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その魔法の剣を貰受けるにあたり、当然ながらソードホルダーも譲渡された。勿論、彼も身につけていたそれだ。革製の腰に巻きつけるオーソドックスなタイプで、ダークコーヒー色のシンプルな作り。実用性を阻害するような装飾もない。僕は心から気に入った。実際に腰に巻いて剣も装着し、幾つかの軽い動作で身体に馴染ませてみる。それはまるで薬指に指輪を填めるみたいに、僕の腰周りにフィットしてくれた。サラもフェデリコさんも、とても似合って(い)ます、と言ってくれた。
僕たちはまた少し他愛のない言葉を交わした。そして、屋敷の正面に回って、フェデリコさんとトレビを見送った。昨日、階段の窓から見下ろしたように、正面は清楚な庭園になっている。広さはテニスコートを縦に3面並べたくらいで、その中央をまっすぐ横切るように――まさにテニスコートのネットを模すように――小川が流れている(花壇に接する部分はコンクリートで舗装されている)。屋敷の玄関から小川と十字で交わるように石畳の通路を伸ばして、それを基準に幾何学的に成形した花壇を左右対称に配している。通路と小川の重なる部分は小さなアーチ状の石橋を架けている。その庭園もフェンス等で囲われてはいないので、実際の敷地の境界はやはり曖昧だ。――いや、ここら一帯の山から海までと2つの町こそが、フェデリコさんの敷地というべきなのだろうけれど。
フェデリコさんは玄関の前でトレビに騎乗して、庭園の通路を颯爽と駆けて先の森に消えていった。その最中、背中越しに僕たちへ手を振ってくれた。一度決められた口上を述べれば、その腕1つで問題をまるっと解決してくれそうな頼もしい後姿だった。
ヴィクトリオが来るまで庭園を案内しましょう、と彼女が言って、僕も、是非に、と返事をした。昨日の斜陽下の庭園もきれいだったけれど、生まれたての陽光に照らされるそれもとても美しかった。薔薇にコスモスに桔梗と僕でも認知する有名な種や、名前の分からないものまで色とりどりだ(客室に飾られていた花もそこに咲いていた)。まるで魔法の絨毯の上にいるみたいだ。宛ら僕と彼女は、その上でちょろちょろと動き回る鼠のペアだ。
暫くして、着替えたヴィクトリオさんが大きめの革の鞄を右肩に掛けてやってきた。服装は持参してきたなかで1番シンプルな、まさにファンタジーの村人といった格好だった。具体的な説明に窮するくらいに。色合いだけを伝えると、黒のズボンにワイシャツ、ダークブラウンのベストとカフェオレカラーの靴。それらはきっと、ヴィクトリオさんなりの配慮の表れなのだと思う。
ヴィクトリオさんはまず、僕の携える剣に興味を示した。そこに至る経緯を彼女が代わりに説明すると、ヴィクトリオさんはとても感心してくれた。
「こう見ると、まるで異国の王子さまみたいですね」
ヴィクトリオさんはうんうんと頷きながら言った。
「ヴィクトリオさんのお陰でもありますよ」と僕は応えた。
その様子を見て、彼女は気持ちよく微笑む。「ヴィクトリオと随分仲良くなってくれたようで嬉しいです」
再説になるが、ヴィクトリオさんがゲイであることは物語上では描かれなかった。依って、彼女がそれを承知しているかどうかも分からない。しかし、それをわざわざ訪ねる気も僕にはない。客観的な動機も、個別的な意義もない。
彼女は言った。「まだ時間がありますし、砂浜に立ち寄ってから町へ向かいましょうか」
「ええ、行きましょう」
僕は答えた。大きな荷物を抱えるヴィクトリオさんには申し訳ないけれど。
砂浜までの道程で、彼女の口からその海でよく泳いでることが語られた。
「そのお陰で僕は助かったんですね」
彼女が夏場に連日のように泳いでることは、客室でのヴィクトリオさんとの談笑でも話題に上った。しかし、本人のいないところで彼女の半生について勝手に賑わっていたことを開示するのは憚られた。紙面上でも実際そうだったし、ヴィクトリオさんも白状しない。
「ええ、泳ぎを練習してきて本当によかったです」
本来のシナリオだと、その所為で彼女は最後非業の死を遂げてしまう訳なのだけれど、この剣を振るってそれを塗替えられると思うと、俄然わくわくとした気持ちで充満ちていった。
なだらかな坂を降って砂浜に到着すると、僕たちは砂の上に座った。僕たち以外には誰もいなかった。そもそも街の人たちがここに慰安にくるのは、正午を過ぎてからが多いのだ。僕はソードホルダーを外し、ヴィクトリオさんは鞄を肩から降ろす。彼女はそもそも手ぶらだった。砂はそれなりに熱せられているけれど、靴や衣服の上から我慢できないほどじゃない。彼女は昨日の救助の際に脱捨てた靴が運良く打ち上がってないか期待したけれど、それらしいものはどこにも見当たらなかった。僕はそのことを彼女から聞いて、申し訳ないです、と謝った。
「いいんです、大分履いて磨り減ってきていたものですし」
彼女は当然のように気遣ってくれる。
しかし、後にその靴は彼女の許に返ってくるのだけれど、それは少し後の話である。
暫くして、彼女がまた提案する。「アルさんが嫌でなければ、靴を脱いで浅瀬を少し歩きませんか?」
「勿論いいですよ」と僕は答える。
「実を言うと、こんなこともあろうかとタオルを人数分を持ってきているのですよ」
ヴィクトリオさんは鞄から清潔なタオルをとり出して見せた。
「さっすがヴィクトリオ、分かってるじゃない」
彼女はあどけない笑みを見せた。まるっこくて、聡明や勇気よりも幼さが勝る、いまの僕には未だ引出せない笑顔だ。
素足になって、海水の冷たさを直に感じる。細やかな砂地に依って身体が微妙に沈み、そこから離れないでといわんばかりに歩行を阻害される。しかし、それはまるで抱っこをねだる2歳児のような微笑ましさのある事象だった。
これが通俗的な物語なら水の掛合いくらいするのだろうけれど、これから町へ赴くのに磯くさくなってしまう訳にはいかなかった。僕は海水を手で掬って落としその透明度を称えると、彼女は我が事のように喜んでくれた。
5分と少しで浅瀬を1周すると砂浜に上がり、足をタオルで拭いた。拭いたタオルは近くの木の枝にかけてクリップで止めた。後で私の方で回収しに来ます、とヴィクトリオさんが気を利かせてくれた。
僕たちは靴を履いて荷物を持ち、海岸沿いの道を通って街へと向かう。僕が海側で彼女が中央、ヴィクトリオさんが山側という具合に。少しして海の方を向くと、遠くに数隻の漁船が見えた。彼女はあちらに向けて大きく手を振った。その挨拶にあちらが応えてくれたのか、こちらからではよく分からない。そもそも、あちらからこちらが見えているかどうかすら分からない。でも、彼女は自身が手を振った事実で十分に満足していた。彼女は続けて、この町でタラとシーバス(スズキ)がよく獲れることを話してくれた。すると、今度はヴィクトリオさんが、春過ぎになると近くの川を遡上するサーモンについて話してくれた。彼女も春過ぎのサーモンが魚の中で1番好きらしく、その味についてヴィクトリオさんと共に身振り手振りで表現してくれた。雄大ながら凝縮された味であることが、2人の動作からなんとなく理解できた。
屋敷外の2人は、先述した歳の離れた幼馴染みという趣がより顕著に表れている。勿論、職務の関係でヴィクトリオさんは常に敬語を使用するのだけれど、2人の間にはその差違をすんなりと埋める純粋なリレーションシップが見てとれた。いや、幼馴染みというよりは兄妹の方がしっくりするかもしれない。僕にもあったかもしれない可能性だ。
それは本当に突然だった。2人の称揚に耳を傾けていると、摩訶不思議な現象が僕の視界に降りかかった。彼女とヴィクトリオさんに、遥ちゃんとある少年のヴィジョンが重なって見えたのだ。その少年にはどことなく既視感がある。
そうだ、遥ちゃんのお兄さんだ。
夕日のなかで笑顔で迎えにきた学ラン姿のお兄さんと、満面の笑みで駆寄る遥ちゃんの姿が見える。鮮明に、まるでいまここで起きていることのように。僕の勝手な記憶の投影じゃない、これは「ハルカ」からのメッセージだ。理屈じゃない、魂でそう感じた。『Bohemian Rhapsody』のオペラパートのように、何度も何度も、熱烈に叙情的に。
その現象に目をしばしばさせていると、いつとはなしに消えてしまっていた。
「どうされたのです?」
彼女がきょとんとした顔で問い掛けた。
「――少しボーッとしてただけです」と僕は答えた。「景色も空気も素晴らしくて、つい」
「ふふ、自分のことを誉めてもらえるように嬉しいです」と彼女は言った。
ヴィクトリオさんがゲイに設定された本当の理由を、僕は確と理解できた気がした。




