3
「見えました!」
彼女が快活に、前方のやや下を指差して言った。
砂浜からざっと、山の麓に向かって15分くらい歩いただろうか。この辺りの丘の1番高いところまで来ると、下った先に大きな川の流れが見えた。そこには木造の橋が架かっていて、渡った先に町が形成されている。目的の1つ目、山側の町だ。木造の大小の建物(大きくても3階建て相当)が建並び、橋からそのまま伸びたメインストリートがその中央を突っ切っている。人口規模は凡そ500人といったところだろう。町を囲うように町以上の面積の麦・野菜畑が広がっている。川の少し下ったところに船着場があって、そこで海側の町と人や物資のやりとりが行われているようだ。
「きれいな町だ」
僕は素直な感想を溢した。
「ええ、まったくです」と彼女は応えた。「はやく行きましょう」
彼女にせっつかれて、僕たちは早足で丘を下った。
橋の前まで来ると、手前に木製の看板が設置されていた。僕はそこに書かれている文字を読み上げる(この物語ではアルファベットをベースに少し崩したような文字が使用されている。ただし、ここでは現実のアルファベットに直して表す)。
「Monte grazia (モンテ・グラチィア)」
「そうです」と彼女が言った。「町のこちら側の名前です」
いい響きの名前ですね、と僕は応えた。意味はイタリア語で「恵みの山」。その名の通り滋養的な木々が生茂る山を背にし、その恵みの一端を分けてもらいながら町を造上げてきたのだ。
「「「「「「こんにちはー」」」」」」
橋を渡っていると、そこで川釣りをしている6人の子供たちから挨拶された。
「サラお姉ちゃん! ヴィクトリオお兄ちゃん! マスがたくさん釣れたよ! 見て見て!」
こちらが挨拶を返す間もなしに、6人の中で1番歳上に見える9歳くらいの男の子が、釣った魚を泳がせている木製の刳貫きの箱の許へ2人を連れていった。僕もその後ろから一緒に近づく。彼女が、あらぁすごいわねぇ-、と称える横で、5歳くらいの女の子が僕に近寄ってきた。
「おにいさん、だぁれ?」
至極全うな質問だった。
彼女は領民に対し、僕(彼)の身分・身元をどのように説明するのか予め考えておくのを失念していたため、えーっとね、そのねー、と胸の前の忙しない手遊びがまるで溺れているみたいだ。今度は僕が引揚げないといけない。
僕は腰を落として、片膝立ちで女の子に視線を合わせて答える。「はじめまして、僕はアウレウス・アングィスと言います。実は僕の父とサラさんのお父上がお友達でして、今日は縁あってサラさんにこの町を案内してもらうことになったんです。アルと呼んでもらえると嬉しいです」
「じゃあ、アルお兄ちゃんだね!」
女の子が応えて、他の子供たちもわいわいと僕の存在を受入れてくれた。
そのまま暫く、子供たちと釣った魚や橋の上から川面に映る銀色の魚影を眺めた。そして、頃合いを見て、バイバイ、また後でね、と言って子供たちと別れた。
「すみません。皆さんにアルさんをどう説明するのか、すっかり考えそびれていました」と彼女は言った。
「こちらこそ、随分勝手なことを言ってしまいました」
「いえ、とてもいい方便でした。これからもそのように説明しましょう」
町は川よりも5mほど高い位置にあって、橋はそこと繋がっていた。川幅は15mくらいあって、橋の全長はざっと25mくらい。町側の橋の下は河川敷のようになっている。この町は山を削って出た土を埋立て、平らに均してから建てられているのだ。
橋を渡り切って、僕たちはメインストリートの入口に立った。道は舗装されていないが、こまめに除草等の整備をされていることが見て取れる。歩くと砂塵がが僅かに舞うくらいだ。
サラ様、おはようございます、と彼女に気づいた町の人たちが声を掛けていく。老若男女問わずに慕われている。本当に、絵に描いたようなお嬢様だ。当然僕についての質問も飛ぶけれど、橋の上の子供たちと同じ説明をすると皆疑わずに信じてくれた。老齢の女性の、ゆっくりしていってくださいね、や、ヴィクトリオさんの服を拝借していることに気づいたブティークを経営する男性の、後でうちの店に寄りなよ、との声掛けがとても温かくて、僕はうすらと涙が出そうになった。
「到着です!」
彼女がまた快活に言った。
メインストリートを歩いて少し、右側にベーカリーが見えた。昨日から彼女が称揚し続けている美味しいパンをつくる店だ。大きな窓からたくさんのパンが陳列されているのが見える。バケット・ラウンドトップ・ロールパン、とかくたくさん。店からまろび出る幾重のパンの匂いが僕の消化器系に作用して、はやく俺たちを働かせろ! と蹴るように囃し立てているのが感じ取れる。お店の看板には「Panera (パネラ)」と書かれている。
彼女はさっそく店の扉を開く。そして、おはようございます! と元気よく挨拶する。
「サラ様、ヴィクトリオ様、おはようございます。お待ちしておりましたよ」
店の奥からパネラの店主が顔を出した。小柄で肥満気味の男性で、顔のパーツも総体的に丸く穏和な印象を抱かせる。白のコックコートと帽子、黒いズボンとネイビーのエプロンを装着していて、まさにこれぞパン職人と言った風貌だ。幼少から、我々はこのイメージを刷込まれてきたのだ。まさにパンを捏ねるように。
「どうも、はじめまして」
僕は店主に挨拶する。
「パネラへようこそいらっしゃいました! 私はドメニコ・マストロヤンニと申します。サラ様の仰っていたお客人の方ですね。本日は腕によりを掛けてお食事を作らせて頂きます」
彼女は予め、通信の魔法で店主もといドメニコさんに注文をしていたのだ。
「僕はアウレウス・アングィスと言います。アルと呼んでください。今日はごちそうになります」
ドメニコさんはツナとチーズとレタスを挟んだ、フライパンでつくるパニーニを用意してくれていた。僕たちが来る前にある程度の下準備を終わらせて、すぐ焼きたてが食べられるようにと目の前で成型と調理をしてくれた。その際、火の魔法や浮遊の魔法を使用しエンターテイメントのように目でも僕たちを楽しませてくれた。まるでトルコアイスの屋台みたいに。ドメニコさんも魔法を使用できる人なのだ。
彼女はそれを見て口を開く。「魔道具なしで魔法を使える人自体、実はとても少ないんですよ。この町でも10人もいません。それに、魔道具の魔法は用途が限定的ですから、ドメニコさんのようなパフォーマンスは特に子供に喜ばれるんです。ねぇ、魔法って素敵でしょう?」
「ええ、とても」
僕はにんまりと口を結んだ。
できたてのパニーニを見て、僕たちは目を輝かせた。彼女は、ああたまらない匂い、と言って、ヴィクトリオさんは、このパニーニが世界一なんですよ、と言った。僕はついお腹を鳴らしてしまい、ドメニコさんはくすくすと笑った。
飲み物に苺の果肉を混ぜたキャンディのアイスミルクティーを頂き、トレイを持ってお店の前に用意してもらった木組みの折畳みテーブルに座った。祈りを捧げパニーニを1口頬張ると、世界中の人々から僅かずつ幸せを分けてもらったような気分になった。太陽はいま、1番高いところまで昇っている。
僕たちが屋外で食事をしていると、当然人々が集まり滞留する。子供たちの、サラお姉ちゃん、ヴィクトリオお兄ちゃん、との快活な呼掛けが辺りにこだまする。そして、彼女の同年代くらいの女の子が2人、仲のいい友達のような距離感で――いや、紛れもなく友達として――彼女と談笑し、ヴィクトリオさんも若い男集といろいろ話をしている。僕はそれを愉しそうに見詰めている。すると、必然的に僕についても質問される。剣を携えたこの少年はいったい何者なのかと。彼女が先ほどの便宜的な説明を皆に語り、僕は皆に自己紹介する。そして、僕はまた町の人たちに存在を迎入れてもらえる。くわえて剣捌きがみたいとせがむ子供が現れて、腹ごなしついでに披露することにした。スマートに抜剣し、舞うように剣を振るう。すごーい! や囃しの指笛の音が実に心地よい。こんなにたくさんの人に囲まれて、愉しいと思えるのは実に久方ぶりだ。子役時代の、1つの大きな舞台を終えた後のバックステージが、いつもこんな具合だった。使用した小道具を用いて、大人たちも子供時代の想像力を呼起こしてして遊ぶ。そのオフの切換えの達人こそが、光希さんだった。
食事も終えて少しして、彼女は言った。「ドメニコさん、今日はありがとうございました! それとまた今度、パン作りを教えにもらいに来ますね」
「はい、いつでもお待ちしておりますよ」
ドメニコさんはにこやかに応えた。
「ドメニコさん、今日のお代です」
ヴィクトリオさんは鞄から財布を出して、小さな銀貨を3枚渡した。昨日も述べたように、支配階級だからタダで食わせろ、なんて驕慢な振舞いは絶無なのだ。僕はそのことを、視覚的に共有できて安堵した。
僕たちは「パネラ」を後にすると、メインストリートを気ままに散策した。美味しいコーヒーとチョコレートの専門店に寄って温かいエスプレッソを啜り、小さなチョコレートを2粒頬張った。とりわけチョコレートの味は格別だった。山型で、いまできたばかりのように滑らかで柔らかい。型にはめて固めるのではなく、絞り出したチョコレートをゆっくりと冷やしながら自然に固まるのを待つから、この味と食感を作り出せるそうだ。大陸の彼女たちのルーツがある地域で生産されていて、それを輸入し販売しているらしい。
次いで、先ほど声をかけてくれた男性のブティークに寄って僕に合う服を探した。僕ははじめ、ここまでしてもらうのは申し訳ないですよ、と断ったけれど、彼女の、せっかくですので! という圧に為す術なく押負けてしまった(実のところ、フェデリコさんから予め購入予算を渡されていたのだ)。宛らビスクドールのようにたくさんの服を試着した。そして、既製品から上下セット3着を購入し(後日屋敷に届けてもらうことになった)、店主の男性の要望もあってオーダーメイドを1着作成することになった。身体のありとあらゆるサイズを測り、僕たちのイメージも伝えて、また後日デザインを見せてもらうことになった。まるで小形の竜巻のような慌ただしい時間だった。
ブティークを出ると、僕たちは町の教会に訪れて、そこでまた祈りを捧げた。教会はメインストリートの終点近くにあり、ほかと比較しても一回り大きな建物なうえに、目に見えて区別できる特徴があった。3階建ての屋根に、とんがり帽子みたいな鐘楼が突出している。けれど、悪目立ちはなく、町の在り方にきれいに溶け込んでいる。内装も天井と壁は漆喰の白で統一されて、赤い絨毯を敷きその上に長椅子が並べられて、奥に質素な祭壇があるだけだ。実にプロテスタント的だ。とても懐かしい。
祈りを終えると、いよいよ海側の町へ向かうことになった。そこから見る夕日がこれまた最高なんです、と彼女は言った。今夜の夕食の魚の調達もある(そのためのヴィクトリオさんの大荷物なのだ)。海側の町はメインストリートの反対(終点)側の出入口から出て、左にまっすぐ行くと到着する。その出入口から広がる麦畑が、まるで黄金の海のように見えた。
僕がこれから背にして立つ美しいものたち。この山側の町だけで、既に僕の心の容量を溢出そうなほどに満たしてくれている。これからそれを、何倍何十倍にして返報していくこと。その艱難さよりも、愉しみの方が圧倒的に勝っている。
そして、ついに災厄の時が来る。
出抜けに、総身が粟立った。それは彼女も同様だった。閃光と轟音を頭上に知覚し空を見上げると、まるで隕石のようなエネルギーの塊が空から降ってきている。やがて、それは町の先の丘の向こうに落下した。




