この状況に最も相応しい台詞を口にする。
「あなたはすぐそこの海に、ボロボロの状態で浮いていたんです。ほんとうにびっくりしましたよ。服も焦げていましたし、酷い怪我もしていました。……いったい、何があったのですか?」
彼女は言葉を適度に区切りながら、ゆっくりとした声調で質問した。
彼女の言葉を聞いて、なるほどな、と僕は心の中で呟いた。