ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン 1
「サラ、今日は随分とおめかしをしているんだね。はは」
フェデリコさんが食堂の扉を閉めながら言った。静かに慎重に、宛ら現在の食堂の空気感を損なわない配慮をするみたいに。
「これは、ソフィアさんがはりきりすぎてしまっただけで、その」
彼女は林檎みたいに赤面する。その隣にソフィアさんが進み出て、落語の演目みたいにこのように化粧して差し上げましたのよと手際を再現すると、男3人はほうほうと反応し、彼女はあたふたしながら耳まで真っ赤にしてしまう。僕は特別なコメントをせず、それを微笑んで見守っていた。彼女の誰かの所為にしようとすることのらしくなさが、皆おかしくて堪らないのだ。こういったやりとりは、未だ家族だけの領分だ。
からかいが一段落すると、フェデリコさんは彼女に言った。「私はこれから屋敷を空ける。馬でフレスゴーの辺境伯の許に行くよ。もともと定期報告をしに行く日だったけど、ついでに彼のことも相談してくる。帰るのは恐らく明後日の夕方以降になると思う」
「分かったわ」
彼女も一通りの落着きを取り戻したように見受けられる。しかし、耳には幾分の赤みが残存している。
「ヴィクトリオくん」とフェデリコさんはつけ加える。「改めて2人を頼むよ」
「かしこまりました」
ヴィクトリオさんは爽やかに応えた。
町へ出掛ける前に、僕はフェデリコさんの馬を見せてもらうことになった。サーヴァントの3人を屋敷内に残し(とりわけヴィクトリオさんは町へ向かう際に必要な荷物の準備を任されて)、僕と彼女とフェデリコさんは屋敷の裏手に出る。食堂を後にしてエントランスに向かい、正面玄関と反対にある勝手口を通った。裏手からは客室の窓から観た景色をそのまま一望することができる。海からの分厚い浜風に依って、僕もその景色に含まれていることを実感できる。屋敷の外観は基本的に内部と統一されている。白い外壁、ミントグリーンの扉・窓枠・客室のバルコニー。そのバルコニーの真下がサンルームになっていて、そちらもミントグリーンに塗装されている。春秋はそこから海を眺めて食事やティータイムでもすれば就中だろう。屋根はクラシカル・レッドのフランス瓦が使用されている。敷地の境界が曖昧で、恐らくは平坦から傾斜に差掛かる部分だと思われる。
「どうです、素晴らしい景色でしょう?」彼女が僕に問掛ける。「あの海です。私がアルさんとはじめて会ったのは」
「ええ、とても素晴らしいです。……物語よりも物語的です」
「もう、恐ろしくはないのですか?」
「これっぽちも怖くありません」僕は囁くように答える。「……サラさんが近くにいれば」
「――ふふ、また溺れていたら泳いで助けてあげますね」彼女はいたずらに笑った。
屋敷を背にして左手に大きなオークの木があり、その木陰にベンチが1つある。そのさらに奥に、厩舎らしき建物が見える。近づくと嘶きが聞こえて、彼女が一足先に馬の許にいって戯れる。青鹿毛の大きな馬だ。平均的なサラブレッドより2周りはでかい(僕は幼少時、父によく競馬場に連れていかれていた)。これくらいのサイズはないと、フェデリコさんを乗せて走るのは艱難なのだろう。
「うん、うん、今日も元気ね」
彼女は頻りに馬の身体を撫でる。馬自体の様子と、オレンジの両翼状のアニマを確認しながら。まさにペガサスだ。白馬ではないけれど。
「彼はトレビって言うの。どう? 触らせてもらう?」
はい、と返事をして、僕はトレビに触れる。トレビは暴れることなく僕の手を受入れてくれた。大人しく賢い馬だ。自ら触れられると気持ちのいい部位、あるいは、不快じゃないところを差出しているように思える。毛並みもいいし、いつまでも触れていたい。
しかし、ここから、この物語で最も大切な展開がやってくる。
僕は猫の如くに出抜けに左を振向いて、手を下ろす。その先には2つの倉庫が並んでいる。手前側は、馬の世話をするための器具や飼い葉を保管してある。そして、その奥は。
「どうされたのですか?」と彼女が言った。
「何か、懐かしい雰囲気が奥の倉庫からするんです」
不思議だ。僕は実際にシックス・センスのようなものを感じてる。それはどちらかというと匂いに近しいものだ。甘ったるい匂いが、脳みそに直接注がれているみたいだ。
「あれは武器庫です」とフェデリコさんが言った。「アルくんの記憶に何かしら関係があるのかもしれません、少し覗いてみましょうか」
僕たちは武器庫の前に立ち、フェデリコさんが扉を開く。中は乾燥していて(湿気をとり除く魔道具が置かれている)、様々な剣や盾・防具・火薬・銃が所狭しと納められている。
フェデリコさんが問う。「どうです? 先ほどの雰囲気の正体はありますか?」
僕は倉庫内を隈無く見る。すると、まるで後頭部を小突かれたような感覚がして、僕はその時に向いていたあたりの武器群に寄って掻分ける。その1番深い部分に指先が触れると痺れを覚えて、その正体を抜出した。それは1巻の表紙にも描かれて、そして、彼女'からも直截言及されたあの剣だ。鞘と鍔と握りが少しの紫を混ぜた黒で統一された長剣。鍔は剣身の方にきつく反っていて、鞘は巻きつく雑草の根のような模様が浮かび上がっている。主人公が持つ剣としては些か、いや、かなり禍々しいデザインだ。
彼女はその一部始終を、寄せては返す波のような剣呑を感じながら見詰めていた。
「それは確か、ウォールズから流れてきたものですね。しかし、魔法で封をされているようで抜けないんです」フェデリコさんはそう言って、僕から剣を預かって抜こうとしてみる。しかし、抜けない。ふんと息を止めて、その逞しい手の甲に幾つもの血筋をかたどっても。諦めて1つ息を吐いて、僕に剣を返還する。「でももしかしたら、アルくんには抜けるかもしれない。君は選ばれた勇者なんですからね」
僕は速やかに剣を抜く姿勢を取る。右足を1足分前に出し、膝を僅かに曲げて腰を落とす。同時に左腰に剣を据えて、右手で小指から握込む。そうして、剣は本当に抜けてしまった。何の力みも抵抗もなしに。しかし、ほんの玉響、何らかのエネルギーが迸った感覚があった。そして、それを知覚したのは、僕と彼女だけだった。彼女はそれを黙っていることにした。ただ剣身の封印が解かれたことを示しているだけだと思うし、あまり不安になることを口にしたくなかったからだ。僕自身も、それが僕(彼)と彼女を引き離す結果になるかもしれないので報告しない、という気持ちをつくり上げた。それがひどい結果に繋がると僕自身は知っていながら。しかし、繰返し述べるが、それは必要な試煉なのだ。
「まさか本当に抜けるとはね」とフェデリコさんは口にした。「まるでルーサー王伝説だ」
恐らくは、アーサー王伝説のオマージュだ。
「気分はいかがです? 何か思い出せましたか?」
僕はフェデリコさんの質問に答える前に、2人から少し離れて素振りをした。不思議だ、殺陣の訓練を受けた経験はあれど、ここまで流麗に操れるとは思わなかった。熟達の剣術家がその身体に剣筋を染み込ませて、無意識裡の領分に落とし込んだように動けてしまう。その銀色の刃は、まるで悪魔的といえるほどに研ぎ澄まされている。空気を割いているような感触もしないほどだ。
「――駄目ですね。何も思い出せません」僕は剣を鞘に収めてから言った。「ただ、僕はフェデリコさんが昨日言った通りの存在なんだということを、魂から理解できた気がします」
「サラ、この剣から何か力のようなものを感じるかい?」
フェデリコさんは彼女の方に振返る。
「――うんうん、何も感じないわ」
彼女の言葉に偽りはない。何かが迸ったのはあの一瞬だけであり、もういまはふつうの剣としか感じられない。
「ふむ」とフェデリコさんは唸る。「ちょうどいい。その剣はアル君に差し上げます。先程の剣技見事でしたし、魔法で封印されていた剣です、何かしら特別な力があるやもしれません。万が一にもないとは思いますが、街の行き帰りにサラのボディーガードをしてもらえると嬉しいです」
「ええ、勿論です」と僕は答えた。
いまにして思えば、フェデリコさんの要請は、平明なイベントのフラグでしかなかった訳だ。




