モーニング・グローリー 1
僕は言った。「それでさ、いまのうちに聞いておきたいことがあるんだけど」
そう言葉にする前に、僕は細く冷やした空気を吸って太く熱い息を吐くを繰返した。そうやって奔騰していた気持ちを鎮める。そして、2人の希みを引受けるにあたって、幾つかの懸念事項の確認へと移った。
「そりゃあ、たくさんあるだろうね」と彼は応えた。
一方、彼女'は僕への説得でかなり疲弊したらしく、勉強机の椅子に座って背中を丸めている。僕と彼女'が項垂れている間、彼は満遍のない声掛けをして様子を見てくれた。僕は彼に幾重とひどい言葉を浴びせたのに。僕は忸怩の気持ちでいっぱいになる。当の彼は、僕の前に胡座を掻いて座っている。
僕は右手で1本指を立てる。「まず1つ、僕はこの物語が正しく完結するまでの間、現実に戻ることはないという認識でいいのかな? それともそれぞれで眠る間にそれぞれで行動をするだとか、そんな感じになるの?」
「申し訳ないけど、完結するまで現実に帰還することはできない。ここで俺たちと別れた後はまた物語の世界に戻って、次に眠るとふつうの夢を見ることになるだろう。そして物語が無事完結すれば、気を失ってから数時間後の状態に戻る。きっと、ベッドで布団を被って寝てるんじゃないかな。物語が正しく修正された世界線では、奏くんは俺たちを叩きつけることもなく、ぐっすりとベッドに眠ってしまったはずだからね」
僕は改めて、事の重大さを理解する。僕のこれから行うことは、物語だけでなく現実をも改変することなのだ。いうなればそれは、一種のタイム・トラベルである。それはいったい、どれほどのエネルギー量になるのだろう。ある1つの計算では、宇宙総てのエネルギーを超越するとされている。しかし、それは真実だろうか? 僕の敬愛する小説の1つ、H・G・ウェルズの『タイムマシン』ではこう記述されている。
『時間は空間の一種に過ぎないと、科学者はよく承知している。空間と同じように時間も前へ進んだり後ろへ戻ったりできる』
そう、それはもっと容易なことなのだ。多世界解釈、パラレルユニバース論に照らしても、我々が1つの決断をする度に宇宙は分岐して複雑に絡合う。世界を変える、または進行させるのは、それくらい容易なことなのだ。僕はこれから、『レオン』が正しく完結された世界線に移動するといい換えることもできる。ただし、それには特別な切っ掛けが必要なのだ。僕にとってそれは、この『レオン』の物語を通抜けることにあるのだ。
ただ、叶うことなら、僕はもっと已前に――『レオン』の萌芽が生まれるよりも前――に移動したいとも思う。光希さんが自死する已前、いや、僕がはじめて光希さんと出会った時点、つまりは光希さんが死を選ばなかった世界線だ。しかし、それは有得ないのだ。何故なら、光希さんが死ななかった世界の僕は、『レオン』の物語との邂逅は果たせず、その改変の可能性に気づくことも、その必要性も認知できなかっただろうから。僕はこれまで通り、ホモソーシャルに囚われていたのだろうから。ある種のタイム・パラドックスだ。
しかし、どちらにせよ、僕が別の世界線へ移動するとなった際、元々そこにいた僕はどうなってしまうのだろうか? それはある種の侵略ではないのだろうか? いや、そこを懸念するのはやめよう。僕は暫く、誰を背中にして立つかしか考えないと決めたのだから。
「本当に申し訳ないことをしたよ」僕は頭を下げる。
「ごめんごめん、いまさらその事を責める気はないさ。それに奏くんは、直後すぐに謝って優しく撫でてもくれたじゃないか、それでもう怒ってなんかないよ」
「……なんにせよ、安心したよ。こちらにずっといられる方が好都合だね、何かを演じるという段においては」僕は言った。それでも、両親と暫く会えないのは、とても寂しい。「2つ目。その、この物語で死ぬ可能性ってのはあるのかな? 何かしらへまをやらかしてもし死んでしまったら、僕は、僕の魂はどうなるのだろうか?」
「そこも安心してくれ。あの物語で奏くんが死ぬことはない。どんな目に会おうともね、所謂主人公補正だとか、神の御加護だとか、そういいことだね。どれだけ銃をぶっ放されても被弾しないシカゴの刑事や、どれほどの爆発に巻き込まれ吹き飛ばされても、変なポーズをとるだけですぐに復帰するギャグ漫画みたいな感じだね。恐らく自殺をしようとしても悉く失敗するだろうね。首吊りなら紐が切れて、拳銃なら不発、入水ならイルカあたりが妨害してくれるかもしれない」
「いまのところ、そんな気はさらさらないよ」と僕は応えた。「じゃあ、痛みは? 本当は死ぬ以上の痛みでも生きたままで且つ意識も鮮明なまま味わい続ける、みたいなのはさすがに勘弁願いたいな」
「一応一定以上の痛みになると、著しく軽減されるようにはなっているから安心して。俺だって嫌だぜ、本当に痛いのは。それに、痛みの演技をするために本物の痛みを与えたら、それは表現でも演技でもない、ただの痛みだ」
「まったくだ」と僕は言った。「その大原則が守られずに役者を傷つけてきた裏方を、僕も何度も見てきた」
その事例について、小学5年生の頃のエピソードがとりわけ印象に残っている。ドラマで共演する僕の2つ下の男の子で、親の急逝を目の当たりにし泣く演技を求められた。しかし、男の子はうまくシーンに入込めなかった。当然、要求のレベルも高かった。すると、監督がそんな男の子に対して、実際に親が亡くなって起こることをしつこく想定して聞かせ本当に泣かせてしまったのだ。その様子を、監督は嬉々として撮影させた。きわめて不誠実な遣口だった。そして、それは観客にも見透かされるほどだった。結果として、その作品は評価されることなく、その男の子もそれっきりで役者を辞めてしまった。
僕もその収録時点で、何かしら彼を守る行動を起こすべきだった。そこに年齢なんて露聊も関係ないはずだ。しかし、光希さんとの共演を重ねることしか念頭になかった当時の僕は、見て見ぬふりをしてしまった。あの子が弱いから悪いんだ、とさえ思ってしまった。僕の見えない傷の1つである。
「嫌な出来事だったな」と彼は言った。
「うん」と僕は頷く。「とりあえず、少なくとも痛みに敗けて物語を完了させられなくなることはないと分かったよ」
「そうだぜ。奏くんが気力を失わなければ、この物語は必ずハッピーエンドを迎えられる。もともとこの物語はそれに向かって邁進していたことは、さっきの説明の通りだ」
そうだね、と僕は言った。そして、溢れんばかりの活力が漲ってきた。
「じゃあ、今度は私から1つ質問してもいいかな?」彼女'が顔を上げて言った。「私抜きで楽しそうにしてるじゃない」
彼女もひとまず、気持ちを落着かせることができたようだ。ただ、その淡緑の双眸は、どうしようもなく赤く濁ってしまっている。僕はそれを見て、また忸怩の気持ちでいっぱいになる。しかし、僕はそれを自身の内から追いやることにした。ここまで来たら、言葉での謝罪にもはや何の意義もない。文字通りに行動でしか、彼女'たちに報いることはできないのだ。しかし、それは現実における補填や代替の行為ではなく、直截的に根本的に彼女'たちを救い出すことができるのだ。物語を創ることを通して。
「いいよ、答えられる範囲でならね」と僕は言った。
彼女'は口角をやや引締める。「結局、奏くんは名前を変えられるなら何にしてみたかったの? いろいろ候補はあったようだけど、これというものは最後まで決まってなかったようだし」
「そうだね」僕は顎を擦る、まるで安楽椅子探偵のように。そして、頭の中に書溜めたリストから、遂にある1つに決めてしまう。「……リンゴ・スター、かな?」
「『The Beatles』の? ジョンでも、ポールでも、ジョージでもなく?」と彼女'は言った。
「そう」僕は頷く。「アルバム『ABBEY ROAD』の最初の曲、『Come Together』を聞いてから、僕は彼のドラムの虜なんだ。役者としての僕の在り方を、とても強く後押しをしてくれたから。けして自ら目立とうとしない、黙々と確実に作品を支え続ける。素人目にはそのすごさは分からないけれど、見聞を広めればそこに確かにいて、そして、必要であることが分かる。そんな役者。ただ、それもあいつから提示された役者としての1つの道筋で、舞台から離れた後もずっと忘れたい、否定したいと思っていた。でも、やっぱりそれは客観的に正しい役者の1つのかたちで、僕にどうしようもなくフィットしている在り方なんだと思う」
「うん、俺もそこは否定しないよ」と彼は言った。「奏くんは奏くんなりの俺を、いや、アルを演じてくれたらいいんだ。役を演じるという嘘を通すための土台までもが嘘だったら、それはただの嘘だぜ。表現と嘘の根本的な違いはそこにある。……って、いまさら奏くんに説明する必要もないか」
「いや、改めて身に染みたよ。ありがとう」
僕は謝意を述べた。
「個人的に私は、ジュール、でもよかったと思うけど」彼女'がぽそりと言った。「……ふふ、楽しみだなぁ。奏くんの演じるアルがどんな風になるのか、そしてこの物語がどのように変わっていくのか」
「あれ?」
僕は出抜けにふらついてしまう。
「どうやら目覚める時間みたいだね」と彼女'が言った。
目覚める、つまりは朝を迎えたあの屋敷の、あのベッドの上に還るということか。
「もっと、2人と話したかったんだけどなぁ」僕は正直な気持ちを口にする。「ねぇ、僕たちはまた会えるかな?」
ああ、と彼は答える。「必要になったらね。奏くんが眠った時に現れるさ。ターニングポイントを知らせたり、君が深く悩んでしまった時に。俺たちはもう、友達でもあるんだからな。ワンダー・ウォール、と言った方が、奏くんは喜ぶのかな?」
まるで2人は、ゲームのお助けキャラみたいだ。
彼が続けて言った。「もしかしたら、また別の誰かかもしれないけれど、それはその時のお楽しみかな」
「フェデリコさんやヴィクトリオさん、マリオさんやソフィアさんの場合もあるってこと?」
そう、と彼女'が答えた。「そして、これから出会うさらなる誰かかもしれない」
「その時はまた君の部屋の像を借りるかもしれないし、また別の場所かもしれない」彼がすかさず補足する。
なるほど、と僕は言ってすぐ、頬をピシャリと叩く。「そうだ」
「どうしたんだい?」と彼が言った。
「どうしても聞いておきたいことがもう1つあったんだ」僕は彼の顔を見る。「物語冒頭の屋敷で君が目覚めた時、自身の容姿を確認するために鏡が必要となって自分の足でとりに行った。サラにとりに行ってもらっても全然よかったのに。君はあれを、どういうプランで演じたの?」
「うーん、演技プランを他人に説明するってはしたないと普段は感じるけど、この際だからいいや」と彼は言った。「俺も不思議に思ったんだけどね、歩き方も忘れかけていた、と解釈すれば、うまく呑み込むことができたんだ。自分の容姿よりもまず自分の歩き方を確かめたかった、といったとこかな。……参考になった?」
「――うん、とても」
それだけを絞出して、僕の身体は大きく揺れはじめた。
おはよう、と彼女'が言った。
僕は後背からベッドに倒れ込んでしまう。マットレスは僕を無事に受止めてくれた。スプリングが僕の上体を縦に細やかに揺らす。まるで穴のあいた風船みたいに力が抜けていく。身体が萎んでいき、その上から睡魔がさらに圧潰していくのを感じる。こんな眠気は久方ぶりだ。1日中外で遊び尽くして、そして、父の運転する車の中で訪れた眠りと同じ充溢だった。
「お疲れさま」と女の声が言った。
「お疲れさま」と男の声が返した。互いに、ほっ、と一息をつく。「相変わらずえぐい泣きっぷりだったぜ。流石主演女優様、あっぱれ」
「言い方が意地悪いね」はぁ、と女の声がため息をつく。「でも、いまの彼を動かすにはああするしかなかった。――悪いことしちゃったな、わざと怒らせて、いろんなことも思い出させちゃって」
「必要なことだったよ。俺たちにとっても、彼にとってもね」
「そうだね」と女の声が言った。「いつか演技じゃなくて、本当に彼の頭を撫でて、抱き締めてあげたい」
「心配するなよ」と男の声が言った。「彼なら必ずやり遂げるさ。そしたら本当に頭を撫でてやって、抱き締めてやって、本当のワンダー・ウォールになろう」
「うん」と女の声が言った。「――奏くん、「ハルカ」をよろしく頼むね」
「いたた」
彼女'は自身の両膝を擦った。




