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☆☆☆☆☆
――――知らない天井だ。
この台詞を実際に思い浮かべるのは、これで2度目である。
確か、僕は自室にいて、ある小説を手にしょげていた。そこに記された滅亡的な総括にひどく失望していたのだ。すると、出抜に可愛らしい声に名前を呼ばれて、立続けに閃光に包まれた。併せて、突如として床が抜けたような浮遊感。意識も回路が焼切れたみたいに――あるいは、その閃光の知覚困難なまでに瞬間発生的な熱の作用に依って――消失し、気がつくと見知らぬ天井を見上げている。
訳が分からない。いったい全体、何がどうなっているんだ? 合点のいかないことばかり、のべつまくなしに起こっている。もはやある種の災害といって差支えない。僕の半径2メートルほどに係る局所的な厄災。ただ、火急な生命の危機はないようだ。僕の身体はふかふかと弾力のあるものに沈込んでいるみたいで、それはベッドで横たわっていることを意味している。丁寧に薄めの掛布団まで被せてもらっているようだし、深刻な面持ちの医療従事者が傍に待機している訳でもない。僕は鼻から薄く息を吐いた。
僕は状況の把握を続ける。散り散りになりそうな自身の感覚を寄り集めて、眉間に熱が溜まるくらいに、じりじりと火傷しそうなほどに専心する。
身体が痺れたみたいに、数日間眠り続けた直後のように動かせない(実際のところ、その可能性が1番高そうだ)。視野も著しく狭窄している。ほとんど真正面しか見えない。視界の隅が霞みががったようにぼやけている。急性の緑内障、とはまた違うようだ。自身の身体について、現状分かることはそれだけだ。
とりあえずはまっすぐ、天井を観察する。じっと見つめていると慮外な気持ちになった。甚く感心してしまったのだ。
天井は自室と同じ白なのだけれど、そこにはまるで澱みというものがない。傷や凹凸も見当たらない。深山の湧き水のように澄んでいる。ただ、それは新築であったり改装直後であったり、所謂フレッシュな意味合いではない。そこには確かな歴史と聯続性が感じられるのだ。湧水を受止める溜まりも含めた形象。鍋をじっくりと時計回りに掻混ぜるみたいに、凝縮された時間の馨しい匂いまでするようだ。
きっと、腕っこきのプロフェッショナルに依って清掃管理されているのだろう。僕の部屋の、湿気たポテトチップスみたいな有様とは雲泥万里だ。叶うことならそのプロフェッショナルに、僕の心を蝕むあれやこれの除染も依頼したいところだ。訳の分からない化学物質を用いるよりは、遥かに身体によいことだろう。
かててくわえて、高さも違う。自室の天井は平均的な身長で運動能力の――つまり僕のような――男性が跳躍して、容易に指の腹を押当てられるくらいの高さしかない。しかし、この天井でそれは到底不可能だ。ベッドの高さが極端に低かったり、床に埋め込まれているよう奇抜な設計、もしくは、床に直截マットレスを置いてあるような状態でなければ。まぁ、横になったままでは精確なことはいえないけれど、恐らくは余裕をもってダンクシュートを決められるくらいの人でないと、触れることすらままならない。それほどまでに高い。少なくとも、子供部屋のそれではない。
やはり、僕はいま医療機関に収容されている、とみるべきなのだろうか。ただ、少なくとも掛かりつけの医院でないことは明白だ。既視感がまるでない。一般的な医療施設にしては清掃が行届き過ぎているような気もするし、薬品の独特の匂いもしない(嗅覚が正常だという確証もないのだけれど)。しかし、そういう配慮最優先の施設も、最近はそれなりにあるのかもしれない。
自室で卒倒した時、相当の音量と振動が階下の母のところまで伝わったはずだ。母は大慌てで駆けつけその異状を目の当たりにし救急車を要請、迅速に救急病院に担込まれ治療を受けた。結局のところ命に別状はないということで、目覚めてから改めて異常がないことを確認するまでの入院。そのようなシナリオなのだろう。現在の時刻は分からないけれど、両親も何らかの理由で席を外しているのだ。あの声も閃光も、総ては何かしらの幻覚に相違ない。
速やかにその推理の答合わせをしたいのだけれど、僕は未だ自身の肉体を満足に動かせない。眼球や首、口と眉、手足に体幹、つまりは目蓋以外ピクリとも動かないのだ。深呼吸もできない。規則的な細く浅い呼吸のみだ。まるで僕の身体に透明の膜がぴったりと張りついているみたいだ。
その継続的な閉塞感は、安堵や感心が元来保持している形体と温かみを失わせて、亀裂を生じさせて粉砕する。それらの残骸が観念的な堆肥となって、焦燥と恐慌の芽が息吹く。
ジブリ映画みたいな大粒の汗が、僕の体表をつつーっと滴っていく。その汗が通過した部分は普段以上に、まるで刃物で切りつけたように凍えていく。体内時計も螺子がぶっ飛んだみたいに狂ってしまう。時間の無情な相対性について、体罰の如く身を以って思知らされてしまう。目覚めてからものの数分しか経過していないような気もするし、既に数時間もこのままな気さえする。あまつさえ時間が巻戻ったりはたまた加減速しているようにまで感じられる。まるで車軸と車輪のひん曲がった馬車のようだ。もはや統御不能、最悪な気分だ。時間の価値がブラックサーズデイも真っ青な暴落をみせている。せめて異常事態と認識した時から、数でも数えておくべきだと後悔した。気休めにしかならないけれど、これから数えはじめることにする。1秒の感覚だけでもとり戻したい。
しかし、手遅れだ。芽吹いた焦燥と恐慌は明確な形体を持たず、凹みに溜まって沼のようになる。それは観念的な底無し沼であり、僕は腰のあたりまでどっぷりと嵌まってしまっていた。
数時間か数日の昏睡説ははやくも瓦解する。そもそも、いま見上げている秩序的な天井も、夢裡のまやかしなのかもしれない。僕の救済願望に依ったメタファーの反映なのだろう。本当の僕はいま頃甚大な疾患、ないし、事件事故に巻込まれて、硬いベッドの上で幾つもの細い管に繋がれた状態でいるのかもしれない。僕が辛うじて生きていることは機械が音と波形で健気に主張していて、その隣で両親も涙を流している。いや、もしかすると、未だそこまで辿着いていないのかもしれない。けたたましいサイレンと共に信号の指示を摺抜ける救急車に揺られながら、受入れ先の病院を探している最中なのかもしれない。そして、幾つもの院に断られて、母が傍らで声を枯らすほどに慟哭している。
もういい、たくさんだ。それが答だというのなら、そのまま僕を捨置いてくれ。いっそ通りすがりの川や海にでも投入れてしまって欲しい。もう2度と自身に係ることで両親に実際の涙は流させない、それだけは堅持すると決めていたのに。
それに、たとえ此度を乗り越えられたとしても、また同様の騒動を起こすかもしれない。いや、必ず起こす。逃れることはできない。それが僕の宿命なのだ。オイディプスの神託のように。それなら、もういっそ引導を渡してくれ。両親を僕から解放してやってくれ。
僕はこのまま底無し沼に沈んでしまいたい。風に煽られる蝋燭の火のように消え去ってしまいたい。沼の奥底からやってくる負の引力に僕は逆らわない。むしろ彼ら自身がアメーバ運動のように、蠢くように上昇して僕を迎入れていく。僕の実存と魂を貪食していく。僕にはもう、そこから抜出せるだけの力も、意志も、残っていない。
300をカウントした時だった。数えるのを止めてしまおう、考えることも止めよう、と思った。すると、まるでそれが解除のキーであったみたいに意識が速やかに鮮明になり、身体に力が戻ってきた。
身体の末端、指先や頭頂にまで温かい血の通う感覚。視野も復常し、眼球運動も解放された。すると、同じ白と括っていた天井の材質が自室と違うことが分かる。自室は一般的なクロスだったけれど、ここは漆喰のようだ。
視界の端、左斜め下の方に白以外の色と像が見える。黄金色のシャンデリアだ。真鍮を塗装しているのか、あるいは、本物の金を使用しているのか、ここからではよく分からない。そもそも、僕は照明に関する知識も鑑識眼も特別に持合わせていない。ただし、よく磨込まれていることは分かる。ディズニー映画に出てくるような流麗な細工も施されている。それは力を誇示するための野心を微塵も感じさせない、溢出る幼い想像力の一欠片のように繊細なものだ。僕の嗜好にも吻合する。
シャンデリアの蝋燭は灯っていない。いや、精確に述べるなら、蝋燭自体が設置されていない。しかし、部屋はとても明るい。いまは日中で、大きな窓からとり込んだ自然光で満たされているのだ。温もりのある優しい光。蝋燭も、いまは清掃の直後で外されているのかもしれない。
深い呼吸もできるようになった。僕は身体を軽く捩ったり手足の指を握緊めたりして、身体機能を確かめた。総てが無事に動作してくれた。いっそ飛起きたいのだけれど、まずは小さな動作から慣らしていく。焦ってはいけない。そうやって暫し蠢いて、僕は自身がベッドで横になっていることを確定させた。それは簡易的でもなければ、医療的な機能性を備えたものでもない、ごくふつうながら上質なベッドだ。クイーンサイズもありそうなスケールで、このまま自室に持ち去ってしまいたいくらいだ。それだけで部屋がいっぱいになってしまいそうだけれど、僕にとってはその方がよいかもしれない。
ここは病院ではない。ベッドもそうだけれど、一般人の病室にシャンデリアを吊るす医療機関なんて聞いたことがない。少なくとも日本国内では。実に奇妙だ、僕にマニアや富裕層の親戚知己なんていないし、たとえいるにしても、いきなりこのような状況に置かれる説明としてあまりに不十分だ。
ホテルか? 僕はいま、伝統的な洋館を改修、もしくは、そのスタイルを模したホテルに宿泊しているのだろうか? だとすると日帰りか、それとも日数を掛けた本格的なものか。名湯か繁華街が附近にあるのか、大自然の絶景に含まれているのか。国内か、はたまた国外か。
僕の記憶する限り、旅行の予定なんてまったく立てていなかった。家族でも、もちろん個人的にも。希望する声も、他者から勧められた話も聞かない。両親が僕の秘密裏に計画していた、とも考え難い。良くも悪くも、僕がサプライズを好まないことを、両親は甚く承知している。現在はあの意識消失からそれなりの未来であり、その事象の延長線上として、あるいは、また別の所為に依って、記憶が抜落ちてしまったということか。
ともすると、少なく見積もっても数ヶ月、さらには数年単位で記憶を失くしている可能性も十分だ。学生の僕が独り旅で、シャンデリアや上質なベッドの置かれた部屋に泊まれるはずがない。つまり、旅行なら両親に連れられて来ているはずなのだ。忙しい父がスケジュールを調整するだけで数ヶ月は要する。そのうえ、ここが国外であるならば、僕と母のパスポート所得の手間も発生する。
いや、最悪のケースとして十数年、ないし、数十年と経過していることだって有得るのだ。それは世界の終わりに独りとり残されるような恐怖だ。後々にもし、その失われた数十年が一遍に僕のもとに回帰した時、僕は正気なんて保っていられない。大切な人たちとの時間がディスクのチャプタースキップのように過ぎ去ってしまっていて、僕の孤独は一瞬で完璧へと近接しているのだ。断崖の底から上ってくる湿り気を帯びた分厚い風、地団駄のように荒狂う波浪とその鳴動。僕は平穏な野原から、そんな情景へと瞬時にテレポートしてきたのだ。
僕の希む孤独も結局のところ、集団の中における不完全なエゴであることを再認識する。
淡い暗闇の中に朧気な輪郭が幾つか浮かんでいるけれど、その正体を見極めようと近づくと途端に象を解いてしまう。煙に触れようとすると離散するみたいに。そして、距離を取って一定の時間が経つと、また輪郭が形成される。観念だけが存在する、無明の辺境。それこそが、僕にとって都合のよい孤独だ。
しかし、完璧な孤独には、本当に何もない。強いてあるといえるのは、記憶だけだ。
僕は自身の頬に右手を置く。毎朝髭を剃る時に触れているのだから、急激な加齢の感触があれば読取れるはずだ。……よかった、いつも通りの瑞々しい皮膚だ。皺や表皮のこわばりとは未だ無縁のティーンエイジのもの、僕の思春期は僕の断りなしに失われた訳ではない。数ヶ月から悪くて1,2年の喪失で間違いない。ダメージは比較的軽微だ。
いや、僕はいったい何をしているのだろうか。起上がってあたりを確認すれば済む話ではないか。既に僕の身体は悲劇的な不自由から解放されているし、痛みも息苦しさもない。
いや、だからこそか。現在の解放感がホラー作品によくある絶望の前の沈黙、嵐の前の静けさ的要素をどうしても聯想してしまうのだ。そうさ、ここが病院だろうがホテルだろうが、僕はいま何かしらの怪異に巻込まれているのだ。きっとあの声を聞いたあの時から。そして、僕は再び奪い去られようとしている。僕の両足首から下は未だ底無し沼に浸っているのだ。動けばまた引きずり込まれる。今度はもう2度と、陽光を浴びることはできないだろう。
しかし、いつまでもこうしているわけにもいかない。ここには他者も物語もない、完璧な孤独しかないのだ。僕はそれを希んでいないことを、いま沁々と理解できた。結局のところ、僕は動きはじめる選択肢しかないのだ。それもいい、フィフティフィフティだ。この怪異が思いのほか良心的な事象だったなら、僕はまた不完全な孤独に回帰することができるかもしれないし、完全な悪意だったなら、その時は舌を噛切ればいい。それくらいの勇気は、僕にも未だ残っているはずだ。
僕は掛布団の端を持ち捲りながら、慎重に上体を起こした。僕は正常に身体が動作したことに再び安堵する。もう身体上の憂慮はない。僕は唾と一緒に覚悟も呑込んで、子細に部屋を見渡す。
広い部屋だ。15畳くらい、いやそれ以上だろうか。比率は正方形に近く、家具も余分に配置しないゆとりのある空間だ。白の天井と壁、ダークブラウンの板張りの床、ミントグリーンの巾木。ベッドは読み通りのクイーンサイズで、壁に横づけされている。その傍らに、木製で床と同じダークブラウンのサイドテーブルがある。その卓上にはランプとティーポットと2つのカップがある。カップの中はどちらも空だが(一方には注いで飲干した形跡がある)、ポットに紅茶が入っていることが匂いで分かる(それが時間のよい香りの正体だった)。壁には小さな油絵が四方で合計5つ飾られている。何れも風景画で、山と川と港と草原と街がそれぞれ描かれている。悉く印象的で、近世以前のヨーロッパ的風景だ。美術館や西洋絵画展でよく見るモチーフ。電灯やネオンや車のヘッドライトといった、いわゆる電力的機械とその事象がどこにも描かれていない。しかし、描かれてからそれほどの年月も経っていないように見受けられる。時間のもたらす色褪せが僅少、フレッシュだ。何かしらの参考資料でも見たのか、もとある作品の模写だろうか。油絵は何れも丁寧なタッチで、とても好感がもてる。同じ作者が描いたようだ。まるでモネ、いや、あの小説のイラストみたいだ。アプローチも近似している気がする。
僕から見て正面の壁際に、黒のアップライトピアノがある。上部に白いカバーを掛けて、その上に小さな丸鏡が置かれている。左側の壁(ベッドの頭側)に大きなクローゼットと扉がある。クローゼットはこれまたダークブラウンで、扉は巾木と同じミントグリーン。どちらも装飾は控えめだ。この部屋に驕奢な調度品は1つとしてない。部屋の中央には木製のダークブラウンのサークルテーブルと椅子が一脚ある。シンプルで特別な細工はない。そのテーブルの下に小さな赤い幾何学模様のカーペットがある。卓上には花瓶が置かれ、紫の花を咲かせている。種類は分からない。見たことのない花だ。右側の壁には大きなはきだし窓がある。横長で、奥にはバルコニーが見える。窓枠とバルコニーはこれまたミントグリーン。いまは開き放たれていて、そこからカラヴァッチョが描いたような陽光と澄んだ空気をふんだんにとり入れている。奥にはコバルトブルーの空に薄い雲が疎らに浮かんでいるのが見える。室内に浮遊する無数の塵が陽光を受けて、まるで生きているかのように煌めき揺らめいている。彼らは人間活動の被害者ではなく、生活的主体としてそこに在るみたいだ。カーテンはクリーム色で、窓の両端に躾られた大型犬のように行儀よくまとめられている。いまにも気持ちよく鳴きそうだ。わんわん。
まるで予算の潤沢な海外ドラマのセットみたいな部屋だ。
やはり知らない場所だ。知らないはずなのだけれど、拭いきれないデジャヴの感覚もある。いや、他者の記憶の残像が、そこに重複しているようなイメージが浮かぶ。霊的な感触、とも言換えられそうだ。
そして、その奇妙で完結的な部屋の中に、僕ともう1人の人物がいる。ベッドの傍ら僕のすぐ側で、椅子に腰掛けた女性が、こくこくと微睡んでいるのだ。