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「……もう、役者は辞めたんだよ」と僕は言った。
「嘘つくなよ、ブ……奏くん」と彼が応えた。「君はまだ劇団に籍を置いているじゃないか。小さい頃からずっとお世話になってきたところに」
「――名前が残っているだけだよ、母さんやマネージャーに言われて。僕はもう、役者は絶対にやらないって決めてるんだ」
ことここまで踏込まれたら、いつまでも有耶無耶にしてはいけないだろう。僕の現存在の根幹について。
そう、僕は「元子役」なのだ。小学1年生になったばかりの時分に――ちょうど転居した直後に――大きな劇団に入って活動をはじめた。もちろん国民的人気なんて得られなかったし、主役級に抜擢されたこともなかったけれど、その彼らをより映えさせるための脇役として、映像や舞台に時折出演していた。学校に全く通えない訳でもなく、かといって監督や大人の俳優には顔と名前を覚えてもらっていた。僕自身も、子役の時は目立ちすぎず、学校の勉強もしっかりとして、それでも裏方の人たちにはちゃんと覚えてもらい、大人になってから実力派俳優として大活躍できたらいい、なんて子どもながらの野心を持っていた。いまとなっては、まったくこっぱずかしい限りだけれど。
しかし、そんな心身共に充溢した生活は、中学2年生の初夏に終わった。僕はその時から、事実上引退の活動休止状態になっている。
「それと、君たちが僕の夢じゃなければ、なぜ僕が役者をやっていたことを知っているんだよ?」
僕は彼女'を見て質問する。
彼女'は答える。「何でって、奏くんが私たちに教えてくれたんじゃない。あの中庸の空間の中で」
「よく分からないな」と僕は言った。「中庸の空間についての認識が君たちと相違ないなら、僕はまるで無害な幽霊のように君たちの物語を観ていただけだ。君たちに触れたり、言葉を交わしたりした意識なんてない」
「そんなものは必要ないよ」彼女'は首を横に振った。「奏くんが私たちの物語からたくさんの感動を受け取ってくれたように、私たちも奏くんからたくさんのものを受け取ったんだよ。奏くんがくれた喜びの表現を介して」
そうだぜ、と彼が言った。「年齢は16歳のAB型+、好きな食べ物は苺。歯を日に3度、1回に5分以上磨かないと気持ち悪くなる。おかげで知覚過敏気味だ。1番好きなロックバンドは「OASIS」。間違いないだろ? そして、君が役者の世界に足を踏み入れた切っ掛けだって知っている。卒園間近の幼稚園の劇で「キリストの誕生」をやって羊飼いの役をした。所謂リレー演技で場面も台詞もほんの少しだったけど、その時の楽しさが忘れられず、母親に頼んで有名な劇団に入団させてもらった。そうだろう?」
「……随分と懐かしい話だ」
当時のことはぼんやりとした記憶しかないけれど、本当に愉しかったことは総身が覚えている。おおらかな震えが、揺籠みたいに僕を包みはじめる。
彼は続ける。「そう、全ては奏くんの喜びの中に含まれて俺たちに届いてきたんだ。まるで舞台終演後の演者挨拶で客席から上がった歓声が、そのまま自身の血液に溶け込んでくるみたいに。それが俺たちの動くエネルギーになる。奏くんも経験があるだろ?」
「――うん」
僕は肯定した。ある種のトランス状態において、目の前の観客の瞳を見詰めると、幼心にその1人1人の人生がそこに映って見えたような気がしたものだ。僕の場合それはただの観念だったけれど、彼女'たちにとってはそれは実際なのだろう。素晴らしいな、羨ましいな、と僕は思った。
「君たちはまるで、物語に宿る精霊みたいだね」
まるで『クリスマス・キャロル』のように。
「お、その表現いいね。幽霊とかよりよっぽどいいや」と彼は言った。
「そうだね、ふふふ」と彼女'も応えた。
「それで、その精霊さんたちが消えてしまうとは、いったい?」僕は話の筋道を修正する。
「まずはじめに勘違いしないで欲しいのは、いますぐ消えてしまうということではないんだよ。多分奏くんよりは長生きするかもね」と彼女'は言った。「話せばそれなりに長くなるんだけど」
「どれくらい?」
「そうだね、ジェームズ・カーターの自慢話くらいかな」
「うん? ジャズミュージシャンの?」
「映画「ラッシュアワー」の、クリス・タッカーが演じた」
「ああ、――じゃあ聞かない。……なんて言わないよ」
「ふふ、ありがとう」
彼女'は僕の好きなタイプの冗談を言うんだな、と思った。きっとそれも、僕が彼女'に向けて教示したことなのだろう。ある種のメタファーに変換されて。
「改めて言うよ。私たちは役者、「ハルカ」が綴った『レオ』の世界を読者の頭の中で再生するために生まれた概念的存在。ここからは精霊で統一しようか」
うん、と僕は相槌をいれた。
「「ハルカ」が物語に込めた願いと読者の求める救い、それらを掛け合わせて個別的な最高のパフォーマンスを披露すること。それが私たちの最良の望みなんだよ」
「とても素敵な話だ」と僕は言った。「物語には総て、君たちのような精霊が生まれるのかい?」
そう、と彼女'は答える。「物語という像をとったものには全て精霊が宿る。ただ、その象をとるところまでいけずに生まれ損なったものたちもたくさんいる。そういったもの中には、人を呪い苦しめてしまうものもいる。そして、他者を攻撃せずにはいられなくさせる」
「よく聞く話だ。まるで著作権が生まれる以前の昔話みたいだ」と僕は言った。あるいは、『失われたものたち本』。
「昔話を馬鹿にしちゃいけないよ」と彼女'は言った。「いま尚語り継がれる彼らの語ることは、普遍的な真理に触れていることが多いんだからね」
「よく分かるよ。『源氏物語』や『アラビアンナイト』がまさにそうだ。でも、それらと同じくらいに君たちの物語は、僕の心を救ってくれていたんだ」
とても嬉しい言葉だよ、と彼女'は言った。横で大人しくしていた彼も、嬉しいなぁ、と囁いた。
彼女は続ける。「『源氏物語』に『アラビアンナイト』、彼らには永遠がほぼ約束されている。著者はもう遥か昔に亡くなっているけど、人々の心の中でいまも生き続けている。そして、前世紀には電子データでの保管方法も確立された。たとえ人類が滅んでも、地球が爆発四散でもしない限り、地球外からやってきた生命体が残されたデータを発見し解読して読まれる可能性だってある」
はじめは1人の頭の中だけにあったイメージが、果ては宇宙規模にまでリンクする。なんて夢のある話なのだろう。
「しかし、大方の物語はそうじゃない」と僕は言った。
「その通りだよ」と彼女'は答える。「電子データが生まれる前は、作者が死んで原本が喪失し誰も読む人がいなくなれば、私たちは完全に消滅することになる。『リメンバー・ミー』みたいに。いまはデータでの保管が常だろうけど、不慮の事故でそのデータが失われたり、もう読まれる見込みがないと作者や管理元が削除してしまうことだってあり得る。まぁ、日本には国会図書館という素晴らしいシステムがあるけどね。戦争や災害で失われない限りは。それにね、商業作品だと売上が悪ければ途中で打ち切られる。そこでたとえプライベートでも作者が続きを書く気を無くしてしまったら、宙ぶらりんのままに最期を迎えることになる。そうやってこれまで多くの物語が世界から失われてきた」
「人間と一緒だ」と僕は言った。「どれだけ医療が発達しても、人は必ず失われる。そして、目標を失えば、死んだも同然だ。ただ、ジョン・レノンやマイケル・ジャクソンのようなヒーローだけが、人々の心の中で永遠を生きられる」
そう、と彼女は同意する。「それが私たちはすぐ消えるわけではないと言った理由」
「しかし、このまま世界の道理に従って消えると不都合なことがあると」と僕は言った。「それはやはり、物語のラストに関係するのかな」
「話が早くて助かるよ」と彼女'は言った。「ほんとうに奏くんは頭がいい」
「世辞はよしてくれよ」
「いや、そんなことはないよ。奏くんは賢い、だからこそ選んだんだ」
「選んだ?」
「そう。私たちは「ハルカ」と奏くんの間にのみある個別的な存在じゃない。「ハルカ」と全ての読者の間に同時的に繋がっているんだよ。いまこんな風に奏くんと話しながら、他の複数の読者それぞれにパフォーマンスを見せている。謂わばスーパーマルチタスクなんだよ」
「はぁ、それを聞くとまるで神様みたいだ」と僕は言った。
「神様は「ハルカ」だよ。私たちにとってはね」
「じゃあ、君たちは「ハルカ」の天使だね」
「精霊に天使、ふふ、人に世辞がどうこう言いながら、奏くんの方がよっぽどうまいんじゃないかな」
彼女'がいたずらにからかってくる。彼も、はっはっは、ちげぇねぇ、と笑っている。
「で、話はこれで終わりかい?」
僕はムッと眉を顰めた。敢えて述べるけれど、別に怒ってはいない。ただの警めだ。
「いやいや、本筋はこれからだよ」彼女'は、こほん、と咳払いをする。「そのためにはまず「ハルカ」のことを話さないとね」
うん、と僕は反射的に頷いたけれど、すかさずに口を挟む。「ねぇ、それって正しいことなのかな」
「どういう意味?」
「読者、つまり受け手の僕が、書き手である「ハルカ」の内心やプライバシーに触れていいのだろうか? 彼女から開示した訳でもないのに」
「それはまったく気にしなくていいよ」彼女'は答えた。「奏くんは既に、この物語のキーパーソンとして含まれてしまっているからね」
「……つまり、『お前はもう事件に巻き込まれている! もう逃れることはできないんだ!』ってこと?」
「うーん、平たく言えばそうなるのかな。ふふ」
「勘弁してくれよ。僕はペシミストとして、人生を台詞も行動マスもないようなNPCとして終えてやるって決めてるんだ。やれやれとか言いながら、まんざらでもない顔で事件を解決するような無気力系の主人公みたいなことはしたくないんだよ」
「私はどちらかと言えば、『燃えてきたぞ!』とか言って大暴れするようなタイプが好きよ」
彼女'の、好きよ、という台詞に、心臓の下部が一瞬こわばった。
「ど、どちらでもいいよ。というか、彼はそんなタイプの主人公じゃなかっただろ」僕は吃り気味に言った。「まぁ、いまの彼なら言いそうだけどね」
「いやいや、俺は忍者みたいに不意を突いて無言のまま確殺するタイプが好きかな。だってばよ」
最後に余計なことを言いながら、彼は印を結んだ。ほんと、どっちでもいいよ。
「つまりはあれだろ」僕は彼を無視して続ける。「君たちは僕に、彼を演じ通して欲しいと言いたいんだ。君たちでは「ハルカ」が綴った通りの筋にしか従えないから」
「まさにその通り。ほら、やっぱり賢い。この大役は君にしかできないんだよ」
彼女'は微妙に肩を竦めて、両掌を上にして見せた。彼は、ヒュー、と口笛を鳴らす。夜の口笛は蛇を呼び寄せるんだぜ、と僕は指摘したくなったけれど、やめた。もう既に、蛇はここにいるのだから。
「問答無用で僕の部屋をこんな風にしてよく言うよ」
僕は映し鏡のように両掌を上にして、わざとらしく呆れた表情を見せる。
「あら、ここは厳密には奏くんの部屋じゃないんだよ。さっきも言った中庸の空間に似たところ、あくまで奏くんの部屋を模してつくった空間なんだ。君にできるだけリラックスして欲しくてね。だからスマートフォンはなかった。リラックスには余分だから」と彼女'は言った。「そしてほら、本棚をよく見てごらん」
僕は彼女'の言う通りに本棚を見る。じっと観察すると、彼女'の言いたいことが理解できた。僕本来の自室ではみっちりと詰まっていたのに、いまは隙間がある。『レオン』を収めていた部分がごっそり消えているのだ。
「ご名答」彼女'はまた見透かすように言った。「奏くんには新たな『レオン』の物語を刻んで欲しいんだ。あの最悪なラストを塗り替えるために」




