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 ☆☆☆☆☆



 それはとても爽やかな目覚めだった。陽光の育んだ温かく軽やかな空気が僕の身体を押上げては沈ませて、僕の意識に柔和な覚醒を呼掛けてくれた。そして、僕の意識が内から外へとその向きを旋回させる中で、まるでその正しい制止位置を報せてくれるように鳥の鳴声が聞こえてくる。僕はそれに正対して手を伸ばす。すると、何かが僕の手をとり引っ張りあげて、気がつくと魔法の光に照らされた白の漆喰の天井を見ていた。

 知っている天井だ。高くて淀みのない、湧き水とその溜まりのような流動と不動の調和に富んだ平面。あの屋敷の、彼女の家の客間の天井だ。


 半覚醒の状態で突上げた手は、実際には上がっていなかった。両手とも掛け布団の中に気持ちよく収まっていて、暫くこのままぬくぬくとさせていたい気分だ。

 僕は掛布団を被ったまま、両手を広げてTの字のポーズになる。まるで3Dモデルキャラクターの基本姿勢みたいに。右手は指先だけが漆喰の壁に触れて、左手は母指以外の基節から先だけがベッドの枠を飛出す。間違いない、あのクイーンサイズのベッドだ。

 僕はもぞもぞと数秒蠢いてから掛布団を捲り、ベットから起上がる。勿体ない気もするけれど、僕はベッドから脱出することにした。


 僕は改めて、自身が屋敷の客室に在ることを確認する。広い空間に白とミントグリーンとダークブラウンの色調、アップライトピアノ・クローゼット・テーブル・サイドテーブル・風景画・はきだし窓。僕は深い溜息をついて安堵する。そして、ベッド脇においてあったスリッパを履いて、軽い足どりではきだし窓へ向かいカーテンを開ける。昨日、夕食を終えて客室に戻った際も、1度外を眺めようとしたのだけれど、真っ暗で月も出ておらずよく見えなかったのだ。


 それはまさに、絶景という他ない景色だった。ごつごつとした岩が疎らに配置された丘陵、その間を煩多なまでに茂る潤いのある下草、時折気まぐれに生えている木々、大きな弧を描いた黄色い砂浜とエメラルドグリーンの海、雲1つないコバルトブルーの空。実に美しい西洋的な海岸だ。こんなにも素晴らしいビーチだと、現実なら観光客が殺到してひどく汚染されてしまうものなのだけれど、物語世界ではそういった(けが)れは起こらない。いまのところ砂浜の辺りに人影はなく、見える範囲に他の家屋もない。これまで幾度と言及された領内の2つの町は、ここから西に少し行ったところにある(海が真南を向いている)。1つは山の麓に、もう1つは海のすぐ近くに。サラが案内したいと言っていたベーカリーは山側にあって、こちらの方が人口が多く賑わっている。反対に海側はそれなりな規模の港がある。水深が深く大きな船も寄港できるため、この辺りの地域の物流拠点にもなっている(それでも人口的な賑わいや住人の人種的多様性に乏しいのは、一重に差別が関聯している。そういった描写が、『レオン』の2巻以降に表れていく)。それぞれに別の名称があるのだけれど、当の領民たちはどちらかといえば纏めて1つの町と認識している。

 その町を、朝食の後にサラが案内してくれる。とても愉しみだ。

 しかし、これからその町に災厄が訪れる。僕の所為で。

 しかし、それは大切な試煉なのだ。


 もう大丈夫だ、僕は目の前の絶景を優しく照らす太陽に向かって言った。



 コンコン

 少しして扉を叩く音がした。

「どうぞ」

 僕は合図に応える。ギィ、と控えめな音を立てて、速やかに扉が開かれた。

「おはようございます。もう起きられてたんですね」開かれた扉の先に、彼女の素敵な笑顔があった。「よく眠れましたか?」

 彼女はウエストに絞りのあるピンクのロングワンピースを身につけている。踊り子のようで、タンバリンを渡したらそのままくるりと舞踊ってくれそうだ。靴は昨日と同じ幾何学的サンダルで、ティーセットをトレイに乗せて携えている。

「おはようございます。ええ、お陰さまでぐっすりと」僕も笑顔で応えた。

 このシーン、実は紙面上と相違している。実際の物語では彼は未だ眠っていて、彼女はノックの反応がないことを確認してそっと入室し、彼のベッドの傍らで立止まった。そこから彼を見下ろし微笑んでいると彼が目を覚ましてしまい、互いにかなり気恥ずかしい情態になってしまうのだ。

 それも、とても素敵なイベントだと思う。でも、僕はそういった不意打ち紛いなことが得意ではないのだ。僕は僕として、無理のない気持ちで彼女と向合いたい。嘘は能う限りとり除く。僕は彼女と、対等で本物のリレーションシップを構築していかないといけないのだ。


「ふふ、表情からもひしひしと伝わってきて嬉しいです」と彼女は言った。「寝起きで喉が乾いてると思いますので、どうぞこちらをお飲みください」

 彼女はそう言って、室内中央のテーブルの上にティーセットを置いて紅茶を注いでくれた。ポットからぽとぽとと注がれる音とほんのりとたつ湯気が、平和の象徴そのものに思えた。僕はこれから、この何気ない風景が致命的に損なわれないために、文字通り命を懸けないといけないのだ。


 僕は部屋の中央まで赴き、失礼します、と言って、彼女が注いでくれた紅茶を手に取って飲んだ。昨日と同じアッサムティーだ。60℃くらいの風味豊かでなおかつ飲みやすい温度になっていて、喉だけでなく心まで潤っていくのがとてもよく分かる。干からびて捲れた皮膚のように皹が入った窪みに新たな水が注がれて、藻や水草が生えてやがてもといた動物たちも還ってくる。そういった形象が頭の中に克明に浮かんでくる。

「ああ、美味しい。朝に飲む紅茶はまた格別ですね」

 僕は素直な気持ちを言葉にする。

「ふふ、堪らないでしょう? それに、昨日のものは冷めてしまってましたからね」と彼女は言った。「昨日も今日も、どちらもマリオさんが淹れてくれたんです。ご存知かも知れませんが、紅茶はお湯の注ぎ方で味がすごく変わるんです。教えてもらってはいるんですけど、私はまだ人にお出しできるだけのものを淹れられません」

「なるほど、マリオさんに改めてお礼を言わないといけないですね」と僕は言った。「ただ、サラさんが納得できたらでいいんで、サラさんの淹れる紅茶もいつか飲んでみたいですね」

「では1日でもはやくご馳走できるように、もっとマリオさんに教えてもらわないといけませんね」彼女は明るい調子で応えた。「もうすぐ朝食の用意ができますが、その前にお風呂で汗でも流されますか? 湯船にお湯を貯めているわけではないのですが、頭からお湯を被るだけでも大分違いますよ。実を言いますと、必ずお風呂に入られると思いまして、着替えも全てそちらにご用意しているんですよ」

 勿論、彼女は僕より先に汗を流している。しかも、今日は普段よりも念入りに流したらしい。汗の匂いだとか肌の調子だとか、家族外の――とりわけ好意のある――人間がいると、当然気になってしまうのだろう。

「そうですね。是非そうさせて頂きます」僕は紅茶を飲み干してから言った。「あと、髭も剃りたいのですが、剃刀も余りがあったりしますか?」

 僕は顎を擦る。僅かだけれど髭が生えてきている。この物語でも、髪や髭や爪はちゃんと伸びるのだ(しかし、足と腕と脇と臍回りの毛は生えてくる気配がない。恐らくは「ハルカ」の趣味に合わないのだ)。

「はい、父が使っているものの買い起きがあったはずです。ラックの隅に置いてあるのでそれを使ってください。父には私から話しておきます」

「ありがとうございます」

 僕は感謝を述べた。


「そうです、ドライヤーです」彼女は思いついたように言った。「ドライヤーの使い方をお教えしたいので、一緒に浴室へ向かいましょう」

「ドライヤー、……ああ、昨日言っていた髪の毛を乾かす魔道具のことですね」僕はわざとらしく確認した。「ええ、是非お願いします」

 これが少女漫画のイケメンだったら、「その必要はないよ、今日も君の魔法で乾かしてもらいたいから」とでも言うのだろうな、と僕は思った。彼の外見だって、どちらかといえば女性にとって好ましいタイプの美丈夫だ。「ハルカ」だって、そういったシチュエーションを想像したりしていたかもしれない。美しい少年が寝入る傍らに立つというイベントも、実に少女趣味的だ。個人的な好奇心もあるけれど、まぁ、僕らしくはないと思う。僕のできる範囲で、「ハルカ」の欲する表現を読解し演出すること。


 きっと、サラの彼に対するふれあいは、「ハルカ」が初恋の男の子とやってみたかった――あるいは、してあげたかった――夢なのだろう。


「ティーセットはそのままテーブルの上に置いておいてください。ヴィクトリオにベッドメイクを頼んだ後に、一緒に持っていてもらうように頼んでおきますので」

 分かりました、と僕は応えた。


 僕は指輪と靴下と黒の革靴を持って、彼女と一緒に浴室に入った。そして、ドライヤーの前に立って、ここのボタンを押すんですよといったおおよその説明を受けた(ついでに、剃刀とシェービングクリームと、置き鏡と櫛の位置も教えてもらった)。実際に被って試運転もしてみた。おお、といった僕のわざとらしいリアクションに、彼女はクスクスと笑っていた。用途を知ってることをあえて1から教えてもらうというのは、何かとこそばゆい気分になる。


 ごゆっくりどうぞ、と彼女は上機嫌に浴室を後にした。

 僕は上着を脱いで下着だけになると、浴場に入らず1度姿見で総身を観察した。相変わらず惚々とする肉体だ。僕はいろんな動作をして、筋肉がどのように収縮して熱を帯びるのかを体感した。どちらかといえば、ただの興味本位として。そして、これも彼女'たちが見ているであろうことを思出し、途端に恥ずかしくなった。

 僕は逃げるように剃刀とシェービングクリームと置き鏡を持って浴場に入った(腰周りにタオルも巻いて)。それらを足許に置き椅子に座って桶をとり、レバーを下げて注口から流れてきたお湯を受止めた。指を入れてしっかり温まっていることを確認すると、そのまま頭から被った。それをもう1回、次に肩からを2回やってから、石鹸をとり泡立てて身体と顔を洗った。頭は洗わない。いわゆる朝シャンは日中の紫外線の影響をもろに受けてしまうからだ。色素の少ない金色の髪だ。それは生来が黒髪の僕には想像もできないほどのダメージになるだろう。借受けた身体に、そんなぞんざいなことはできない。


 洗身を終えて念入りにお湯で泡を流すと、僕はシェービングクリームをとり出し泡立てて、口許を覆い髭を剃る。剃刀は僕が現実で使用していた5枚刃のT字ではなく、床屋などで使用される1枚刃のものだ。自身で使用した経験はないものの、幾度と体験した散髪師の手際を思出しながら、皮膚に刃を当てて剃っていく。すると、驚いたことに、自身の想定の10倍はスマートにできてしまった。彼の腕がこちらの思描いた動作を100パーセント、いや、宛らAIの自動補正でも用いるかのように精密な動作を可能にしてくれた。僕は剃刀を置いて口許を擦った。痛みもヒリヒリとした感触もない、血も一滴も出ておらず剃り残しもない。僕は乾いたおかしな笑いが出てしまいそうになる。臍の内側から擽られているような、不可思議な感覚だ。

 『範馬刃牙』という日本格闘漫画の金字塔において(父が愛読している。漫画は基本的に父が所有していて、家族の共用になっている)、「全ての職業は腕力の代用品」という台詞がある。その意味するところが、なんとなく理解できた気がした。此上ないほどの肉体を、余すことなく精確に操作できる。これに勝る優越が果たしてあるのだろうか。僕には到底思いつけない。きっと、それこそが主人公の主人公たる所以なのだと思う。1人で世界を救済することも破壊することもできる力、それを強者に向けて放つものを善と呼び、弱者に向けて放つものを悪と呼ぶのだ。僕はそれを向ける相手を間違えてはいけない。そう、彼女'たちと約束したのだ。


 しかし、いま僕が感じているそれは、未だその精髄のごく端くれにすぎない。僕の主人公としての力の総てを解放してくれる剣に、これから会いに行かないといけない。

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