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 ☆


 しかし、私の思い描いてたようにはなりませんでした。彼は中学の軟式野球部に所属していて、公立では地域で1番強いチームでした。練習時間も長く、土日も練習や試合で埋まり、学校の休み時間も野球部で集まって過ごしていました。もちろん、廊下ですれ違ったりしたら声をかけてくれましたし、邪険に扱われることもありませんでした。決定的な原因は別にありました。所謂、恋のライバルがいたのです。

 彼女の名前は理恵(りえ) パークス。イタリア系アメリカ人を父に持つハーフでした。彼とはクラスメイトで、その上吹奏楽部でトランペットを操るエース的存在、そして、美しい容姿を持っていました。短いけれどしっかりと手入れのされたつるつるの明るい茶髪、大きな目と小さい顔、細く通った鼻筋を持っていました。男の子なら誰もが振り返るような美人です。それは彼も例外ではありませんでした。彼が彼女を見る時の視線は、小学校時代に私の母を見た時と同質のものでした。だから余計に、私を見る時の彼の友好的な視線を痛いと感じるようになってしまいました。そのうえ、学校で私が彼と話をしているのを目撃した彼女の視線は熾烈でした。そこには明らかな嫉妬の感情が読み取れたのです。彼女も彼に恋をしている。火を見るより明らかでした。しかし、彼は野球部を引退するまで彼女を作る気はないようでした。

 私の心は深い井戸の底に閉じ込められたようでした。彼は私を友達としかみていない、それは私の行動がもたらしてきた結果でもあるわけですし、彼女が私に向ける嫉妬の眼差しは、私がこれまで何度もお母さんに向けてきたものでもあるからです。もちろん、私に嫉妬の眼差しを向ける女の子は彼女だけではありません。大なり小なりいろんな女の子から向けられました。その中でも、やっぱり彼女のものは特別でした。学校で1番きれいと称えられる女の子が向けてくるそれは、大袈裟ではなく暴力と言えるくらいの代物でした。でも、私にはそのどれも非難する資格はないのです。

 彼との会話はどんどんとぎこちないものになっていきました。それでも彼は変わらず私に声をかけてくれました。その心配りが有り難くて、同時に痛くて、手放したくないものでした。


 私は彼の所属する野球部の応援に度々足を運びました。さっきも言ったように彼の野球部は強く、大会になると地方球場で開催されるところまではよく進出していました。私は観客席に座り、彼だけを見つめていました。純粋に野球をしている時の彼の姿だけが、私に痛みを与えない彼になっていたのです。彼も私の存在によく気づいてくれて、アイコンタクトをしてくれました。私はそれに控えめに手を振るだけでした。


 その心地のよい距離感も、ついに終わるときが来ました。私は中学2年生になり、彼が中学3年生になった夏休み。彼の最後の夏大です。彼の野球部は県大会を突破し地区大会まで進みました。彼女の吹奏楽部も応援に駆けつけ、皆が全国大会への出場を願っていました。私ももちろん応援に駆けつけました。しかし、願いも虚しく、彼のチームは敗けてしまいました。彼のエラーで試合が決まってしまったのです(彼はサードを守っていました)。キャプテンにもなっていた彼の悲しみは、チームメイトの中でも特別に強いものでした。その日の夜、家の近くの公園で1人塞ぎ込んでいる彼を見かけました。私は公園の入り口近くでその彼を見つめていました。大きな生垣に身を隠しながら。彼は気づきません。私は彼を抱き締め、優しい言葉をかけてあげたいと思いました。彼が私をいじめから救ってくれたことの、恩返しの1つになるとも考えました。そして、もう1つ思うことがありました。弱っている彼に私の体を密着させたら、彼が私を友達以上に思ってくれるかもしれない。そういった邪な願望もあったのです。

 自分で言うのもなんですが、私は周囲と比べて発育がいい方であるらしく、男の子からそういう性的な視線を向けられることが増えていました(私が唯一彼女と、加えて母に対して、外見的に勝っている部分でもあったのです)。彼からはこれまで、そういった視線を感じたことはありませんでした。しかし、私の女性を彼に認めてもらうためには、この際私からそれを印象づけるべきなのではないかと思いました。私の乳房の感触で彼を振り向かせたい、そして、彼が求めるならそれ以上のことだって……。


 結局、私はそれを実行することはできませんでした。私は彼に対して1歩も踏み出すことはできず、項垂れる彼を放って家に帰ってしまいました。

 彼に彼女ができたと聞こえてきたのは2学期の始業式の日、登校した直後でした。もちろん、相手は理恵 パークスです。学校中の噂になっていました。「やっとあの2人がくっついた」って。彼女は彼が部活を引退してからの残りの夏休み期間中に彼を呼び出して、正々堂々と告白したようです。私とは大違いです。

 始業式を終えて、彼は学校で私を見かけても話しかけてはくれませんでした。しかし、彼は通学路で私を見つけて声をかけてくれました。「ごめんね。彼女ができたから、もう以前のように話すことはできないんだ」と彼は言いました。彼のそういう誠実なところが、私は一番好きでした。私は彼に対して、「おめでとうございます。とてもお似合いの方だと思いますよ」としか言えませんでした。私はいつまでも行動に移さなかったことを後悔するのと同時に、女性としての評価を永遠に保留されたことによる安堵も感じていました。


 春になり、彼は県外の野球部の強豪校へ進学しました。特待生に選ばれたとのことです。彼女も彼と一緒の高校の特進コースに進みました。彼は寮生活、彼女は下宿生活。私だけがとり残されました。


 彼が私の前からほぼ完全に姿を消して、それでも彼との思い出のある野球や音楽に触れ続ける中で、私は気づいてしまったのです。自分の体を使って弱っていた彼を誘惑しようとした私と、私をいじめてきた女の子たちの根っこが一緒であるということに。「記号的な愛される」を武器として振り回して相手に叩きつける行為の愚かさを、私は我が事として思い知ってしまったのです。それから私は深い自己嫌悪に陥りました。家族からいじめの再発を心配されるほどに。私は家族に、「受験の憂鬱のせいだ」と嘘をつきました。でもお兄ちゃんだけは、私のそれが失恋に端を発したものだと分かっていたようでした。まぁ、それもある意味当然でした。私のお兄ちゃんは、私よりもずっと苦しい想いを何度もしてきたのですから。肌の色とも違う、目には見えないまた別の事柄によって。


 また、夏がやってきました。私は中学では美術部に属していて、夏休み明けにあるコンクールに提出する油絵を描いていました。春先から体調が優れないことを理由にして活動から離れていたので、久しぶりに筆を持ちました。そこで気づきました。心が軽くなっていくことに。私の中のどろどろやもやもやが、目の前の絵に移っていくのを感じました。そして、思い至りました。そのどろどろやもやもやを全て作品に変えて私の中から独立させようと。それは1枚や2枚の絵では到底足りない。物語にしないといけない。私はコンクール用の絵を完成させると、すぐに作業に取りかかりました。私はまず、『はてしない物語』をもう1度読み直しました。他のこれまでみてきた小説や映画も見直しましたし、あらためて過去の体験や記憶も掘り起こしました。それらをベースに設定を考えて、キャラクターデザインを決めて、文章を書き、印象的なシーンをイラストに起こしました。

 その作業を自室で1週間続けた頃、お兄ちゃんに見つかってしまいました。私は執筆作業の夜更かしで机に突っ伏したまま眠ってしまい、いつもの時間に起きてこない私を心配したお兄ちゃんが見にきてくれたのです。お兄ちゃんは私の部屋のドアをノックして、驚いた私は椅子から滑って床に尻餅をついてしまいました。きゃあ、とはしたない声もあげてしまいました。しかも私は部屋の鍵を閉め忘れていたらしく、「大丈夫か!?」とお兄ちゃんがそのまま入ってきてしまいました。そういう経緯で、お兄ちゃんに見られてしまいました。コピー用紙に水彩色鉛筆で書いた大量のイラストと、パソコンの画面に映る私の小説を。

 ただ、私はツいていました。お兄ちゃんはとても優しい人で、そのうえ小説の編集の仕事をしているのです。お兄ちゃんは私にいろんなアドバイスをしてくれました。それまで散漫としていた私のイメージが、ぎゅっとかたちになっていくのを感じました。


 そして、私は自分の試みがうまくいくことを確信したのです。自分の中にある『有害な女性性』をとり除くこと。それを達成して、はじめて私の心は救われるのです。




 ○





 ヴィジョンは中学の2から3年生に掛けて、烈しく揺動く遥ちゃんの情景を()()()()()までに描写した。そして、「有害な女性性」からの脱却を決意した遥ちゃんが、自室でパソコンに映った自身の文章を見据える場面で暗転した。いま、何もない真っ暗な空間に、僕だけが在る。




 やれやれ、と僕は()()口にしてしまう。そこからやってくる肩が大きく沈むほどの溜息を、糸を紡ぐように細める。僕の内に滞留する高質量高粘性の流動体を、丹念に損なわせないように気化させていく。時間を惜しげもなく使用して、軽量で透通った気体へと変換する。僕の身体は、そのための濾過・清浄装置だ。時間はただの観念に還る。ただただ只管に無心になる。意味は後からついてくる。まずは象るのだ、道標を。天国への階段みたいな、僕と遥ちゃんの心を繋ぐ一筋の線。



 そう、それこそが祈りだ。我々が等しく内包する観念的なタイムマシン。過去・現在・未来、何処であろろうと誰であっても、瞬時に結びつくことができる。見返りも血も、何も差出す必要がなく。

 勿論、客観的にそれは一方的で内的な試みに過ぎない。直截に何かを知らせたり、与え与えられることもない。その本質は見据えることにある。まっすぐに想うことにある。爪先を向ける方向のことだ。対象を直線上に置くことだ。そして、歩出すということ。手を合わせることも目を瞑ることも文を読上げることも、あるいは、書出すことも絵を描くことも演じることも、総ては次元的手続きの体系・簡略化なのだ。



 踵が浮きそうになったところで、僕はまた時間を手繰り寄せた。そして、自身の臍あたりに視線を落とす。慣れた部屋着と、貧弱な肢体と肌の色。しかし、右手にはあの剣がある。自らの意志とは独立するようにぎゅっと握り込まれていて、手の甲に僅かに浮かぶ筋が、剣を除いた唯一の見慣れないものだった。自分にばかり掌を向けていた、此頃の僕にとっては。


 やれやれ、今度は心の内に呟いた。僕と遥ちゃんが、まさかこれほどまでに似ていようとは。なるほど、彼女'たちが僕にこそ拘った理由が、完璧に腑に落ちた。僕と遥ちゃんは、等質の歴史を歩んできたのだ。性別という要素によって、表面的な出来事・事件に差異が現れただけで、根本はまるで同じなのだ。成長、ないし、性徴に依って、自身の幼心(おさなごころ)が穢されてしまったと解釈している。その気づきは内外の構造的な暴力に依ってもたらされて、総じて有害と断定した。そして、その毒をとり除くための行動を起こして、手酷い竹箆返しを食らった。幼心自体を致命的に損なわせてしまったのだ。

 けれど、その認識は誤りだった。幼心は穢れても損なわれてもいない。いまでも美しい色と象を、自身の内奥に保存しているのだ。ただそこへ至る道を、見失ってしまっているだけなのだ。性という強烈な光に依って。目もまともに開けていられないほどのそれは、むしろ暗黒の内に我々を堕とす。本来の機能不全だ。推量るにその暴走・過剰反応は、知性と文明と快楽の内省なき進歩から生じたエラーなのだ。我々はその症状に具体的な治療法を確立できていない。いや、本当は分かりきっているのだ。進歩を止めればいいだけだ。文明を捨てればいい。人類自体が幼心へと還るのだ。しかし、未だそのタイミングではない。歴史と独裁者たちが証明している。個人的な試みならいざ知らず、種としてそれを行うには、我々はあまりにも時期尚早だ。もっと苦しまなければならない、血を流さないといけない。試煉は延々と続いていく。


 だからこそ、我々には物語があるのだ。


 一時的でささやかな、強力な光の制御装置。個人的な試みの補助機構。それが物語だ。そう、物語そのものも、また祈りなのだ。そして、その祈りを、自身に適した象で固定させること。それこそが創り手の特権なのだ。彼女'たちの存在定義なのだ。


 遥ちゃん、君はその用途を誤ってしまったんだね。自身の内にエデンを見出すことではなく、とり除くことに彼女'たちを消費してしまった。それは罪だと思う。その罰を、君は自分の自室でいまも受止めているんだね。いつ終わるとも分からない痛みを。自身の幼心との再会なんて、もう果たせないかもしれない。


 だから、僕が代わって、君の幼心と会いにいく。君が物語を通して僕の幼心の色と象を教えてくれたように、僕も君に伝えに還ってくる。その旅路までも詳細に、君に語り聞かせよう。君が彼女を通して僕に新しい名前を与えてくれたように、ありのまま素直に評価しよう。そして、共にその道程を遡ろう。それがそのまま、自分を赦すということになる。総てはそこからだ。ここからがはじまりなのだ。僕たちは自室から、自らの足で外へと歩出すのだ。僕たちを待ってくれている、大切な人たちの許へと。



 そのためにも、僕は彼女の許に戻らないといけない。僕自身の魔法と、そして、答を携えて。



 握締める剣はよりいっそう熱を帯びて、ついに黄金色に発光しはじめた。かててくわえて、頭上から僅かな光が降りてくるのを認めた。見上げると、何もないはずだった空間に白い亀裂が入っている。それはどんどんと広がって、不規則な模様を描出した。いや、あるいは、それは歪な魔法陣みたいだ。

 僕は即時に直観した、自身がまず何をするべきかを。

 僕は直上に剣を掲げる。刃先を垂直に、亀裂の中央へ据える。そして、細く息を吸込み、叫んだ。



「光よぉぉぉおおおおおおおおおおおお!!!!!」

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