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「うう、む」

 肩まで積もった泥濘を掻分けていくような重だるさを伴って、僕は半覚醒の状態になった。いったい、どれほど眠っていたのだろうか? 角膜がざらざらと乾燥していて、目を開けるのが実に億劫だ。まるで濡れた紙が乾いた時みたいに、目蓋と粗雑に張りついている。小学生の頃、用があってカラーコンタクトを装着し、そのまま眠ってしまったことがあるのだけれど、その時の不快感ととても酷似している。

 僕は目蓋の上から目を揉解すため、右手を掛布団の中から引出そうとする。すると、ベッドサイズに変化が生じていることに気づいた。腋を開く予備的動作だけで、ベッドの枠から右肘が(はみ)出してしまったのだ。僕は飛上がるほどの勢いで上体を起こした。そして、辺りをざっと見回す。


 焦点は未だ精確ではないけれど、そこは間違いなくいつもの自室だった。7畳程度の小さな空間。学習机、小形の薄型テレビとその台、洋服だんす、本棚、恐竜のフィギュアを飾る木製の陳列棚、日焼けしたモスグリーンのカーテン、キャラメル色のラグマット、備えつけのクローゼット、小さなごみ箱。僕が11年と付合ってきた部屋だ。


 僕は両手で自身の顔を覆う。触れ慣れた平たい形状を、掌に突刺さるように感じた。彼の美麗ではない。かててくわえて、また当然のこととして、右手中指に勇者の証もない。悉く生温い。僕は震えこわばる手を下ろして、自身の首から下も確認する。貧弱な肢体に、黒無地ハーフサイズのシャツとパンツ。化学繊維で編まれた、僕の最も着馴染んだルームウェアだ。


 はぁああああ……、僕は生涯で随一のため息をついた。


 夢は醒めてしまったのだ。いまに来ると分かっていたことなのに、萎みきった風船の如く愕然としてしまう。いや、これほどまでに気を落としてしまうのは、僕があの夢の出来事や感触をはっきりと覚えているからにほかならない。目覚めた瞬間から訪れる底の破れた砂袋みたいな喪失が、いまに限っては微塵もないなのだ。総て記憶している。穏やかな海水の感触も、彼女の声と多様な表情も、その肌の温もりも。

 やはり、あれは尋常の夢とは違ったのだ。特殊で、救いに充溢した夢。それもきっと、「ハルカ」の物語的魔術に依って与えられた、玉響の情景なのだろう。僕はそれを忘却したくない。せっかく与えてもらったものを手放したくない。いますぐ何かしらにメモしよう。そして、可及的速やかに、予定していた個人的補完の作業にとりかかるのだ。


 

 いや、待てよ。僕は違和を覚える。夢に落ちる直前、状況的に僕は床に倒込んだはずだ。だったら何故、僕はベッドの上にいるんだ? しかも、掛け布団まで被った状態で。それに、いま何時だ? 部屋の照明はつけっぱなしだった。そのうえ、閉じられたカーテンの奥から陽光が差込んでくる様子もない。未だ真夜中だ。母がベッドに丁重に寝かせてくれたのだろうか? 床に座込んで眠ってしまったと勘違いして。……いや、腑に落ちない。母にそれが能う膂力はない。帰宅後の父が手伝ってくれたとして、僕が途中で気づかない訳がない。何より、照明を消してくれるはずだ。……いや、やはりあの時から総て夢だったのかもしれない。きっとそうだ。あんな幕切がリアルのはずがないのだ。僕はこれから正しい最終巻を買いに行き、改めて刹那的に救われる。それが道理なのだ。そのためにはまず、いまの日付と時刻を確認しなければならない。スマートフォンの表示を確認するのだ。

 ――おかしいな、いつも枕許に置いているはずのスマートフォンがない。いったいどこにいったんだ? 落としたか? 僕はベッドから身を乗出して、床に右手をついて隈無く見る。しかし、何処にも見当たらない。眠っている間に落とした訳じゃない。いったい、どこにいったんだ?



「ここにスマートフォンなんて無粋なものはないよ」


 え?


 まただ、あの不可思議の声。あの小説、『レオン』のカバーから聞こえてきた声。音高の高い若い女性の声、朝に鳴く鳥のような声。ただ、何故だろう。いまはよりいっそう心を揺さぶられる。優しい陽光のような声、甘い紅茶のような声、温かい湯船のような声、柔らかなタオルのような声、焼きたてのパンのような声。ありふれているけれどささやかな形容が、とめどなく溢れてくる。……いや、何故だろう、なんて()()()()。僕は先ほどまで、その声音に心の鱗を実際的に溶かされていたのだから。

 勿論、僕はいま『レオン』を手にしていない。そして、声は学習机の方から聞こえてきた。僕はそちらの方に、目をやった。


「はぁ? …………」

 僕は驚愕する。人がいる。女性だ。いつ現れた? 僕の学習机の椅子に座って(右足を座板の上に乗せ両手で抱え込んで、左足は下ろしている)、僕を見下ろしている。

「やぁ」

 声の主は言った。まるでコミュニケーションの達者な人間が、そうではない他者の緊張を解そうとするみたいに。僕は返事をせず、相手に目を凝らした。

 褐色の肌と細長い黒曜石を束ねたような長髪、すらりと伸びた高い鼻、きりっと引き締まった眉毛、長い睫毛、厚い唇、控えめな耳、その右耳のたぶの2つの黒子。


 彼女だ。サラ・ベニーニだ。

 僕は乾いた瞳が温かく潤っていくのを感じた。それは露も溢れることなく、ぼやけていた僕の視界に鮮明さを呼戻した。背景に光を散らしたような()()()()()も伴って。その鮮烈な情景においても、彼女の象は欠けるところなく健在だ。僕は思わず熱い息を漏らしてしまった。鼓動もどんどんと高鳴っていく。

 でも、何故彼女が僕の部屋にいるんだ? 僕は未だ、不可思議な夢の続きを見ているのだろうか? しかし、いまの彼女の服装は、あの可憐なワンピースではない。小説の表紙イラストで描かれた冒険者風の衣装を身に付けている。2色の濃淡の違うブラウンを組み合わせたズボンとトップス、黒い革のベルトに、カーキ色のフード付きマント。黒のブーツは履いていない。黒い靴下を履いている。


「ここは夢じゃないよ」彼女は見透かしたように言った。「かといって現実というわけでもないんだけどね」

 その彼女の声を改めて聞いて、僕はまた違和を覚える。いまにして思えば、現在目の前にある彼女と物語のなかで実際的に触れた彼女、その声の成分、つまり()()としては間違いなく同一のものだ(『レオン』のカバーから聞こえたそれも含めて)。しかし、印象がまるで別人だ――物語のなかで当初結びつけられなかったのもその所為である――。勿論、物語のなかの彼女も信頼関係を結ぶにあたって敬語ではなくなっていくのだけれど、それでもまったく違う。ピッチと言葉選びがまるで異なる。なんだろう、目の前の彼女は、彼女を演じる俳優のプライベートな姿といった雰囲気なのだ。

 いや、夢のことで何をそんなに真剣になっているんだ。僕は試しに舌先を軽く噛んでみた。犬歯の尖った部分でぐりぐりと。痛い、感覚はリアルだ。あの時から総て連続している。あの特別な夢は未だ継続していて、それがこの違和を生んでいるのか。目の前の彼女は、夢ではないと言っているけれど。


「……つまり、どういうこと?」

 僕は「彼女'」(已後そう便宜的呼称する)に質問する。自身の鼓動があまりにも大きくて、そんな短い言葉を発するのにも苦労した。咽頭までも圧迫されているみたいに。

「ここは奏くんのいうところの中庸の空間に近似している場所なんだよ。ふふ、カーテンを開けて外を見てご覧よ」

 中庸の空間、何故そのワードを彼女'が知っているのだろう? 本当に僕の心が読めるのだろうか? いや、総ては僕の夢なのだから当然か? 頭がひどく混乱している。他にも聞きたいことが山ほどあるけれど、僕は総てを一旦呑込んで、彼女'の言葉に従ってみる。掛布団を乱雑に押退けベッドの上で足を崩し床に手をついていた状態から、すくっと立上がる。そして、窓の前に赴く。床や自身の歩行感覚に違和はない。ふつうの自転車だ、補助動力もない。

 カーテンに右手を掛けた時、僕は更なる違和に気づいた。僕の住む街は、たとえ夜中でも完全に辺りから人の気配が消えることはない。車両を中心とした機械の音や明かりが部屋の中に羽虫の如く入ってくる。しかし、いまはそれがまるでないのだ。


 僕はカーテンを開く。「――はぁぁあ!?」

 虚無だ。何もない空間が窓外に広がっていた。宇宙的暗黒。ただその暗黒が保証してくれている親しんだ事実もあった。暗黒を背にして、ガラスが反映させている僕の顔。美しくもないし特別醜い訳でもない、地味だふつうだと、呪詛のように言われ続けてきた容貌。


「ビックリするのも無理はねぇよ。俺たちからしても、いまのこの状況はとびきりの奇跡みたいなものなんだからな」

 僕の真後ろ、この部屋の扉の方から、今度は男の声がした。若いが低めの声。僕は慌てて振返る。


 彼だ。僕のイメージした通りの声で話すレオン・ルブルムだ。彼も小説の表紙で描かれた冒険者風の衣装を身につけている。彼女'とまさにペアルックといったデザインに加えて、ベルトと交差するようにソードホルダーを装着している。ただし、剣は携えていない。


 何なんだ、次から次へと。何故彼らは僕の心をこれほどまでに揺さぶろうとするのか。いや、それは僕自身が希んでいるということなのか?


「ちなみに、この扉の先もこの通りさ」

 彼が扉を開けると、また虚無がすぐそこにあった。どうやらその虚無の中で、この部屋だけが浮いている状態らしい。

 僕は再び彼を見据える。

「そんな幽霊でも見たような目を向けないでくれよ。俺はあの物語の中でも一応は死んでないんだぜ」と彼は言った。「でもそれだと、サラは幽霊みたいなもんか」

「ちょっと、その言い方はあんまりじゃないかな」

 彼女'はムッとする。なんだろう、2人のフランクなやりとり――とりわけ彼が彼女'を呼捨てにするところ――を端で見ていると、無性に腹がたってくる。彼はハッハッハと、陽気なカリフォルニア人のように笑っている。それなのに、まったく日焼けをしていないところが余計に胡散臭く感じる。いや、これもひどい偏見だ。


「そんな怖い顔するなよブラザー」彼は一頻り笑い終えてから言った。「俺たちは本当に嬉しいんだぜ、君と直接に顔を合わせて話すことができてね」

 彼もだ。彼も小説の中の人物像とは著しく乖離している。好青年な要素がどこにも見当たらない。

「――当たり前だよ。これは僕の夢なんだから」と僕は言った。「君たちは僕自身があの物語に諦めを持たせるために生み出した、虚偽、幻なんだ。だから君たちは、僕の中にある本来の君たちのイメージを損なうようなキャラクターで登場しているんだ」

「だから夢じゃないって、言ってるじゃない」彼女'が泣きそうな声で言った。僕は慌てて彼女'の方を見る。彼女'は眉間に皺を寄せながら、座板に乗せている足の指をぎゅっと握緊めている。「……お願い、話を聞いて。私たちの存在を信じて」

「……わかった」

 彼女'の完璧な容貌で鬼気迫る表情をされたら、否定できるはずがない。僕はベッドに戻って腰掛ける、まさに『レオン』を叩きつけた時のように。

「そうカッカすんなよブラザー」彼が僕の右隣に座りながら言った。そして、肩に左腕をまわす。「ほれ、ちゃんと()()しているだろう」

「僕に向かってブラザーなんて宣うのは何かの嫌味かい」僕はすかさずに応える。エミネムのような早口で。口にした言葉が、剃刀みたいに攻撃的になっている。心の内に浮かんだ言葉が剥出しのまま、こちらの制止も聞かずに飛出していく。「僕の見呉をからかっているのか?」

「そんなつもりはないよ、ただの親しみを込めた呼び名さ。まったく、何をそんなに怒ってるんだよ」

「怒ってるよ。君が彼女を守りきれなかったことを。彼女を無惨にも死なせたことを。あの物語をぶち壊したことを。そのくせにヘラヘラとした態度で、ムカつくんだよ」

「奏くん、それはひどいよ」と彼女'が言った。「分かってるでしょ? 彼にもどうにもできなかったことだって」

 ああ、もちろん分かってるよ。さっきの言葉こそが虚偽だ。僕が怒っているのはそんな理由じゃない。嫉妬とコンプレックスと、そして、()()だ。

「いや、君の言う通りだよ」と彼は言った。まわしていた左腕を外し、両掌を顔の高さで見せながら少し距離を取る。「確かに俺の態度は不適切だった。ごめんよ」

「……」

 対して、僕は謝ることができない。

「本当に君に会えたことが嬉しかったんだ。このままただ消えるしかないのかと思っていた時に、俺たちを救える可能性を持った君とコンタクトが取れて、ついテンションが舞い上がってしまったんだ」

「――消える、ってどういうこと?」と僕は言った。「君たちは、いったい何者なんだ?」

「奏くんと同じだよ」と彼女'が答えた。

「同じ?」


「そう、私たちは()()だよ」と彼女'は答えた。


「役者……」

 思いもよらない答えに、僕は言葉を抜出すことしかできない。

 そう、と彼女'は言った。「「ハルカ」が紡ぎだした『レオン』の世界を、君()()の頭の中で再生するために、私たちは()るのよ」

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